第31話 メモ

 小川拓斗から評価をもらった日の夜。


 ようやく、夏休み最後のバイトが終わった。長いようで短いような、そんな二か

月間で、三日後には学校が始まる。


 更衣室で私服に着替えながらスマホで黒音ちゃんの相談に乗る。


 ネット上ではあんなに大胆にリアクションを取ったりリスナーを歌で魅了してし

まうのに、リアルの恋愛に関しては専ら奥手らしい。リアルで会った当初はとげとげ

していて怖いイメージがあったけど、今となってはどこにでもいる可愛らしい女の子

だと思える。


 そんな彼女に、浴衣のことを聞かれたときは、ヒデ君の好みを聞いてアドバイス

をした。なんて、嘘だ。ヒデ君には何も聞いていない。実際は、俺がいいと思った

ものを彼女に提案した。


 好きになってしまった。


 俺が、彼女のことを。


 それでも、二人がくっついてくれた方が、俺はいいと思った。靡かない人をずっ

と追い続けるのは、きっと苦しいから。


 そんな気持ちで、彼女に返信をする。


 最終日は電車に乗って、海水浴だ。恋愛関係にはなれなくても、彼女の水着姿は

見れる、などとゲスな思考を巡らせる。彼女に言ったらまた耳を引っ張られるだろう

な。意外と痛いんだよな、あれ。


 「お疲れさまでした」


 残って作業する店長に大声であいさつする。店長は、事務室の奥にある調理場

で、サイドメニューのパン生地を下準備していた。

 「ああ、お疲れ!」



 店長も声を張って俺に届ける。


 「九月下旬のシフト分かったら教えてー!」


 「はい!」


 もちろんびっしりと働きます、というニュアンスをたっぷり含めて俺は応答した。


 




 ここで働くスタッフは、一般の人が入れない、お店の裏口から入店し、屋外で風

がしっかり当たる階段を上り、更衣室や店長室のある事務室に入る。そこから、次

は屋内の階段を下って一階の売り場へ行く。


 だから、帰りは屋外を下って帰る。雨の日や冬の寒い期間は、特別に売り場を通

って二階へ入店することができるが、夏場の雨天ではないときは基本的には屋外の

階段で帰る。


 ドアを開けるとすぐに階段があるのだが、そこの踊り場に、メモ帳のようなもの

が落ちていた。


 最近入ってきた研修中の人が落としたのだろうか。


 拾い上げようとしたメモ帳は、開きっぱなしで、二ページ分が筒抜けだった。


 それを拾い上げて、読んだ。


 少し一瞥するくらいで、バイトとは違う内容が書かれていたらすぐに閉じようと

思った。


 「えっ…」


 バイト以外の内容だった。


 俺は、困惑していた。


 ただ、バイト以外の内容で、それを見てしまったという罪悪感からではない。


 そこに書かれた内容に、俺は、ただ。


 身体を流れているこの汗は、本当に夏の暑さによるものだけなのだろうか。


 興奮している胸中は、忙しい仕事をしたことによるものだけなのだろうか。


 いずれも、半分は該当して、もう半分は該当しない。


 『君が、なれると信じているものに、君はなれる』


 『五年後に、君は変われる』


 メモ帳の一部を再び丁寧に読み上げる。ある単語に、敢えて目をそらしながら。


 ほかのページにも目をやる。あの単語が、いくつも書かれていた。


 興味と緊張から、視線がメモ帳の内容から逃げられなくなっていた。


 その時。


 ドアが開いた。


 俺は、慌てて、メモを閉じた。


 「お前…、それ…」


 その人物は、言葉を失いかけたように瞬きをせずに目も口も中途半端に開きっぱ

なしで、その様子から、俺は目の前にいる『こいつ』がメモの持ち主だとすぐに分

かった。


 「…えせ」


 『彼』は、自分の両手を潰すようにグーの形にして、寒くもないのに両肩をグイっ

と上げて、頭を下に下げながら、呻くように呟く。


 「えっ、あっ…」


 彼が怒っていることに気づき、右手でメモ帳を差し出そうとするが、遅かった。


 「返せよ!!!!」


 彼は、怒鳴った。


 身体中の憎悪を外界に放出するように、怒声を発して、俺を圧倒した。


 「うぁっ!!」


 そして、突き飛ばされた。


 そのまま俺は、階段を踏み外し、金属でできた階段たちに何度も打ち付けられな

がら、一階まで転がされた。


 めまいのような掠れた意識の中で、俺は、彼の顔を見上げた。


 俺の姿を見て動揺した顔。


 やってしまったと、きっと血色が悪化し、どんどん青ざめていく表情。


 「違う…」


 彼は呟いた。


 「俺は違う、俺のせいじゃない。俺じゃない俺じゃない…、もとはと言えばあい

つが…、違う…、違う…、違うんだ! 違う。違う違う。違う違う違う違う…。ち

がぁぁぁぁう!!!」


 頭を、まるで締め付けられているかのように両手で抱える『週末ヒーロー』。


 ヒーローは、階段を駆け下りて地に伸された俺を股越し、街の中へと逃げ去って

いった。



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