ヒロインになれなかった女、ヒトミ
「ねえ、運転手さん……あたし、元の世界に帰りたいな」
ヒトミの突然の一言に、俺とエリウは絶句し、しばし呆然としてしまった。
元の世界に帰る――それが可能であることを、俺たちは昨日タクシーから聞かされたばかりだ。だがその意味を、俺はあまり深く考えないようにしていた。それはとりもなおさず、俺たちの別れの可能性に繋がってくるからだ。
俺とヒトミは本来、この世界の住人ではない。タクシーの不思議な能力のおかげで転移してきた、この世界から見れば異世界人である。そして、異世界人である俺たち、特に俺が、世界の均衡を大きく破る力を用いて、本来紡がれるべき歴史を大きく歪めてしまった。その是非は別として、極めて異常な事象であることぐらい、俺もエリウも充分理解している。
俺たちの心情を察したらしいヒトミが、わざとらしく大袈裟に笑いながら言った。
「アッハッハ。ちょっと、何? 二人とも、しんみりしちゃってさ。別に、運転手さんにも一緒に帰ろうって言ってるんじゃないよ。あたしだけ元の世界に戻してくれたら、それでいいから。あたしたちをこの世界に連れて来たのがタクシーだって聞いてからさ、あたし、タクシーに聞いてみたんだ。元の世界に帰ることはできないかって。そしたら、『帰してやることはできるが、主殿の許可を得なければならないし、主殿を乗せていなければ私は動くことができない』って。でもさ、運転手さんに聞いても絶対ダメって言われるに決まってるし……だから、ずっと待ってたの。エリウちゃんと運転手さんがくっつくのを」
「俺たちが……くっつくのを?」
「そ。エリウちゃんが運転手さんのことを好きなのはミエミエだったし、運転手さんとエリウちゃんが本気でラブラブになったら、体だけが目当てのあたしはもう用済みでしょ? そしたらきっと、あたしを元の世界に帰してくれるはずだと思って」
「よ、用済みって……わけじゃ……」
まあたしかに、エリウと愛を誓ってしまった以上、これまでと同じようにヒトミやカルラやイリーナを抱くことはエリウが許してくれないだろう。しかし、だからって、別に用済みだなんて思っちゃいねえんだが……。
「ヒトミ、お前、サンガリアの奴らに文字を教える話はどうなったんだ? 今もまだ続けてるんだろ?」
「うん、まあ……でも、それは別にあたしじゃなくても、運転手さんでもできるじゃない? 戦いが終わったらさ、運転手さんも暇になるんじゃないの? あたしの代わりに教えてあげてよ」
「人にものを教えるなんて、俺には難しくて……」
「それはあたしだって同じだよ。教えられるほど頭良くないからさ、あたし……」
ヒトミは身を翻してこちらに背を向け、雲一つない青空を見上げながらゆっくり歩き始めた。
「別にね、この世界が嫌になったわけじゃないんだ。景色は綺麗だし、サンガリアの人達は色々よくしてくれるし、カルラちゃんという友達もできた。でもね……何だかな、やっぱりここはあたしがいるべきところじゃないって感じがするんだよね。運転手さんはさ、サンガリアのみんなにとって必要不可欠な存在だと思うけど、あたしは別にそういうんじゃないし……」
そんなことねえよ、と言いかけて、俺は思わず口を噤んだ。この世界でヒトミにしかできない特別なことが、具体的に思い浮かばなかったからだ。
でも、それは元の世界に戻っても同じなんじゃねえのか? 美人だがもうそんなに若くもねえ水商売の女ができることなんて――いや、わからねえ。今までヒトミが何も言わなかったから考えもしなかったが、もしかしたら水商売にやりがいを感じてたかもしれないし、仕事じゃなくても、何か生きがいを得られるような趣味があったかもしれない。田舎の親に仕送りなんてしてた可能性も……。
さんざん好き勝手やっといて今更かよって? 今更で悪いかよ!
「それにさ、もう香水も化粧品も切れちゃったし、スイーツとか、焼肉とか、ラーメンとか、ちょっと恋しくなってきたし……そうそう、ソシャゲも、ずっとやってないからそろそろログインしときたいし。それに何か月も出勤してないと、客にも忘れられちゃうかも……ああ、でも一月以上も無断欠勤してるから、とっくにクビになってるか。あと、浮気性でクズでヒモで正直惰性だけど一応彼氏もいるし……まあ、こう見えてもさ、色々あるんだわ、あたしも」
「……そうか。そうだよな……人間誰だって、生きてりゃ色々あるか……」
「うん。だからさ、お願い、運転手さん。あたしを、元の世界に乗せてってくれる?」
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
首都ロンディムは、熱狂するサンガリア兵と逃げ惑うゴーマ人で混乱の坩堝となっていたが、軍を司るエリウによってゴーマ人に対する暴行や略奪が固く禁じられているため、占領された直後の都市にしては比較的平和だった。逃亡するゴーマ人をサンガリア兵は捕えようとはしなかったし、サンガリアが無辜の民に手出しをしないことがわかったのか、ゴーマ人も無駄な抵抗をせず、家族を連れて足早にロンディムを去ってゆく。
喧騒の中、俺とエリウは、かつてエリウの家があったはずの場所へと向かったが、そこにエリウの家はなく、無人となった石造りのアパートがあるだけだった。ロンディムの街並みはすっかりゴーマの生活様式に合わせて作り替えられており、サンガリアの統治下にあった頃の面影は全く残されていないようだ。
俺とエリウは、市街中心部にある最も大きな建物に向かって目抜き通りをぶらりと歩きながら、色々な話をした。
「私の母は、私が物心ついてすぐ、病で亡くなったの。母との思い出は片手で数えられるぐらいしかないけれど、綺麗で、優しくて、とても温かい人だった。父は、ゴーマ軍がこのロンディムに侵攻してきた時、ゴーマ軍との戦闘の中で……。当時の私は、剣の稽古はしていたけれど、まだ一人前に振るうこともできず、周りの大人たちに守られながらロンディムを捨てて逃げることしかできなかった。父は、私たちを逃がすために盾となって命を落としたの。あの時から私は、ゴーマ人以上に、自分の無力さを呪い続けていた。ケンタ、あなたと出会うまでは、ね」
平和な日本――いや、正確に言えば、戦後に生まれ、経済大国となった日本で育った俺には想像もつかない話である。子供の頃にバブルが崩壊したり、リーマンショックが起こったりと、俺らの世代も決して楽な人生を送ってきたわけではないが、命の危険を感じたことはほとんどなかった。
もちろん、向こうの世界だって戦争や紛争は絶えないし、それに巻き込まれて命を落とす人や家族を失う人はいるのだが、それはテレビやネットの向こうの世界で起こっている話であって、こんなに身近に話を聞く機会はなかなか訪れない。
「そうか……俺が暮らしてた国は、多分向こうの世界でも飛びぬけて平和な国だったから、そういうの想像もつかねーわ。ゴーマ人に親を殺されたってのに、ゴーマの民間人に手を出させねえのは、すげーと思うぜ。でもさ、兵たちは不満なんじゃねえか? 親兄弟殺されたやつは多いだろ、目には目をって言うけど、ゴーマ人を無茶苦茶に犯して殺して仕返ししてぇって奴は多いはずだが?」
「……ええ。大いに不満でしょうね。私だってゴーマ人を殺したいほど憎んでいる。もし私がただの末端の兵士だったら、命令なんか無視してゴーマ人を虐殺していたかもしれないぐらい……でも、そうしたらきっと、殺されたゴーマ人の親や子、兄弟が、またサンガリア人を殺しに来る。憎しみの連鎖は、どこかで断ち切らなければ、また新たな悲劇を生み続けるだけだと思うから……」
「はぁ……やっぱすげーよ、エリウは」
ロンディムの中心にある宮殿はアランサーの一撃を受けて半壊していた。辛うじて形を保っている部分も、外壁に大きな罅が何本も入っており、今にも崩れ落ちそうだ。中に入るのは危険だと判断した俺たちは、とりあえず宮殿の近くの、現在は空き家となっている屋敷で休憩することにした。
空き家とは言っても、そこはカムロヌムのイーゴン邸と比べて遜色ないぐらいの大きさで、それなりに地位のある人間の住居だったと推測される。銀の食器や生活用品、ワインや果物などの食料品も大量に残されていた。この屋敷の住人はおそらく、アランサーの攻撃に驚いて着の身着のままで逃げ出したのだろう。ありのままに残された屋敷の生活感から、脱出の際の住人の慌てぶりが窺える。
「じゃあ、私は少し街の様子を見てくるから、ケンタはここでゆっくり休んでて」
エリウはそう言い残し、足早に屋敷を後にした。俺は残された果物を少し食べてから、寝台のある部屋を探し、ベッドに身を沈める。この世界に来てからの自堕落な生活が祟ったのか、運動量の割には心身共に疲れ切っていて、眠りに落ちるまでにさほど時間はかからなかった。
そして、泥のように深い眠りから目を覚ますと、窓の外にはすっかり夜の帳が落ちていた。夜空いっぱいに広がる星と、鏡のように眩く光る満月。ベッドを出て窓辺に立つと、星空の下で踊り狂うサンガリアの民たちの姿が見える。野営地にいた非戦闘員のサンガリア人もロンディムに着いたらしく、鎧を脱いだ兵士たちに混じって飲めや歌えの大騒ぎである。
「ケンタ、目が覚めた?」
振り返ると、寝室の入り口には部屋着に着替えたエリウが立っていた。
「おう。どうだ、街の様子は?」
「見ての通り。皆喜んでる。市街地は半壊状態だし、やらなくちゃいけないことはたくさんあるけど……まあ、復興は明日からね。今日はお祭り騒ぎでそれどころじゃないもの」
「そうか……」
「それより、ケンタ……」
エリウは俺の側へやってくると、俺の胸に額を押し当てた。
「明日、ヒトミさんを連れて帰るの?」
「あ、ああ……そのつもりだ」
向こうの世界に帰りたがっているヒトミをこの世界に強いて留め置く理由はないし、こちらの世界に来てからずっと俺の性欲の捌け口にしてしまったことに対する謝罪の意味もこめて、なるべく早く帰してやりたい――ということで、些か急ではあるが、ヒトミを明日連れて帰ることにしたのだ。
「私……なんだか、すごく不安なの。このままケンタが帰ってこなくなっちゃうんじゃないかって……」
「んなわけねーだろ。ヒトミを送ったら、またすぐ帰ってくるからさ。俺が望めば、割と自由に行き来できるって、タクシーも言ってたし」
「本当に……? 元の世界が恋しくなったりしてない?」
「本当だって。向こうの世界に帰ったところで、俺は一人モンの寂しいオッサンに戻るだけだ。こっちでお前と一緒に暮らすほうが、俺にとっちゃずっと幸せだから」
「そう……よかった……」
と口では言いつつ、尚も不安そうなエリウを、俺は強く抱き締めた。
「大丈夫だから。心配すんな」
「ケンタ、離れ離れになるのが怖いよ……もっと、もっと私を安心させて……」
震える声で強請るエリウを、そのまま寝具に押し倒し、長い口づけを交わす。
サンガリアの民たちの宴が繰り広げられる首都ロンディムの賑やかな夜の中で、この部屋だけは、しめやかに、そして情熱的に朝を迎えた。
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