超えるべき王たる淫魔―5

 あの後は結局ドキドキして眠れなかった。

 はづきと似たような事は何度もしたことがあったが、やはりモエとなると心構えがまたいつもと違うものになるから、照れと歓喜でその時間の大部分を浪費した。


 カーテンの隙間から朝日が差し込むくらいにはすでに外は明るくなっている。

 こんなアクシデントがあったとは言え貴重な睡眠時間を削るとは、大事な試験を前にやる事ではないだろう。


 人は徹夜をすると次の日の身体機能が大幅に低下するという話を前にテレビで観たことがある。

 だからゆづきがやった事は間違いなく戦いにおいて足を引っ張る行為に他ならない。


「……んん」


 モエが動いた。

 ゆっくりと身体を伸ばし、欠伸をかいた。

 そして寝ぼけ眼で横にいたゆづきを見た。


「お、おはよう」


 それからほんの少し沈黙。

 状況を整理しているのだろう。


「なにしてるのよ」


「なにって、あたしが夜中目を覚ましたらモエちゃんがここにいたんじゃないか」


 流石に今回はモエに何かを言われる事は無いだろう。

 こちらがした事と言えば、モエを追い出さずに同じ布団に迎え入れたという普通に考えて優しい行為だけだ。


「そう。それは悪かったわね」


 いつもの無愛想な顔に戻り、しれっと手を解かれた。


「酷い顔、きちんと眠れたの?」


「え?いや……実は途中で起きてから寝れてない」


 今だって目を開けているのが辛い。

 だがモエのあんな一面を見てしまったら放っておけるわけないだろう。


「私のせいね」


 そうして、不意にモエの手がゆづきの視界を奪った。

 頭の中に籠った重い意識が、体に残留する疲労が全てその手に吸い込まれていく。


「これで借りは返したわ。それじゃ」


 あれは対象の能力を奪う魔法の応用だ。

 本来なら体力などを奪うのだが、今のはゆづきの中の悪い状態を持っていったようだ。

 ということは……


 モエのことが心配になり、既にベッドから降りたモエを呼び止めようとした。

 しかし、その背中を見た途端言葉に詰まってしまった。


 そしてモエは部屋を出て行った。

 ここに戻って来ていたということは気分は良くなったのだろうが、今のでまた体調不良になったりしていないだろうか。


 それにしても寝起きだったからなのか、先程のモエには毒もトゲも無かった。

 理不尽な文句を言われなかったのは当然だが、ああも素直だとなんだか変な気分になる。


 とりあえず疲労が消えたのでゆづきも起きることにする。

 後でモエにお礼を言わなければ。


 ◇◆◇


 だがモエは再びグリシニアを離れた。

 誰にも何も言わず、消えるようにして。


 その事について深く言う者はいなかった。

 また具合が悪くなった。

 だから独りになりに行っただけだと。


 ◇◆◇


 グリシニアより北に遠く、小さな山より流れてくる川は小さな森の中の泉へ繋がっていた。

 普通は海に流れるのではと思うが、この森は含水量や排水効率がなんとかでそこで水が止まり、湧いて出た泉ではなく正確には上から溜まった言わば水溜りなのだが、とにかく泉らしく見えたことからそう呼ばれているらしい。

 水溜りと言ってもそれは大昔の話で今はきちんと水深もあり、形もそれらしくなっている。


「なんかぬかるみがすごい……」


「そういう地質ですから」


 含水量とか排水効率とか言っても、やはり水溜りである。

 この泉を中心とした広範囲が湿地帯となっているようだ。


「川の狩場というのはここから近くです。辺りの人間族の村から狩りや水汲みに来た人々がよく攫われる、王族派に伝わる穴場みたいなところです」


 この湿地帯の足場には多くの生物が近づかないだろう。

 だがこの森の中でしか出来ない事のために足を踏み入れる人がいる。


 森は姿や行動を隠すのに適している。

 それは狩る者狩られる者に共通した事実だ。

 ヒトの目的は獣や自然、淫魔族ユリュナの目的はヒト。

 それだけだ。


 夕方までまだ時間はある。

 現地の下見はこれくらいで良いとして、ゆづきはあることを確かめたいと思っていた。


「未来視の結果って変えられないのかな?」


 昨日聞いた未来視の結果によると猟師が数人攫われるとのことだ。

 仮に今ゆづき達が付近の村へ行って、警告や抑止をすれば多少は違う結末になるかもしれない。


「未来視とは運命の神への冒涜に等しい。今それが出来ているのはこの世界に運命の神がいないから」


 セリが語り始める。


「つまり?」


「つまり今なら予定された未来を変えられる」


 なるほど、神がいなければ運命すら変えられてしまうのか。

 しかしそれならば今はその元の運命というのは誰が管理しているのだろうか。

 やはり以前に聞いた『神の代行者』なる存在か、それとも無法地帯なのか。

 はたまた星神族グレヴィラントがまだいた時代から全て決められていたとか。


 そうか、運命は古から決められていたが星神族グレヴィラントの絶滅という事態のせいで管理に穴が空いてしまったのだ。

 だから未来に関係するシステムへ誰でも干渉することが出来る様になってしまった。


 という考察はどうだろうか。


「だけど冒涜の罪を犯した者は、いつか神が復活した時にその分の天罰を受ける。だから星精族グレヴィールはその時滅びる運命にある」


「滅びるって……じゃあ元の運命から偶然別の道に変わってしまった人はどうなるの」


「運命は偶然変わったりしない。星精族グレヴィールのように神が定めたものを知りながらそれを変えてしまう。それこそが冒涜であり禁忌」


 未来を知る力があり、しかしその力のせいでいずれ滅びてしまうことが確定している。

 なんだか種族ぐるみで皮肉なものだ。


「あれ、じゃああたし達がグリシニアの拠点で未来視の結果を知ったのってマズくない?」


「それは違いますよ。これが少し難しい話なんですが、未来視で運命を知ること自体に問題は無いんです。さっきセリさんが言ってましたけど、運命を知りながらそれを変えることが禁忌なんです」


 それもまあそうだ。

 知ることすら禁忌だとされていたのならば、とうの昔に星精族グレヴィールなんて迫害されて全てを抹消されているはずだ。


「そうでもなければ昨日、個人的な未来視の話なんてしませんよ」


 冗談まじりの笑いを込めてミシュは言う。

 ならばその時に説明しておくべきだっただろうが。

 もしゆづきに個人的な未来視を出来るだけの魔力があって、あの後こっそりと未来を教えてもらってそれを実行していたらどうするつもりだったのだ。


「てことは、今日この後あたし達は猟師の人が攫われた後にしか動けないってこと?」


「そうです」


 これが起きる事件を知っておきながら何も出来ないというむず痒さなのだろう。

 ちなみに猟師が攫われた後の運命はゆづき達は知らないので、何をしても自由なはずだ。

 と思ったところでその行動自体が運命の手のひらの上なのだろうが。


「だから今は我慢です。予定された事を予定通りに遂行するのがこの世界に生きる全ての生命に課せられた使命であり宿命なのですから」


 神でもなければ運命に抗うことすら許されない。

 知らなくて良いことを知ろうとすればその結果に歓喜する者がいれば絶望する者もいる。

 これは下手したら現世よりも辛いものがあるぞ。


「そういえばさっき星精族グレヴィールが運命を知りながらそれを変えた。禁忌だって言ってたけど何があったの?」


「……?ゆづきさんそんな事も知らないんですか?」


 純粋な疑問を持ってミシュがそう言ってきた。


「まああたし元々この世界の住人じゃないし」


「この世界の住人じゃない?なんの冗談ですか」


 やはりというか、普通は考えられないか。

 自分達が生きる世界とはまた違う次元の世界があるということを。

 ゆづきだってこの世界へ転移してくるまで空想の話としか思っていなかったのだから、ミシュがそう思うのも無理はない。


「その話は一旦別の場所でお願いしたいっす。いつまでもこの足場にいるのは落ち着かないっすよ」


 ぐちゃぐちゃと足元の泥を踏み、この場からの脱出を訴えるマーシャ。

 確かにずっとここにいるのも気が進まない。

 また夕方にここに来ることにして、一旦森の外へ抜けることにした。


 ◇◆◇


「あたしはこの世界にとっての異世界。地球ってとこから来た人間」


「異世界?フェリタウルとは違う世界ってあるんですか?」


「フェリタウル?」


 質問に答えたら逆に質問をしてしまう事態になってしまった。


「フェリタウルはこの世界の名前ですよ。ゆづきさんがいたところはちきゅーって言うんですよね」


「え?この世界そんな名前だったの!?」


 慌ててセリとマーシャを見る。


「あれ?知らなかったんすか?」


「〈イデア〉に来る以前に既に知っていたものだとばかり思ってた」


「初耳だよ!」


 初めて聞いた。

 知っている地名と言えば『ウェアリクト帝国』『シマン村』『フレアガルデン高山』『グリシニア』くらいだった。

 こう見ると確かに、1番重要なことを知らなかったのだ。


 誰も教えてくれなかった。

 というのはゆづきが既に知っていると思われていたから言わなかったということなのか。


 正直これに関してはゆづきももっと知ろうとするべきだった。

 いや生きていく上で必須というわけでは無いが、こういうのはなんとなく知っておきたいのだ。

 しかし他の事で頭がいっぱいになり、その事をすっかり忘れてしまっていた。


「フェリタウルね、分かった」


「ところで話逸れてません?確か星精族グレヴィールでしたよね?」


 そうだった。

 元は星精族グレヴィールの犯した禁忌について聞こうとしていたのだ。

 この世界の住人ならみんな知ってる事をゆづきが知らないのにミシュに驚かれ、そこから話が逸れてしまった。


星精族グレヴィールの犯した禁忌、それは運命を知りながらそれを否定し変えてしまったこと」


「具体的には彼ら以外の全種族が未来永劫知り得なかったはずの、運命という概念を露見させてしまったこと」


 誰も『運命』を知らないのが本来あるべきだった運命。

 しかし星精族グレヴィールはその概念をどういうわけか世間に伝えた。

 それによって種族ごと天罰の対象になってしまうように運命が修正された。

 まるで自ら滅ぶようではないか。


「運命があるというのを知らせて何がしたかったんだろう」


「さあ、全ての事象は初めから決められていたと人々に思わせて混沌をもたらすのが目的だったとか言われてますけど、結局真意だけは昔から頑なに言わないんですよ」


 聞けば聞くほど謎が深まる種族だ。

 ここまで来ると本当に何をしたかったのかがさっぱり分からない。


「まあそれも何百年以上も前の話ですから、彼らは未だに滅びず元気にやってますよ」


 確かにグリシニアの淫魔族ユリュナの拠点では未来視の協力をしていた。

 昔はどうか分からないが、今はそんなに後ろめたい感じは無いのだろう。

 運命は知るだけただ。

 ああやって戦術へ手を出すとかなり強い存在で重宝されたりするのだろう。


 しかし戦術へ手を出すとは言っても、結局は未来視の結果を変えられない、例え変えたとしても天罰の対象になってしまうからそう易々と未来を変える気にならない。

 先に勝敗を知り、その後の精神的ダメージを減らそうという考えなのだろうか。


 ……それだけだったら存在意義が薄くないだろうか?


「さて、もうじき予定の時間になります。川に向かいましょう」


 懐中時計を見てミシュが告げる。


「待って。まだモエちゃんが来てない」


 今朝から姿を消したモエ、グリシニアの外でならすぐに会えると思っていたが定刻になっても現れないとは一体どうしたのだろうか。


「確かに、何かあったんすかね」


 この様子からしてマーシャは何も知らない。

 セリも首を傾げているし、当然ミシュも心当たりは無いだろう。


「困りましたね……このままだとモエさんを欠いたまま向かうしかありません」


 シイナはゆづきとセリとマーシャの3人の、対王族淫魔への戦力に不安を覚えていた。

 だからモエを同行させたのに、そのモエがいないというのはシイナの考えが意味を成さない。


「そうだ、モエちゃんの魔力を探せば……」


「さっきやったけどこの近くにはいなかった」


「そんな」


 不安が押し寄せて来た。

 いや、違う。モエがいなくてもやるんだ。

 これは依頼であり試験、そして昨夜抱いた決意を思い出せ。

 誰にも頼らず、誰もを凌駕してみせるのだ。


「残念だけど待てません。もしここでモエさんの合流を待って、この後の王族淫魔を逃すことになれば確実に被害が出ます」


 口ぶりからして、猟師が攫われた後の未来視はされていないみたいだ。

 拠点で聞いたところまで、そこから先はまだ誰も知らない。

 知らないが結果は決まっている。


「あ、あれは!」


 ミシュが川の上流、山の方を見て叫んだ。

 赤く染まってきた空、擦り切れた雲に色付く点々。

 翼をはためかせ、尻尾を揺らしながら人影がこちらに飛翔してきている。


「来ちゃいました!一旦森に隠れましょう!」


 このままでは格好の餌になってしまう。

 そう焦ったミシュが全員を森の中へ押し込んだ。

 ひとまず木の裏に隠れて空の様子を伺う。


「18、20くらいっすね」


「強い魔力反応は3つある」


「ならそれが王族淫魔っすね」


 即座に分析するセリとマーシャ。

 ゆづきも意識を向ければ空からの魔力を感じるが、セリのように魔力の強弱があまり上手く掴めない。

 それにマーシャのようにぱっと見で敵数を判断出来なかった。

 薄々感じてはいたが、やはりゆづきなんかが及ぶ域にはいないのだこの2人は。


「森の中から動きを追いましょう。恐らく川沿いになら既に人間族の猟師がいるはずです」


 急かすミシュ。

 それを聞いてゆづき達も木の裏から慎重に身を森の中へと投じた。


「――!?ちょっと待って!」


 突然セリが叫び、地面にうずくまった。

 小刻みに身を震わせ、動けないでいる。


「どうしたの!?」


「大丈夫すかセリ!」


「……これは……なに……」


 怯えるように喉から絞り出した声。


「――はっ!?なんすかこれ!」


 次の瞬間にはマーシャの様子が急変した。


「もの凄く強い魔力反応……一体これは、うぐっ!」


「マーシャ!」


 マーシャが倒れてしまった。

 もの凄く強い魔力反応とはなんだ、まさか王族淫魔とはそこまで強大な相手だったのか。


「どうしたんですか!」


「違う……これは淫魔族ユリュナじゃない……ゆづきも、感じて」


 遂にセリまで倒れてしまった。

 どうなっているのだ、セリとマーシャは何者かの魔力によって気を失ったのか!?

 淫魔族ユリュナじゃないとすれば、ゆづき達の知り得なかった他種族の敵による攻撃となる。


「ミシュ、ここにいてくれ」


 ゆづきは倒れたふたりとミシュに向けて手をかざした。

 その先へ魔力を込めて、3人を閉じ込めた結界を創り出した。


「ゆづきさん!?なにをするんですか!」


「あたしが様子を見てくる。その結界は一時的に魔力を遮断する効果があるから、それまでは敵に見つからないと思う」


「なんで!死ぬ気ですか!」


「危なくなったら逃げるよ」


 それだけ言い残して、ミシュの訴える声を背に駆け出した。


 ――先程の森の入り口、既に王族派は中へ侵入したようだ。

 羽ばたきも聞こえなければ話し声も聞こえない。

 本当に襲来したのか疑問に思ってしまうほど静寂だった。


 精神を研ぎ澄まし、周囲の魔力を探ってみる。

 ポツリポツリとそれらしい反応を深部から感じた。

 セリとマーシャの言っていたもの凄く強い魔力反応が感じられ――


 肌が粟立った。

 一瞬で全身が逆毛立つような悪寒が駆け抜けた。

 あまりの緊張に吐き気を催すが、気合で押し戻した。

 手足が痺れ始めるがそれも気合で持ち堪えさせた。


「これがふたりが言ってた魔力……!?」


 格が違う。

 森から感じる王族派であろう魔力反応とは比べ物にならない程の圧倒的なまでの気配。


「空から来る」


 それは彗星の如く茜色の空を駆けていた。

 ほんの少し前までは何も無かったのに、まるでこの時を狙っていたかのように現れたそれは徐々にこちらに向けて拡大してきている。

 地面が揺れ始め、風が強く吹き付けた。


「ぐぅっ!」


 あまりの強い魔力に意識を落とさないように必死に踏ん張る。

 それと同時に強大な魔力は王族派の反応があった地点に落下した。

 衝撃波が空間を震わせ、木々を薙ぎ倒して大地を裂いた。


 この瞬間、ゆづきは確信した。


 今この森の中で運命から逸脱した禁忌が行われている。

 ゆづき達は未来視の結果、猟師が数人攫われることしか知らない。

 だが何者かが勝手にそれを捻じ曲げようとしているのなら、それを知っているこちらの身が無事で済む保証が無い。


「ふざけんじゃねぇ!!!」


 これによってゆづきが得られるはずだった未来が潰える可能性だってある。

 場合によっては今回の依頼が失敗に終わり、今後はサニシアがこの手に戻らないまま、天罰の時を待つだけの人生になってしまうかもしれない。

 そんなの見過ごせるわけがない。


 ゆづきは正体の分からぬ強襲者へ激しい怒りを覚え、森の中へと飛翔した。

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