幕間―2 この世界が終わっても

「……う、そ」


 冷たい石床に膝から崩れ落ちる。

 受け入れたくない現実に脳が拒絶反応を起こしている。

 眼球が捻じ曲がったように視界が歪み、それに合わせるかのように全身が震え始めた。


「真実だ。お前が言っていた者とあの死人の特徴が一致しすぎていた」


「…………ぉぇっ」


「おいおいおい!こんなとこで吐くなよ!」


「そんなこと言われても……」


 込み上げたものをなんとか喉の下に押し戻し、僅かに絞り出した声をこぼす。


「ケイ……いくら本当の事とはいえ、もう少し受け止めやすい言い方とか考えなかったのか」


「なぜ事実の報告に脚色を加えようとする?その方がかえって歪曲した理解をされて、後々被害に遭うのはこちらだぞ」


「そーかよ。おい、あんたアリスとか言ったな。立てるか?」


「ルト様……ありがとうございます」


 赤き外套を纏う勇者から差し伸べられた手を取り、ふらふらと立ち上がる。


「まあなんだ。黒い長髪に願いを叶える(かは分からないが)短剣、そして微妙にあんたに似てる顔。いくらか確認出来なかったのもあるが、俺もケイと意見は同じだ」


 黒宮ゆづきが死んだ。

 嘘偽りのないであろうその報告はアリスの心を引き裂くのに十分すぎるほどの威力を持っていた。


「悪いな。あとは自分でなんとかするんだ」


 去り際に慰めと言わんばかりに肩を叩かれた。

 そんなもので元気が出てくるか。

 そうして勇者ルトと賢者ケイは、この薄暗い石造りの廊下の闇の中に歩み消えた。


 ◇◆◇


 夜空、その下の地平は灰色がずっと続いている。

 それと同じ色の右眼、赤い左眼。

 双眸がこちらを見ている。


「元気無いね。この世の終わりみたいな顔だよ」


「この世の終わりだからこんな顔してるの」


「ああ、そう」


 この子は天然で性格が悪い。

 こちらの記憶や思考を読めるくせに、まず何も考えないでそういうことを言ってくる。


「独りにさせて、シス」


 机に突っ伏し、しっしと手でシスを追い払う。


「やだ。私よりも悲しい顔して、今にも自殺しそうなアリスを放っておくわけにはいかないもの」


 パチンと指が鳴る。


「ほら、顔を上げてアリス」


 何をしたのか気になり振り向いてみた。

 黒い長髪、若干自分に似ているかもしれない顔、高い背。


「あっ……あぁ?」


「黒宮ゆづき。アリスの好きな人」


 幻がそこで微笑んでいた。

 手を伸ばしても触れられず、鑑賞をするためだけに創られし幻影。

 向こうはこちらを認識しない。一方通行の感情だけが空振りする。


「あ、ありがと」


 引きつった笑みに顔を歪め、シスも幻も見れず目が泳ぐ。


「いらない?」


 読心が出来るのだからわざわざ訊くこともないだろう。それとも敢えて読心をしていないのか。


「いいや、嬉しい」


「ほんと?どれくらい?」


「献立に好物があった時くらいには」


 シスの微妙な顔を見て組んだ腕の中に再び沈む。


「そういえばさっきルトとケイから報告を受けてね、色々と〈イデア〉の動向が気になるんだ」


 部屋の中、自分以外のたったひとつの人気が窓辺に向かう。

 キリリと窓扉が開放された。


「どうにもあの人の様子がおかしい。以前ほどの力が感じられなかった。ってね」


 シスの口からあの人という言葉が出ればそれは間違いなく……


「シイナ・ヴァレオ」


「……世界そのものであり、現在の王」


 そして、その者より生まれ出し者こそ。


「シス・ヴァレオ」


「世界に見放されし、世界そのもの」


 幻のことなんて忘れてアリスは頭を上げていた。

 幻のゆづきと目が合った。が今はそれどころではない。


「まさか」


「始まるよ」


 ――何千年前だろうか。

 遥か昔の言い伝えに神の歴史について語られたものがある。

 それは世界を創造し、過去と未来永劫の事象の全てをあらゆる概念と共に生き続けると。

 生物のそれぞれに個性があるように、神々にもそれぞれが司る概念があった。

 しかし実際にはそれは神ではなかった。

 天上に住まうわけでもなければ不死でもない。

 当時の知的生物達は皆、天よりも遠い宙の彼方で輝く星のようにこの世界を広く識り、未だ未発達な我々を観測しているのだと彼らに重ね、崇拝の対象として星々の神グレヴィラントとした。

 星神族にはひと通りの概念を司れるだけの人員がいた。

 それとは別に全ての概念を理解し己のものとする者。

 すなわち“概念の王”がいた。


「現在の王は死に、真の王が目覚める」


 そして現在の王はシイナ・ヴァレオである。

 シイナはシスの母親で、シスはシイナの実娘である。


「ねえ、王位ってだいたい親から継承するじゃない?つまり私が相応しいと思うんだ」


「〈エデン〉はその為にあるのです」


 つい敬語になってしまった。

 〈エデン〉とはシス・ヴァレオこそ王に相応しいのだという揺らぎない思想を持つ者の集団だ。

 そこに関しては〈イデア〉も同じだ。

 つまりこれは王座を争う、世界を巻き込んだ壮大な親子喧嘩と言える。

 だがそれをくだらない事だとは誰も思わない。

 なぜなら概念の王は世界を統べるからだ。

 そして互いの組織に属する者は自身の組織のリーダーに世界を統べていてほしいと願っている。

 シスは奪い、シイナは防衛し、どちらかが消えなければこの争いは終わらない。


「ありがとうアリス。頼りにしてる」


 〈エデン〉の最高戦力は英傑と呼ばれる6人から構成される集団だ。

 先の勇者ルトと賢者ケイもそのうちの2人だ。


「英傑もそろそろ一回集めないとね」


 アリスも〈エデン〉に来て長いわけではない。

 だから残りの英傑は見たことがない。

 聞くところによれば曲者揃いだとか、当然といえば当然な答えばかりが構成員の間で噂されている。


 そういえばシスは過去にシイナに対して大規模な戦争を仕掛けた事があったらしい。

 常夜の灰の大地にて、当時の〈エデン〉の全勢力を以ってたった1人シイナという存在を打倒するために。


「結果は……言わなくても分かるよね」


 その結末が現状だ。

 たった1人に対して〈エデン〉は敵わなかった。

 それほどまでにシイナ――概念の王――は強かったのだ。

 幸いだったのはこちらがそれほど大きな犠牲を払わずして敗北を喫したことだった。

 もし英傑を1人でも失っていたら今の〈エデン〉は全く違う在り方をしていたと言われるほどに、英傑とはこの組織に於いてそれぞれが大黒柱であるのだ。


「ワタシは、どうしたらいいの……」


 生きる希望のゆづきを失った。

 ならばこの身は何の為に使われようと構わない。

 死んだように生きているのなら、ほんの些細な事であれ誰かの役に立ててもらえた方が気が楽だ。


「死んじゃだめだよアリス。その血肉の最後の一滴まで私の為に生きて」


「ならどんな形でも構わない。ワタシを」


「しー」


 突如目の前に瞬間移動してきたシスの指がアリスの唇を塞ぐ。


「アリスは特別だから。あの人に偽りの娘がいるように、私にも偽りの家族がいても良いじゃない?」


 マルクの結界の中で出会ったあの金髪の子がシイナの偽りの子。

 シスは母親に見捨てられ、それでも今生きている。

 孤独のうろを埋めるのはこのワタシということか。


「ふふっ、大丈夫。あの人を殺したらアリスは自由にしてあげるから」


 アリスは〈エデン〉に囚われているわけではない。

 過去にシスに救われたから、その恩があるから自らここにいるのを望んでいるのだ。


「そしたらさ、本当の家族のもとに帰るんだよ」


「でもゆづきは」


「私が生き返らせるよ。でももしかしたら先に誰かがやるかもしれないけどね」


 その時、煙のようにゆづきの幻影が消えた。


「ほら、ここに留めていた黒宮ゆづきの魂の欠片が揺らいだ」


「……てことは」


 アリスの眼に光が戻る。

 笑い慣れていない顔から錆びついた笑みが溢れる。


「うん。黒宮ゆづきはまた生き始めたんだね」


 嬉しい。誰がやったのか分からないが、この際〈イデア〉でも良い。

 ゆづきを、ワタシの希望を消さないでくれてありがとうと伝えたい。


「おっ?」


 シスが胸に手を置いた。


「アリスの感情が伝わってきた」


 物珍しげな顔でシスはアリスを見つめた。


「今度、黒宮ゆづきに一緒に逢いに行こうよ。私も彼女がどんな人なのか気になってきた」


「うん!ぜひ」


 驚かないだろうか、迷惑ではないだろうかという不安はある。

 でもゆづきはそんな事気にしないと思う。

 友達に会って嫌な顔をする人ではないと、アリスはそれを知っているから。


「もうすぐ逢えるよ」


 アリスは窓辺から灰の大地へ身を乗り出す。

 たとえ世界の全てが虚無に還ろうと、この気持ちだけは絶対に無くならない。


 ――かつて邂逅を待ち望んだ者があった。

 まだ見ぬ、しかし一度も会った事がなくとも既に親しい関係になっていた者。

 その期待は実に脆く儚く、煙臭い熱と絶望の中に溶けて消えた。

 消えたはずの者がいる。


「お姉ちゃん」


 かつて消えた者は今、再会の願いを虚無の夜空に馳せた。

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