小さな獅子の伝説

狛犬わらび

この物語は、アルゼンチンのロサリオにて始まる。

彼の名前は「リオネル・メッシ」

ヨーロッパの面影がいろ強く残るここで、彼は産声を上げた。

父は工場労働者。母は、パートタイムの清掃員。

というあまり裕福でない家庭に生まれる。

メッシは幼い頃から物静かで恥ずかしがり屋な性格だったという。

そんな性格だったのだが、物心ついた時からサッカーボールを友達とし、いつも追いかけていた。

五歳になった時から、父がコーチを務めるクラブで本格的にサッカーをはじめ、1995年には、地元屈指の名門「ニューウェルズ・オールドボーイ」のユースチームに加入する。

当時敵なしで、「La Maquina del '87」と称えられた、ニューウェルズのユースチームの一員であったメッシは、当時八歳だったのにもかかわらず、周りの子供たちとも比較にならないドリブルスキルを持ち、メッシは、プレーしていた六年間で、約500ゴールを記録した。

そう、彼はロサリオのユースサッカー界での伝説的な存在となったのだ。

だがしかし彼が、十歳の時両親は、ある疑問を抱いた。

ほかの同年齢の子供たちよりも成長が遅れていたのだ。

両親が、彼を病院に連れていくと、彼が「成長ホルモン分泌不全性低身長症」を患っていることが発覚。

わずか一万人に二人が発症するこの病は、成長ホルモン投与などの治療なしでは、体は、十分に発達しないという厄介な病である。

彼はそのように診断されたが、初めに記したようにただでさえ低所得の家庭だったため、治療費を払うのが困難になる。

当初は、ニューウェルズも工面に同意していたのだが、支払う金額が、あまりにも高額だったため結局工面を、拒否した。

その後メッシのあこがれであった、パブロ・アイマールが所属しているリーベル・プレートがメッシをスカウトし、一部の支払いに申し出たが、当時アルゼンチン経済は崩壊しており、治療費を払うのが困難になり少しずつクラブからの支払いが滞っていった。

そしてついには、獲得をあきらめた。

体が発達しないことで、大好きなサッカーができなくなるかもしれない。

そんな絶望と必死に戦っていたまだ幼いメッシに、奇跡が起こる。

13歳の時、あのスペインの超名門FCバルセロナのユースチームの入団テストを受けられる機会があった。

当時、バルセロナの監督だったカルロス・レシャックはメッシのプレーを一目見ただけで、あの小さな体に秘められた驚くべき才能と将来性が宿っていることを悟る。

彼の目には別次元にいるようなメッシがうつる。

そしてレシャックはすぐさま合格を決めたが、当時ヨーロッパではメッシのような若い年齢のプレイヤーと契約することはとても珍しいことだったのと、それのせいで会長がなかなか契約を前へ進めてくれなかったため交渉は難航した。

だが、レシャックは、メッシ獲得をあきらめたくなかったため自身の権限の下メッシをバルセロナに入団させると約束した。

この時レシャックは契約書となる紙をもっていなかったため、紙ナプキンにこの契約を書き留めた。

その後FCバルセロナは家族揃ってのバルセロナへの移住を条件に治療費を全額負担することを約束し、家族もこれを快諾。

2001年2月、メッシは家族と共にバルセロナへ渡りバルセロナの本拠地であるカンプノウ近くのアパートで暮らし始めた。

2001年3月1日、正式契約を結びスペインでの生活を本格的に始めることとなった。スペインでの最初の1年間、ニューウェールズとの移籍交渉が難航していたため親善試合とカタルーニャリーグにしか出場出来なかった。

サッカー外ではメッシはあまり喋らなかったためチームメイトと馴染むのに苦労した。

母が兄弟と妹のマリア・ソルと共に故郷に帰り父と2人で生活している時、メッシはホームシックに苦しんだ。

スペイン在住となってからでもアルゼンチン時代の幼なじみや友人知人とはこまめに連絡を取り合っていた。

ユースチームで投薬治療を続けた結果、身長は170cmまで伸び、選手としても一流のテクニックを披露するまでに成長。

17歳となった2004年10月16日、第7節エスパニョール戦にてプリメーラ・ディビシオン・デビューを果たすと、第34節のアルバセテ・バロンピエ戦で初得点。17歳と10ヶ月7日で決めたこの得点は、後にメッシ自身のアシストからボージャン・クルキッチが17歳と51日で記録するまでクラブ史上最年少得点だった。

このシーズンはレギュラー定着とはならなかったが、その才能をのぞかせ、リーガ制覇を経験した。

バルセロナと2014年まで契約期間を延長し、スペインの市民権を得て臨んだ2005-06シーズン、リュドヴィク・ジュリとの右ウィングのポジション争い時にこのフランス代表のライバルを上回る活躍を披露。

ワールドユースも含めた質の高いプレーが人々に認知され、イタリアのスポーツ紙Tuttosportが選ぶゴールデンボーイ賞(U-21欧州最優秀選手賞)にクリスティアーノ・ロナウドやウェイン・ルーニーを抑えて選出された。UEFAチャンピオンズリーグの対チェルシーFC戦・1stレグをはじめ、相手左サイドをしばしば混乱に陥れるビッグプレーを見せたが、対チェルシー戦の2ndレグ中に右足の筋肉を故障し、その後のシーズンを棒に振った。リーガでは17試合、チャンピオンズリーグでは6試合の出場に終わったが、チームはリーガ・エスパニョーラ、チャンピオンズリーグの二冠を達成した。

2006-07シーズンは前述の右足の故障による欠場が目立ったものの、右サイドから切れ込むドリブルが冴え渡り数々の印象的なプレイを披露する。

バルセロナ最大のライバルであるレアル・マドリードとのエル・クラシコでは自身初のハットトリックを達成、スペイン国王杯準決勝1stレグ、ホームでの対ヘタフェ戦においては、センターサークル付近から5人をかわして得点を決めた。

後者はアルゼンチンサッカー界の英雄ディエゴ・マラドーナの1986 FIFAワールドカップにおける伝説の5人抜きゴールとほぼ同じコースを辿った、同じ13回のタッチでのゴールであり、当時のリーガ最少失点チーム相手に繰り出した「マラドーナ2世」と呼ばれる彼の「後継者」たる所以を見せ付けたスーパープレーだった。

第37節のエスパニョール戦では、マラドーナばりの「神の手」ゴールも記録した。チームはリーガ3連覇とチャンピオンズリーグ2連覇のどちらも達成できずに終わったが自身はリーグ、カップ合計で36試合に出場し17得点と奮闘した。

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