覆う影を祓う願い―3

 これまでの人生で感じた事のない焦燥感が押し寄せてきている。


「はっ……はぁ……」


 恐怖と焦りで呼吸がままならず、無意味に暴れ喘ぐ。

 両足を黒い触手に固定され下半身の身動きが取れない。


「離せ!離せっ!」


 サニシアで斬りつける。

 だがその触手を斬る感触はあってもダメージは無く、これは斬ったそばから再生しているとしか思えない。


 触手が伸びるその先はまだまだ遠かれど、遅かれ早かれこれを辿っていずれはここまで到達するだろう。

 その時こそ真に生死の分け目となる。

 しかし相手は間違いなくあの影の巨獣。圧倒的な体格差に加えてこちらは拘束までされている。


 普通に考えて勝ち目など無い。

 だからゆづきは逃げ出したかった。

 これを討てば功績になるだとか、聖剣の錆にするだとか今そんな事を考えるのは死にたがりか脳死だけだ。


 今のゆづきは多少の冷静さを取り戻しているかもしれないが、今までの殺意に満ちていた状態でも同じ事を思っていただろう。


 ――闇に淀む彼方より圧を感じる。

 心身共に満身創痍の研ぎ澄まされていない鈍りきっているであろう今の感覚。

 それなのに気持ち悪いほど分かりやすく纏わりついてくる悪感。


「は、は、はは……」


 人は迫り来る死に直面するとこんな風になるのか。

 愉快で、無念で、未練がましい諦めの吐息。


「ごめん……ごめんなさい」


 涙が浮かぶ。


「ちゃんと、謝っておくんだった」


 思い起こされるそれが単なる姉妹喧嘩だったとしても、二人の間に大きな亀裂を生んでしまった事には変わりはない。


「はづき……お姉ちゃんを……許して」


 溢れた涙はこめかみを伝い、視認のできない地面へこぼれ落ちた。

 もう、あれで最後だったのだと思うと本当に自分に対して嫌気がさしてくる。


 ――ずっと感じていた圧がすぐそこまで迫ってきた。

 どういうことか四方八方からそれを感じ、あまりの恐怖と混乱に視界を塞ぐことしか出来なかった。


 両足の触手が強く締め付けられる。

 それに合わせて両腕も巻き取られ、そのまま空中ではりつけにされる。


 薄眼で見るとやはり周囲は黒く、しかし気配はどこからも感じていて。

 なるほどこれが影か。

 この結界内の端からゆづきに密着し、それを越してさらに対岸の端に行き着く全ての闇がもはやマルクという生命体そのものなのだ。


 今のゆづきは結界の内側にいると同時に、その中を埋め尽くすマルクという影に飲まれかけている。そういう事だろう。


 空も陸も無く、そもそも空間というものすらあるのか定かではない。

 大規模な密度がこの場を占めている。これだけで大体の説明が出来る。


 泡が破裂する音、もしくはマグマが活性化しているのに似た毒々しい呼吸。

 水流の音か、はたまた粘り気のある液体がそこかしこに流れ出てているのかと錯覚してしまう移動音。


 ――確かに実体を持った影の巨獣はそこにいた。

 ヒトの形を捨て、ただ食らうだけに特化した巨大な口と牙。

 獣と言うにはゆづきの知っている動物類とはかけ離れていて、しかしそれは生物ならざる怪異の姿をしていた。


 もはや声など届かない。

 理性と感情と常識を破り捨て生じたこの生物には再び知性を得る理由など無い。

 己の欲望のままに生き、混沌を願い、飽くなき殺戮によって自己を保つであろう獣へは誰しもが戦慄するだろう。


 その手始めとして、観衆のいないこの虚空にて一人の少女を見せしめに殺す。

 そして結界外へも影響を及ぼしていたあの禍々しい影によって大地を飲み込み、ただ唯一の孤独な生命体として、しかしそれに気付くこともなく世界と化すのだろう。

 影で塗りつぶされた、虚無の世界そのものに。


 故に世界の命運は今ゆづきの手にかかっていると言っても過言では無い。


 ふと湧いてきた妄想?

 それにしては妙にリアルに、この身で実感したかのような未来のように思えた。

 そうだ。これが見当違いな妄想だったとしても、ゆづきは立ち向かわなければならないのだ、滅びの影へ。


 どうせ死ぬのならば搾りカスになるまで抵抗してやるべきだ。

 ここまで強大な対象を相手にするのだ。

 大きさ的に虫ほどのゆづきでも、もしかしたらかすり傷くらいは与えられるかもしれない。


「うっ……くっ……!」


 はりつけにされて、四肢を思うように動かす事も叶わない。

 右手に握るサニシアを振るうにも最低限右腕の解放は果たしておきたい。

 だがこれは物理的な攻撃の話だ。

 サニシアに備わる固有の能力ならば……


「右腕だけで良い。自由にしてくれ」


 力を込め願う。

 サニシアがほのかに輝き、そこから生まれた光の輪が手先から肩までをくぐり抜ける。

 影の触手が霧散し、ゆづきの右腕は自由となった。


「そして、この影を消し去る力をあたしに」


 都合の良い願い事だというのは大いに自覚している。

 それなら初めからこの影を消し去れとサニシアに願えば良かったものをあえてこのやり方を選んだのは、一言で言えば直感だ。


 サニシアを介して一言で世界を救うだとか、膨大な影を消すだといった途方も無く実に都合の良い願いは叶わないと、ゆづきには察する事が出来るのだ。

 これまでは、なんとなく出来そうで出来なさそうという非常に曖昧な勘だったが、この結界に入ってサニシアに馴染んだ頃にはそれが良く理解出来るようになっていた。


 それこそ都合の良いものだと、心の隅では自虐も込めてゆづきはそう思ってはいるが、この際もうどうでも良いだろう。

 使えるものは全て使い、この脅威に一石を投じるのだ。


 サニシアで左腕の触手を斬り離す。

 固定された両足を軸に後方へ倒れこむ。

 行きがけで右脚の触手を切断し、遠心力で身を振り左脚も解放した。


 見えない地面に着地する。

 蠢き悶える影、ただ自由な空間はゆづきの手の伸びる範囲までに迫り、だけど影をかき消す力を前に攻めあぐねている様子だ。


「食わないなら」


 一心不乱にサニシアを振るう。

 自らを囲う全てへ、敵たる影へ。


「殺してやる」


 斬る感触はあるのだがどうにも手応えが無い。

 サニシアの刃が触れれば影は即座に晴れるのだが、そのせいだろうか。


 剣の先端に光を集め、ゆづきごと覆う光の膜を創り出した。

 構え、突進する。

 猛烈な勢いで影はゆづきを避け、先無しの地をただ駆け抜けさせる。


 ゆづきの予想ではどこかに核があり、それを破壊するのが最善だとは思うのだが、所詮予想は理想でしかない。

 そう都合良く核なんてものが発見出来るのかも分からない上、そもそもそれが存在しているのかさえ分からない。


 だが進むしかない。

 何もしなければ失い、自分が生きた意味すらこぼれ落ちてしまいかねないから。

 つまりこの広大な結界内を闇雲に走るしか今のゆづきには出来ないのだ。


 前が拓けば背後が閉じる。

 これではどこまで行っても同じ事になる。

 どこかでこれまでとは違うやり方に変えなければ好機は訪れない。

 しかし何から変えれば良いのか見当もつかない。


 今こうして身軽に動いていられるのは『生きたい』と思っているからだ。

 どうせ死ぬとか、一矢報いるとか考えてはいたが、どうやらこの体は本能的に生存を望んでいるらしい。


 そしてその思いによって得られている恩恵が底無しの体力と光の力。

 確かにこの状況で生きるには最低限必要な要素だ。

 永遠に口を開いてくる影に対して無限に抵抗できるシステムがこれだけで完成してしまう。


 まるで地獄だ。

 ただひと時も休息など許されなく、場へ変化をもたらせなければ永遠に同じ事が続く。


 ◇◆◇


 もうどれだけ走り続けているのだろうか。

 いくら体力が尽きないからと言っても心の余裕までは無限ではない。

 体感的には今は工場があった場所を往復しているはずだが、呆れるほどに何も無い。

 やはり全てが影に溶け混んでしまったのだろう。


 頭を空にして無心で走り回る。

 目を瞑ってもどうせ何も無いのだから今のところは余裕だ。


 ――足に何かが引っかかった。


「おわっ!」


 完全に無意識の状態でゆづきは盛大に転んでしまった。


 一体何だと言うのだ。

 全て影になり平坦で、障害物なんて今の今までひとつも見当たらなかったのにこうなってしまったと言うことは、向こうから先に変化を加えてきたという事なのだろうか。


「……違う……これは!」


 なぜ食われていないのか、いいや食われてほしいわけでは無いがなぜまだ残っているのか。


「コートックさん……」


 ほんの短時間だけ世話になった白衣の男。

 その背には多くの刃物と斬り傷を受け、大規模な出血とともに倒れている。

 半開きの目と口。

 その身が動き出すことはもう二度と無く、死体として永遠にこの結界内に取り残されたままになるのだろう。


 立ち止まるゆづきの周囲には光の壁が展開される。

 数分程度なら影の侵食を防ぐ事が出来るはずだ。


「……ア……ァ……」


 心臓が喉から飛び出そうになった。


「ナ……ンデ。ボ……ヲ……ケロ……ョ」


 固まった手が震え、顔が上がり、身体がゆっくりと動き出す。


「……コートックさん、もしかして生きて……」


「アァアグゥゥウ!!!」


 コートックの身から漆黒の触手が姿を表した。

 ゆづきは反射的に斬り落とし跳び退いた。


 しかし触手は切り口から再生し、他の部位からもぞろぞろと生えてきた。

 これがまさに一瞬の出来事で、その凄まじい勢いにはさすがに手が出せなかった。


 さらに後退し、視界のギリギリにコートックだったものを見据える。

 幸い触手はこちらまで伸びてくることはなく、コートックを依り代にして不気味に蠢いている。


「アァア!ゴエン……ァザイ……ユ……ジテ……」


 言葉を発している?

 先程も似たような事があったが、かすかに意識を感じられる。

 怒りと後悔のような、しかし怯えるように。


「ゆる……して?」


 どうも口調が子供らしい。

 それよりも『ボク』と言っていた気がする。

 コートックの一人称は私だったはずだ。

 これはどういうわけかマルクと重なる部分がある、というよりマルク意外に考えられる人物がいない。


 核だ。

 理想でしかなかったものが今目の前にある。

 きっとこれを殺すかバラすれば全てが終わる。

 底なしの闇の中に光明が見える。光明が見えた。

 かつて仲間だった身の果てに、世界を救えるかもしれないと。


「――ごめん、コートックさん」


 躊躇う必要などどこにも無い。

 接近を始めるゆづきへ触手は伸びてくる。

 遅い動きのそれらを全て斬り捨て、核へと迫ると触手の勢いが急激に衰え、弱々しくうねる。


「ア……ア……ウゥ……」


 泣いているなんて、まさかゆづきを油断させる罠かもしれない。

 とは思うが一向に攻撃を仕掛けてくる気配がない。


 マルク、この少年の歴史がどのようなものだったのかは知らない。

 少なくともこの齢にして組織の一員になるのだからそれなりに偏屈ではあったのだろう。


 唇を噛み締めてサニシアを下へ向ける。


「ごめんね。あの世があればそこでいっぱい恨んで良いから」


 多少は哀れんであげよう。

 望もうが望むまいがゆづきにはこうするしかなくて、そうした運命を強いられたこの少年に、敵ではあるがせめてもの死への同情を。


 サニシアが光り輝く。

 終わらせよう。

 この一撃で、世界を救うんだ。


 大きく振りかぶり、核へサニシアを突き刺した。

 温度を持たない触手が暴れのたうち回り、何度もゆづきを殴りつけた。


「アアアァアァア!!!ヤダッ!ヤァ!」


 耳をつんざく絶叫とともに触手は最後の抵抗と言わんばかりに数を増し、気付いた時にはゆづきを取り囲んでいた。


「しまっ……」


 反応が間に合わなく、壊れゆく少年の幕下ろしにゆづきは引きずり込まれてしまったのだった。


 ◇◆◇


 深い水の底に落ちて行くようだ。

 どこまでもいつまでも、暗黒の中でたゆたんで、前か後ろかも分からない一点の灯火を今はただ見つめていた。


 まるでマッチ売りの少女を体感しているようだった。

 おぼろげな灯火の中には草木や人の風景が、掴み取れるはずのない空想の炎として浮遊している。

 それも一つや二つではない。

 ゆづきがその灯火に触れると、意思を持ったようにそれらはひっそりと数を増やしているのだ。


 点と点が一直線に、そしてまばらに散らばる。

 それはゆづきを誘っているようにも見えた。

 行く当てのないゆづきはそれに従い、灯火と足並みを揃えた。

 だけど警戒は解かずに、右手にはいつでも振れるようにサニシアを忘れない。


 ――赤子の泣き声が聞こえた気がした。


 新たな生命が生まれ、笑顔の両親に優しく包まれて、その子にとって幸せな日常がそこでは始まりを告げていた。


 温かい。胸に手をおくと、思わずゆづきも微笑んでしまう。

 自分の事でもないのに、だけど自分の事のように嬉しかった。


 灯火の中ではみんな笑っていて、幸せそうで、そんなのが当たり前な日常を過ごしている。

 特別な日にはちょっと豪華な食事が卓に並び、友達ができれば仲良く遊び、たまにケンカをしても最後は笑って仲直りをしていて。


 明るい灯火の中にはそんな思い出がたくさん詰まっていた。

 子供のおもちゃ箱のように嫌なものがひとつも無くて、ただただ優しい平和な日々をしまい込んだ記憶の炎。


 だけど、先へ進むにつれて色鮮やかだった灯火が黒く穢れを帯びてきた。


 本能的に避けたいものがあった。

 しかし、ここまで来てそれらを避けるのは許されなかった。

 黒の灯火は自らゆづきに触れ、その中身を無理矢理押し付けた。


「――――!?」


 思念が脳内に流れ込んでくる。


 ◇◆◇


 季節は巡り穏やかな時間、僕がいくつの時だったろうか。

 物静かな湖畔へ家族でピクニックをしに行ったのだ。

 僕は父の背中に身を預け、その横を母がカゴを持って歩いている。


 今日はこの後何をして遊ぼうか、お昼はサンドイッチかな?

 そういえば今日は両親の結婚記念日らしい。

 だから特別。


 水辺に敷き布を引き、家族水入らずの時間を過ごしていた。

 湖の上で跳ねる魚。向こうの水辺でそれを狙う釣り人。


 お腹も程よく膨れて眠たくなってくる昼下がり、僕はいつのまにか寝てしまっていたらしい。


 次に目を開けた時には両親の姿が見えなくなっていた。

 突然の虚無感と焦りが押し寄せてきて必死に辺りへ叫んだ。

 だけども誰も何も返事はしなかった。


 まさか帰るにしても敷き布とカゴが残されているし、何より僕を忘れるわけがない。

 だとしたら一体どこへ行ったのだ。


 頭を抱えて考える僕に忍び寄る影。

 それは水中から手を伸ばし、僕を湖底へ引きずり込もうとしていたのだ。


「そう、僕の両親のように」


 ――気付けば目の前にはくすんだ金髪の男の子が立っていた。


「両親を失った事を知る前に僕は死ぬはずだった。だけどそこで勇者が助けてくれたんだ。湖の怪物にたったひとりで立ち向かい勝利した、僕は彼に憧れてついて行く事にしたんだ。その時にはもうすっかり両親の記憶は無くなっていたけど」


 両親を失った。でもそれを知る事も無く全てを忘れてしまった。

 あんなに愛していたのに、あんなに幸せそうだったのに、どうして。


 左腕が疼く。針を飲み込んだかのように胸が痛い。


「湖の怪物。それには目が見えず、意識のある者を察知してまずは溺死させる。身体が水で膨れあがった時、奴はその腹のなかに獲物を収めるらしい。そう考えると僕の両親は酷い死に方をしたんだなって思うよ」


 両親……酷い死に方?


『あの子の両親、事故で亡くなったらしいわよ』


『遺体は原型を留めていなかったって話だけども』


 酷い死に方?

 事故で死んだ。原型が……無い。


「あ……あぁ……」


 いやだ!思い出したくない!


「おとう……さん……おかあ……さん……」


 震える両肩を止めるべく自分の身体を抱く。


 ――黒髪の女の子がいる。

 姿形が金髪の男の子と重なり、もう女の子しか見えない。


 視界がノイズに侵される。

 猛烈な頭痛が降り注ぎ、目は火が出そうなくらい熱い。


『ううん、パパ。ママ』


「……パパ……ママ」


 いやだ!これ以上は見てはいけない、聞いてはいけない!

 目をそらしたい耳を塞ぎたい。

 だけど身体が動かない。


『わたしは好きだった。でも何も言わないでいなくなっちゃった』


「悲しかったよね、辛かったよね』


『長い時間をかけてようやく自分を騙せるようになったよね』


『でもわたしはあなた』


『あなたの中のわたしは絶対に消えないんだよ?』


 女の子がそこら中にいる。

 そこら中からゆづきに何かを言ってくる。


「やめて!あたしは知らない!知りたくない!」


『ううん、目をそらしているだけ。今も頭の片隅で何の事か分かっているくせに』


「うるさいうるさいうるさい!……わたしに……関わらないで……」


 あぁ、奪われていく。

 二度と来ないと自分に誓ったのに。


 一筋の涙が頬を伝った。


「パパ……ママ……」


 男の子は不思議そうに少女を見上げる。


「お姉さん大丈夫?泣いてるよ」


「グスッ、ううん。いいの、なんでもないの」


 あと一歩のところだった。

 これまで意識しないようにと抑え込んでいた自分に自我を奪われそうだった。

 もしそれが現実になっていたとしたら、今頃自分はどうなっていたのだろうか。

 考えるだけで身の毛がよだつ。


「君はパパとママを亡くして悲しかった?」


 ゆづきが尋ねると男の子は少し悩み、ぼんやりと頷く。


「僕がそれを思い出したのはついさっき。ここまで忘れてたんだ。きっと自分の中では両親よりも大事な何かが根付いていたんだよ」


「全く思い出せなかったの?」


「さっきも言ったけど、僕の両親に関する記憶は根本から無くなっていたんだ。思い出すも何も無かったんだよ。でも、ここでそれを取り戻した。……できるなら、思い出したくなかったよ、こんな辛い記憶」


 そうか、この子は強がりなんだ。

 この場でゆづきと出会ってからずっと、自分の両親の事を思い出してもその表情を崩す事なく、ゆづきに過去を語った。

 それがどういう意味でも、嫌な記憶をあえて前面に押し出して。


「うん、大丈夫。良い子だね」


 ゆづきは男の子の頭を撫でてあげた。


「……お姉さん……ごめん」


 だが男の子はそんなゆづきを拒絶した。

 頭に乗せられた手を払いのけ、数歩距離をとった。


「僕はお姉さんの敵。覚えてないの?」


 くすんだ金髪の男の子――マルク――は無邪気な子供の顔を崩すことなくゆづきへ問いかける。


「……覚えてるよ。ついさっきまであたし達が殺し合いをしてたって事も。その中であたしは君を」


「僕はマルク・シャーターだ!過去の哀れみを受けて決意を失う弱者ではない!影から生まれ影に生き影を食らう者、この影食えいしょくの名にかけて、過去から差す闇のまどろみに沈むお前を食ってやる!」


 マルクはそう捨てゼリフを吐くとゆづきへ突き進んできた。


「なっ……!」


 肉弾戦とは予想外だった。

 てっきりあの怪異に変身して襲いかかってくるものだと思っていた。


「僕はまだ生きている!生きているならやるべき事がある!それはお前を殺す事だ、名も知らない僕の敵!」


 次にマルクは虚空から黒い槍を生成した。

 それを地面に突き立て魔力を注いだ。


 そこを起点に黒い剣山がゆづきに伸びる。

 横へ回避するが、剣山は進行方向を曲げて追従してくる。


「過去が辛いならその人生を誰かに補ってもらえばいい、克服と言い換えても良いけどそれが出来ないなら死ね!」


 マルクはゆづきの隙を狙って別の槍を薙ぐ。


「くっ……めちゃくちゃだ!」


 サニシアでマルクの攻撃は弾ける。

 だがどこまでも追ってくる剣山まではさばけない。


 マルクはもう一本の槍も地面に刺す。

 剣山が二つに増え、左右からゆづきへ迫り来る。


「イチかバチか、サニシア!」


 願う。

 この身を軽やかに、だけども鋼よりも頑丈に変身させてくれ。と。


 サニシアが輝く。

 ゆづきの体が軽くなり、黒い剣山へ降り立っても無傷でいられるようになった。

 だがあくまで身体のみを強化したようで、触れた靴はズタボロに裂けてしまった。


 しかしそんな事は気にしていられない。

 剣山を乱雑に蹴り折り、その過程でマルクへ距離を詰める。


「終わり、だぁっ!!!」


 サニシアを振りかざし、斜めに斬りおろした。

 その剣筋は確かにマルクを引き裂いた。

 だが目の前のそれは姿を歪ませ霧散する。


「終わるのはお前だ」


 背中に巨大な圧が加わる。

 支えきれずに前方へ倒れ、やがて指が一寸も動かせないほどに重さが増す。


 そこで願う。

 この周囲を無に帰せ。と。


 サニシアが輝いたかは知らない。

 だけどそう願った瞬間、圧は嘘のように消え失せた。


「えっ……?」


 渾身の一撃だったのだろう。

 マルクは呆けた顔で立ち尽くし、ゆづきの事を信じられないと言いたげな目で眺めていた。


「多分あたしに攻撃をしても無駄。形のあるものは消し、負った傷もすぐに再生させられるから」


「……なんで、なんでだよ!くそっ!くそがぁっ!!!」


 これはゆづきが初めて見たマルクそのものだ。

 苛立ちを隠さず辺りにわめき散らし、子供の駄々と言うにはうるさく生意気で、とにかく理不尽な怒り。


「ごめんとは言わない。まあここにはあたしと君しかいないからこの際言っちゃうけど、あたしのために死んでくれ」


 これは仕方のない犠牲、というよりは当然の結果なのだ。

 マルクは〈イデア〉に害のある存在で元々殺すつもりだったし、何よりもこの空間から脱するためには多分このマルクを殺さないといけない。

 つまり二重の意味でマルクは死ななければならないのである。


「やだっ!僕はまだ死にたくない!」


 マルクは逃げ出した。

 背後へ手を伸ばし、必死に黒い魔弾を放っている。

 だがゆづきは横へ逸れ、魔弾の軌道外からマルクへ向かった。


 二馬身ほどに迫ると、ゆづきはサニシアをマルクの背中へ投げ放った。


「ぎゃあああぁぁああっ!!!」


 絵に描いたようにサニシアはマルクに突き刺さり、倒れ悶える姿を見ると胸まで貫通していた。


「あっ、あっ、ああ!苦……じい……ああああ!」


 胸からは血を、顔からは体液を凄まじい勢いで流しながらマルクは手を伸ばす。


「たすけ……て、ネクリ……さま」


 指先からマルクの身体が溶け始める。

 という事はその身は肉で構成されていなかったということになり、本体がどこかに潜んでいるかもしれない。

 周囲の警戒を怠らず、ゆづきはマルクの慣れ行きを見届ける。


「ネ……ク……僕の……ゆうしゃ……」


 細く弱まる声音。

 “ネクリ”に縋るようにして消えていく。


「はっ……はっ……いやだ……死にたく……ない。せめて、こいつ、だけでも……」


 消えかけた肩を持ち上げると、マルクは黒より黒い煙となって爆発した。


「うっ!」


 爆風に押されるが耐えきる。熱は無く、この爆発はどうやら煙だけのようだ。


 しばらくして次に目を開いた時にはもう、マルクの姿は無くなっていた。


「終わった……」


 この戦いの結末を見届けられたと胸を撫で下ろした。

 最終的には当初の目標を達成したが、本当にこれで良かったのだろうか。


『いいんだよ。自分にとっての正義は他人には理解しえないんだから』


『でも、そんな自分の正義を疑ったあなたは本当にあなた?』


 結界が崩壊しない。

 なにかがおかしい。


 また女の子が見える。

 黒い髪の、昔の黒宮ゆづきの姿が。


「また……もう消えて」


『わたしは影、あなたの心のどこかにいる闇の記憶』


 そういうことか。

 マルクという存在は死んで無くなったけれど、ここに新たな結界の主である影が誕生してしまったのか。

 ならばこいつを消し去るまでだ。


 サニシアで女の子を斬りつける。

 腹を深く裂き、大量の血が溢れ出た。


「うああぁぁああああっ!!!」


 腹が痛い。血が出ていないから外傷は無いはずだが、炎が体内で暴れ狂っているようだ。

 サニシアを手放してその場に倒れ込む。

 腹部を抑えてうずくまる。


『わたしはあなた』


 腹を斬り裂かれた女の子がゆづきの目の前に立つ。


『わたしを殺せばあなたも死ぬ』


『痛いね、苦しいね』


『でも、今死ねたらパパとママに会えるかも』


『じゃあ、いっそ死んじゃおうか』


 これを仕掛けたのはマルクで違いないだろう。

 死ぬ寸前にしたあの爆発、異質だったのはこのためか。


『あ、でももうなにもしなくてもわたしは死んじゃうか。お腹ぱっくりだもん』


 確かに失血で死ぬのは時間の問題だ。

 とはいえそれはとうに過ぎていると思うのだが、余裕の表情でいる以上はまだ猶予はあるという事なのだろう。


 しかしゆづきにはどうする事も出来ない。

 きっと女の子の傷が治らない限りはゆづきもこの痛みを伴ったままで、とてもではないがこの状態ではまともに動けない。


『あーしんじゃうー』


 ふざけている。

 自分が優位に立てているからといって、そして自分が死ぬのに何のデメリットも無いことを良いことにあえてゆづきを苦しめて遊んでいる。


「くそ……」


 ここで死ぬのか。

 自分で自分を斬りつけて、間接的なダメージだが要は自殺だ。


『あっ……ちょっとヤバイかも』


 いよいよ終焉のようだ。

 もう、どうあがいても無駄なのだろう。

 サニシアは手の届かないところにあるし、助けなんて今さら来ないだろうし。


 目を閉じる。

 走馬灯なんて見えない。

 やっぱり、最期くらいははづきに謝りたかった……


「終わらせない」


 誰かがゆづきの真横へ降り立った


『にゃあぁっ!?』


 女の子の叫び声が聞こえた。

 それと同時に腹痛も消え、ゆづきは容易に体を動かすことが出来た。

 目を開き、声の主を見る。


「……あんたは」


 まさかいるとは思わなかった。

 工場で怪異のマルクが襲ってきたきりで姿をくらませていて、すでに結界を抜け出していたものかと思っていたがまだ残っていたとは。


「なんで助けてくれるんだ」


「ワタシにはあなたが必要だから」


「あんたは一体何者なんだ」


「それは明かせない。今ここで身の上をマルクに知られれば彼の遺志につけ込まれてしまうから」


 つまりまだマルクはここに在るのか。

 どこまでもしつこい奴だ。


「大丈夫、ワタシはあなたの敵ではない。だから頼って。ワタシはあなたのためなら何だってやってみせられるから」


 これはとんだ人に好かれてしまったようだ。

 一体どこでどういう経緯でゆづきを知ったのかは知らないが初対面の、しかも自分を敵視していた人物にこうも身を寄せたがるのは逆に怪しい気がする。


 だがこの状況はどちらにとっても窮地なのは変わらないだろう。

 マルクとアリスが仲間だったからと言っても、なぜかアリスは好戦的では無いようだし、マルクはそのアリスごと結界に閉じ込めたし。


「……一時休戦って事で良いの?」


 アリスは首を振る。


「違う。元々ワタシとあなたは戦ってなんていない。むしろこれから共に安寧を求める関係なのだから」


「なに言ってるのこの人……」


 なんだかそこまで言われると怖くなってきてしまう。

 どこかでアリスに恩を売ったか、あるいはゆづきが覚えていないだけでそんな約束をしたか。

 いいやどちらも絶対にありえない。

 だってアリスは知らない初対面の人なのだから。


「ワタシが誰なのかは今は知らなくてもいい。とにかく、この邪悪の結界から抜け出そう。一緒に」


 アリスはゆづきの前に立つ。


「これが最初で、次にまたいつ会えるか分からないけど、ワタシを忘れないで。ワタシはあなたを愛してるから」


 慣れない笑みを薄く浮かべると、アリスはゆづきへ顔面を接近させる。

 ゆづきは動揺し目を瞑る。

 唇に柔らかな感触、溢れる吐息。

 ほんの一瞬の接触でも長く感じた。


「――ぷはっ……ア、アリス……」


「この世界での絶対の約束のしかた。ワタシを名前で呼んでくれてありがとう。――次はいつか、本当の名前で呼んでね」


 状況なんて関係無い。

 嬉しそうに微笑む純粋なアリスの目はゆづきの瞳の奥をただ真っ直ぐに見つめていた。

 きっともう、ゆづきは彼女の事を忘れる事は無いだろう。


「ああ、今度会うとき……じゃなくてあたし達は今から敵じゃなくて友達だな。だからアリス、一緒にここを抜け出そう!」


「友達……うん、今はこれでも良い。やろう、ゆづき」


 熱く、そして静かに二人は息を合わせた。

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