覆う影を祓う願い―2

 自分は、今、どうなっている。

 というより、自分はなぜ生きている。


 本来だったらすぐに死ぬ大怪我だったと思う。

 いや、もはや死んだのか。


 神器。それも聖剣サニシア。

 願いの聖剣とも呼ばれる、星神族グレヴィラントが創り上げた聖なる一振り。


 ――そうか、まだ、どちらも一割にも至っていないのか。

 優しく触れるだけでも自壊していまいかねないほど脆く、そして奇跡の上に許容を超えて重ねた無茶のせいでまたすぐに死してしまう。


 これは今はどうしようもないのだろう。

 きっとこれから先、頼り頼られる場面など数えきれないほど押し寄せてくるに違いない。


 これは、そう。

 自分自身への協力だ。


 ◇◆◇


 近づき、冷静に考えればこの光景には不自然な点がある。


 この工場を照らす夕陽。

 一体この茜色はどこから差し込んでいる。

 見上げても太陽なんて無いし、照明と言われてもそんなものは立っていない。

 まるで光景ごと現世から切り取って来たかのようだ。


「喰らえっ!」


 人の声と破壊音に近づいてきた。

 鉄骨の隙間を挟んで駆ける人影、跳ねて、三日月形の刃物を掲げて振り下ろす。


「あれは」


 そうだ。

 先程見かけた時には気付かなかったが、あれは昨晩シイナがドラゴンの腹を裂くのに用いた大鎌だ。


 そして例の煙突を斬り倒したであろうもの。


「やっぱりいたんだ」


 そして彼女のいるところに敵がある。

 そいつを自分が仕留めれば、もしくは貢献すれば……


 自然と足が早まる。

 車輪のように機械的に動き、標的へ一直線に向かう。


「来るなぁ!」


「逃げるなよぉ」


 燻んだ金髪の巻き毛の少年が、大人の黒い女性に追いかけ回されていた。

 手からどす黒い何かを放ち、しかし彼女の前には全てが散る。


 シイナが鎌を一振り、少年の首が弾け飛んだ。

 だがその頭は霧散し、何事も無かったかのように頭のある少年はまた逃走を続けた。


 再生とかそういう話ではない。

 確かに斬られたが無傷。

 無敵というように見える。


「ずるいぞー、正々堂々戦えー」


「うるさい死ね!……おい!僕を助けろよアリス!」


 そういえば敵はあの少年一人だけだと思っていたが、さすがにそんな事は無かったようだ。


 モエの姿が見えない。それと初めからいたはずのコートックも。


 ――突然、施設内部から光り輝く何かが天へ投げられた。

 金色で石ころのような。それは空中で肥大化し、平らに伸びると姿鏡を創り出した。

 その光景は記憶に新しく、コートックが椅子を創り出した時に酷似している。


 その姿鏡から腕が伸びると少年の首根っこを掴み、その中へ引きずり込んだ。

 その先へシイナが突っ走り、勢い余って鏡の前へ姿を晒す。


 直後、ギラリと光る槍が鏡の中からシイナの胸を貫いた。さらに間髪入れず四肢を貫く。


「なにっ……!」


 これまで余裕を見せていたシイナもこれには驚愕を隠せないようだ。

 動きを封じられ、空中で拘束されている以上その身がいつ終わりを迎えてもおかしくはない状況と見た。


 姿鏡はそのままに、今度は内部にて戦況が激化する。

 ガラスが割れて空に煌めき、鋭く不規則な音色が辺りを穿つ。


 シイナは成す術なく、ただ死を待つかのようにぐったりしている。

 助けるなら今しかない。


 そう判断したゆづきは駆け出した。


 歪曲した鉄骨を蹴り上がり、電柱からせり出す足場のボルトをひとつふたつと跳んで行く。

 頂点に達して姿勢を安定させる。


 ここまで信じられないくらい身体が軽い。

 脚力を含むあらゆる身体能力が暴走し、そのパワーでありえない動きをする。


「シイナさん!」


 しかめ面のシイナは驚愕に驚愕を重ねた表情でこちらを向く。


「う……そ、ゆづき!どうしてここに!?」


「説明は後でしますから!」


 ゆづきは姿鏡目掛けて跳躍、そしてしがみつく。


「えっと……」


 鏡面から突き出ている槍を折るか、シイナから引き抜くどちらが正解なのかが分からない。


「もしかして助けてくれるのかい?」


「でもどうしたら……」


「だったら私を押し出してくれ。全部一気に抜くようにね」


「分かりました」


 ゆづきはシイナの腹を徐々に押し出した、足で。

 槍の先端部がシイナの中から尾を現し、鮮血を残して全て抜かれた。


 ゆづきとシイナは工場の屋根に着地した。


「うぐっ……ぐ……げほっ」


 さすがに胸に刺さったのはまずかったか、シイナは咳とともに大量に吐血する。

 だがそれも数回で治り、特に後遺症があるそぶりも見せずに元どおりになる。


 ゆづきの感覚が狂い始めているのか、致命傷から復帰した様子を見ても特に何も感じなかった。


「えっと、まずはありがとう。まあこの際なんでこんな所にいるのかは後で訊くとして、それはサニシアだね?」


「多分。気付いたらこんなになってましたけど」


「そうか。それなら君は戦う気でここにいるわけだ?」


「そうです」


「……そうか」


 もしかしたら帰るように言われるかもしれないのを覚悟していたのだが、案外その心配は不要そうだった。

 複雑な顔で明後日の方向を向き、少し悩むとシイナは決断する。


「分かった。今はゆづきを認めよう」


 その言葉が嬉しかった。

 待望していたものとは違うが、それでも限りなく求めていたものに近い返しだったから。


「はい!なんでもやります」


 気持ちが昂ぶる。

 ついに焦がれていたその時がやってきた。


「私とやってたあいつはマルク・シャーター。〈エデン〉っていう組織の構成員で影を操る。そして今、中でモエ達が戦っているのは同じく構成員のアリス。今回が初めての接触だからまだどんな攻撃をしてくるのか掴めていない」


 ザックリとした説明。

 ここはきっと結界で、外に蔓延っていた禍々しい影はマルクとやらの仕業なのだろう。

 アリスとは、先程シイナを貫いた槍を鏡から伸ばした者で間違いはなさそうだ。


「今知れているだけで二人、そして結界が張られている。これ以上敵が増える事は無いと考えて良いね」


「はい、それであたしはどっちをれば良いですか?」


「……なんかゆづき変じゃない?なんでそんなに人を殺したがってるのさ」


「違います。これがあたしの使命だからってだけです」


 シイナは少し黙ってしまった。

 だがゆづきは工場内部で撒き散らされている火花を追うのに夢中だったのでその間を特に気には止めていなかった。


「……そうか。なら好きにやってみると良い」


 気のこもらない軽い言葉だった。


「分かりました」


 でもそれも気にしない。

 右手に確かにサニシアを握るのを確かめ、駆け出した。


 屋根の上に開いた大穴から飛び降り、運良く真下にいた燻んだ金髪目掛けてサニシアを構える。


「……ん?」


 間抜けだ、今己の頭上から死が迫っているというのに反応も見ていて呆れてしまう。


「お、おわぁああっ!!?」


「チッ……」


 すんでのところで躱された。

 その髪をいくつか斬り飛ばしただけで失敗した。

 だがこれで止めはしない。


 着地の反動を下半身で下へ跳ね返す。

 急発進で風を切り、マルクへ迫る。


「な、なんだお前ぇ!」


 その問いには答えず、無心でサニシアを振りまくる。


 縦に振り右に薙ぐ、再び振り上げ左斜め下に体重をかけて斬り裂く。

 怯んだところを足蹴りで体勢を崩し、背後に回りもう一度蹴り飛ばす。

 うつ伏せに倒れ伏した瞬間には身動きを封じる意味でその体の上に立ち、何度もその頭を踏みつけた。

 ガツガツ、額を割り血しぶきを撒き散らせ、抵抗と断末魔を響かせる。


「うぎゃああああああ!!!アリズ!アリズゥ!なんとかじろよぉ!」


 アリスと呼ばれる人物はここからかなり離れた場所でモエと交戦していた。

 その足元には赤く染まった白衣のコートックが倒れていた。

 背に多くの刃を受け、今はピクリとも動く気配がない。


 遠目で見た感じ、アリスは少女である。

 短めの黒髪。顔までは良く見えなかった。

 どうやら魔法を使うモエに剣で立ち向かっているようだ。


「油断したな……」


「――!?」


 ゆづきが一瞬目を離した隙に、マルクは地面に差し込む影の中へと溶け込んでいってしまった。


 地面の影から壁へ伸びる影へ。

 この一直線上のどこかに潜んだ。


 ならば。


「壊すまでだ」


 手近な鉄の棒を左手で拾い上げ、その壁へ投げつけた。

 けたたましい金属音が反響し棒が壁に突き刺さる。

 そこを起点にパズルのような幾何学模様の筋が軌跡として刻まれると、一面の壁が崩壊を始めた。


「なんだよそれぇ……!」


 潜伏していた壁が崩壊し、居場所の無くなったマルクは突拍子のない場所から弾き飛ばされた。


 大小様々な破片が空を舞う。

 その刹那の間にゆづきはそれを足がかりにして再びマルクへ距離を詰める。


「死ね!」


 首元を狙う。

 だがサニシアの長さでは足りず、虚空を撫でる。

 このままではまた別の影に潜られてしまう。ので、左手を伸ばし喉を鷲掴む。

 そしてこめかみへサニシアを刺し込む。


「んまっ……あばぁ……」


 間抜けな泣き声をあげ、血が混じった涙を流すその瞳は互いに別々の方向を向いている。

 口の端から泡を吹くその姿はもはや死を迎える直前だ。


 サニシアを抜き、身体を縮こめて一回転。気持ち程度に右足で踵落としで頭を割る。

 その衝撃分ゆづきの踵も砕け、鈍く激しい痛みを感じる。


 地面に着地した際に、右脚が支えきれなくなり片足を着いた。

 目前でドサリと死体が転がると緊張が解け、地面に腰をついた。


「は、ははは!やった。やったぞ!」


 あっという間に仕留められた。

 これでいかに自分が戦えるかが証明できたはずだ。

 これがサニシアに与えられた力だとしても、結局はそれを自分が振るっている時点で強さなのだ。


「あははは!これで、これであたしも!」


 目頭に熱がこもり始める。

 それから脳内でも思考が停止し、次第に視野が狭まってくる。


「ふふっ……」


 ゆづきの横に誰かが降り立った。


「それが君の答えなんだね」


 この声はシイナだ。

 もう、聴覚も鈍ってしまいノイズが酷い。


「それは本当に君のしたかった事?世界を救済するのに必要な犠牲がこの結果だったとしても、君は何の疑問も感じないのかい?つい昨日まで戦いに縁の無かった君が、だ」


 そうだ。自分は昨日まで戦いに無縁だった。

 凶器だってついさっき生まれて初めて握ったばかりというのに、授かった身体能力を利用して躊躇いなく人を殺した。

 血に怯える事もなく、湧き上がる感覚に任せて突き進んできた。


 これが平和の中に身を置いていた者の姿なのか?いいや違う。

 これは、自分だ、紛れもなく自分。

 黒宮ゆづきの姿を借りた誰か――違うそうではない。自分は自分だ。


 自意識が分裂と統合を繰り返す。

 誰かが自分の中にいるなんてありえないし、人格が複数備わっているわけでもない。

 しかし何かが。そう、“なにか”がゆづきを蝕むのだ。


「なにもそれをやめろと言っているわけではないよ。望むのなら、自分の選んだ道を変わらず進むと良い」


 つまりゆづきは戦っても良いという事になるのか。念願叶ったりだ。


 ――マルクの死体が歪んだ気がした。

 シイナはそちらが見えていないだろうし、ゆづきも心身のコンディションの悪化による勘違いだと思った。


「まだ……アリスが」


 あちらの方はまだ戦闘が続いているだろう。

 横取りに見えるかもしれないが、それでもモエより先にアリスを討てば自分の評価はさらに上がるはずだ。


「そんな身体で大丈夫かい?」


「あたしなら……心配はいりません」


 ゆづきはサニシアに願う。

 というよりもはや願うという行動は、単に心の中で思った事の実現に変わりがなくなってきたのだが。


 右脚の負傷となぜか血の流れている左手首を元に戻した。


 そして、最後の敵を殺すためにまた歩き出した。


「……私は君に話したわけじゃないんだけどね。ゆづき」


 ぼそりとシイナの発した言葉は、耳障りなノイズによりゆづきの耳に届く事は無かった。


 ◇◆◇


 熱に浮かされているみたいだ。

 一挙一動がふわふわし、動かした数秒後に脳で行動の判別がつく。

 頭が重く、視界が悪く、考えうる限り最悪の状態だ。

 こんな体調不良の日は布団でゆっくり寝ているのが良いというのに、意地でも殺戮を果たしたいなど狂気の沙汰でしかない。


 一応は自我を保てている。

 何者かに奪われそうになっているというわけではないが、ふとした瞬間に自分が自分ではなくなってしまいそうだ。


 壊れた壁の穴から中へ入ると奥ではモエが魔法を放ち、アリスが剣を振るっていた。

 一見して状況は先程と変わりはない。

 モエが放った魔法をアリスが剣で受け止め、それをいなしたり弾き返したりするのではなく、その刀身にそのまま纏わせている。

 纏った魔法は振るわれてもすぐには消えず、アリスが虚空を斬れば一筋の斬撃が飛び出し遠距離のモエに襲いかかり、もしそれに怯えて近づけば恰好の餌食になる。


 モエもそれは心得ているのだろう。

 だから延々と同じ距離で魔法を放っては吸収され斬撃に変換され跳ね返されて、だけど障壁を張っているモエにはそれが届かなくての繰り返しだ。


「あぁもう!あんたはそれしか出来ないのかしら!?もう少し別の攻撃でもしてきたらどうなの!」


「……人に同じ事を言えるの?」


 そろそろ決着をつけたいモエに対してアリスは涼しい顔をしている。


「……ワタシはあなたに興味は無いの。そっちにいる、ワタシを見ているあの人を待っていた」


 アリスはゆづきへ振り向き、ゆっくりとこちらへ近寄ってきた。

 先程は良く見えなかった顔が鮮明になり、細かい部分までもがあらわになった。


 黒の短髪でゆづきから見て右側に白のメッシュが入っている。

 冷たい光を宿した瞳、仮面のような無表情。


 そのどれを取っても特になにかが記憶にあるわけでは無い。

 それに加えて雰囲気すら全く違うというのにどういう事か、ある子が思い浮かんでしまう。


「……はづき……?」


 目の前にいるのはアリスという少女だ。

 だがどうしてだろうか、何やらはづきと重なるのだ。


 髪型は似ているがはづきにメッシュは無い。

 それにここまで鋭い目つきでもなければ声も違う。

 一致しない、だけど引っかかる。


「アリス。今はそう呼ばれている。あなたもかつてはワタシがまだ……」


 アリスの言葉を遮り、耳障りな風切り音がゆづきの正面から迫る。

 アリスは尋常では無い反応速度でそれを剣で受け止めて吸収した。


「邪魔」


 風であろう力を斬撃として飛ばす。

 その先に構えるのは片手を伸ばすモエ。

 このままではまた同じ事が繰り返されるのだろう。


 だが違った。アリスの斬撃はモエの手前で急旋回し、一筋が分裂し二つに。二つが分裂し四つにと、ひとつひとつの長さは粒になれどその数を大幅に増やした。


 アリスが指を上へ曲げる。

 大量の粒群はそれに従い、もの凄い勢いで天井へ次々に着弾する。


 ポツリポツリとちりや屑が降り注ぎ、穴の空いた天井が異音を立てて崩れゆく。

 連鎖的に、ダメージを受けていた柱も折れ、モエの頭上で全てがごちゃまぜになり落ちた。


「くっ……!」


 上へ障壁を貼るモエ。

 折れそうな膝をなんとか保ちながら踏ん張るその周囲には落下物が堆積していく。

 ひとつひとつがかなりの大きさで、あっという間にモエはその中に幽閉されてしまった。


「モエちゃん!」


「終わり」


 アリスは剣を水平に持ち、瓦礫の中心を見据えて身構える。

 剣に光が宿る。


「させないよ」


 舞い降りたのは黒だった。

 モエとアリスの中間に、シイナがいつもとは様子の違う大鎌を持っていた。

 刃が黒光りし、刀身には神器特有の模様が浮かび上がっている。

 それに加えて身の毛が逆立つような、本能的に拒絶を覚える気配を放っている。


「……あなたは現在の管理者でありながら傍観者を気取っている臆病者。肝心な時にしか介入せず、しかし肝心な時にその大切な偽物の子に邪魔をされる」


 アリスは静かに語る。


「初対面の君にそこまで言われる筋合いは無いんだけどね?一体何を知った上で人のやり方に口を出しているのかな?」


「……シス」


 シイナの表情が曇る。

 大鎌を握る手に力が入った。


「なるほど。どうやら君は一介の構成員では無さそうだね」


「いいえ。ワタシはただの下っ端。彼女の指示ひとつでこの身を投げ出す事が出来るのだから」


「……そうか。なら君は捕虜にしよう。知ってる事を全て聞くまでは帰すわけにはいかないからね」


「やめたほうが良い。今のあなたではワタシに敵わない」


「それでもやらなければいけない理由があるんだよ」


 シイナとアリスは睨み合い、互いに駆け出した。

 シイナは距離を詰めて遠心力を利用して鎌を振るい、その刃が当たらない地面スレスレでアリスは脚に斬りかかる。


 しかしシイナは跳躍、下降する勢いに任せて鎌の先端を突き立てる。

 アリスはそれを躱し、横へ一筋に斬る。


 鎌をそのまま床に突き刺し、腕の力だけでシイナは後方へ飛び退く。

 アリスの一振りは外れた。


「逃げてばかり」


 シイナが手を横へ伸ばすと、大鎌はひとりでに床から抜け出しその手中へと帰って行った。


「戦略的な回避だよ」


 大鎌が戻った直後、アリスは左手で鮮やかな輝きの光弾をいくつか放つ。

 だがどれも命中する事はなく、無意味に機械や資材を破壊しただけに過ぎなかった。

 壁に穴が空き、茜の夕暮れと影が差し込んだ。


「へえ、なかなかの力だねぇ」


 この状況で関心している場合では無いだろう。


「そろそろその席を譲るべき。あのお方もそれを望んでいる」


「ははっ、悪いけど私もまだまだ現役なんでね。そもそも部外者に譲る席なんてものは初めから存在しないわけだよ」


「部外……者?」


 アリスが動きを止めた。

 敵を目の前にして、唇を噛みしめ顔を伏せ、拳は血が流れてくるほど力一杯握りしめている。

 その顔は怒りか悲しみか、分かるのは、シイナに対して決して良い感情を抱いていないという事。


「あなた。いや、オマエには人の心が無い。それどころか……」


「他所は他所、うちはうち。だろう?アリス君」


「……なら、これがワタシの答え。オマエに手出しをされる筋合いは無い」


 アリスは跳び、再びゆづきの真横に降り立った。


「今のではっきりした。ワタシはあなたにわがままを言う権利がある」


 次にまばたきをした直後、二人の周囲に鏡が乱立していた。


「だから、今は一緒に来て、ね……」


「ヴェエェエエエアアアァア!!!!!」


 また闇。

 じめじめと這いずるように暗黒が辺りを塗り潰す。


「ジ……イナァァ!ァリズゥゥウ!」


 それは怨嗟の声だった。

 地獄の底から怪異が押し寄せてくるような、不気味な恐怖を覚える。


 鏡の隙間からそいつの姿を捉えた。

 頭の先から足の先まで変形し、部分的に肥大化した醜悪な肉体。その中でも特に口と、その中に収まりきっていない大牙が強調されている。

 もはや人型とは呼び難く、その姿を強いて例えるならば飢えた巨獣だ。


「……マルク、死してなお我欲を満たしたいか」


「ォグヲッ!ボグニしタガえヨォぉ!!」


 マルクは先程アリスが破壊した壁から侵入してきていた。

 触れた影を取り込み、ありえない位置にまでその影なる手を伸ばして空間を喰らう。

 壁や床に沿って影を伸ばしているのではない。もはや空に向かってもその影は立体的に侵食を始めているのだ。


「『影食えいしょく』の名に相応しい暴走。歯止めの効かなくなった本能と欲望で全てを呑み込むその姿は紛う事なき闇」


 工場が喰われる。

 空間に馴染む概念であるはずの夕陽までもが喰われる。


「凄まじい因子の力。その気になれば回生をする事すら難儀では無かったはずなのに、そうしなかったのはその強大な憎しみ故か」


 アリスが何を言っているのか分からない。

 ただ、これは誰がどう見ても危険な状況だと言うのはひしひしと伝わってくる。


「シイナさん!」


 ゆづきはアリスの下から逃げ出した。

 アリスはどういうわけかゆづきに敵対している感じは無かったが敵は敵だ。

 いつ刺されるかも知れないこんな場所で、まして敵の言いなりになるほどゆづきの意識は緩くは無い。


「待って!」


 アリスの制止を無視して立ち並ぶ鏡をすり抜け、邪魔ならばなぎ払った。

 ガシャリガシャリと大音量にして不快な破壊音が響く。

 それを背後にシイナにたどり着いた。


「無事で良かった。何もされていないかい?」


「あたしは大丈夫です。でもモエちゃんとコートックさんが……」


 モエは瓦礫の下敷きに、コートックは血塗れで倒れ伏していて、正直なところゆづきもコンディションは最悪だ。


「残念だけどコートックは死んでるよ。モエならまだ間に合う」


 実に躊躇いなく宣告され、ゆづきの中でのコートックが歪む。


「死ん……」


 すぐそこで今にも動きそうなのに、これが死んでいる……

 良く見れば、光を失った半開きの目と血色の悪い顔。


「ぃっ……!」


 死んでいる。

 ゆづきがそれを認識した頃には既にシイナはモエを瓦礫の中から引っ張り出していた。

 モエは幸いそこまで深い傷は負ってはいないように見えるが、頭部からは流血していた。

 よろけ、シイナの支えありきでなんとか立ち上がっている。


「モエ、この戦いは敵の暴走による自滅で幕を降ろす。巻き込まれる前に撤退するよ」


 モエは黙り頷く。

 シイナは片腕に抱えた大鎌を捨てた。


「ゆづき、私はモエを抱えて行く。君は自己防衛をしつつしっかりついてきてくれ」


「は……はい」


「辛いだろうけど今は耐えてくれ。君にしか成し得ない使命のために。……行くよ」


 モエを両腕に抱え込んでシイナは崩壊した壁の隙間から外へ抜け出した。

 霞む視界の中でなんとかそれに続く。


 背後では壮絶な破壊音。

 鈍い音を立てて何かが軋む。


 走る。

 シイナは武器を捨て、モエは重症、ゆづきだけが聖剣サニシアという武力を備えている。

 もし背後からアリスかマルク、もしくは両者が追ってきていたら選べる道はもはやひとつしか無い。


「結界の入り口までもう少しだ!」


 シイナが叫ぶ。

 ゆづきは確認のために振り向く。

 工場が少しずつ傾き、崩れた屋根や煙突が土煙を上げて飛散する。

 破壊の衝撃と風圧が背を押す。


「……ここだ」


 そこは特に何も無い地だった。

 夕陽が差していた工場とは違ってこの場は切り取られたかのように暗かった。

 いや、ここが違うのではない。

 工場が異質だっただけだ。


 遠方で拡大する影は既に工場の大半を占めていた。

 ここまで侵食してくるのかは不明だが、もし来るのなら時間の問題だろう。


「……無い。くそっ!外から塞がれたか!」


 きっとこれは深刻な状況なのだろう。

 シイナの様子で察する事しか出来ないが、予想外の出来事があったようだ。


「シ……イナ。あそこに……もうひとつ」


 か弱い、今にも消えてしまいそうなモエの声。


「あそこって」


「このまま、もっとまっすぐ……」


 震える指を前方に伸ばし、その直後モエは力尽きた。


「分かった。もうお休み、モエ。ありがとう」


 噛みしめるように語りかけ、シイナはゆづきへ目配せをした。

 再び走り出す。

 工場から遠ざかれば遠ざかるほど深く、暗く落ちていく闇の中へ。


「あった、これか」


 どこを見てももうあの工場の姿どころか夕陽の跡形も無い。

 極端な暗黒の最中、多少は慣れた瞳に映ったのは空間の歪曲。

 濁ってはいるが水面のように揺らめき、星々が散りばめられた夜空の世界。

 そんなものがこの向こう側にはあった。


「どうやらギリギリだったようだね。悪いけど先に行かせてもらうよ」


 理由付けのためか、そんな必要は無かったのにぐったりしたモエの顔を見せつけるように傾けてシイナはその中へと足を踏み入れて行った。


 森の中でこの結界内に入ってくる時は強行的で荒々しいものだったが、出る時はあっさりと穏便に済みそうだ。


 辺りは誰かが追ってきている気配も無く、不気味なくらい物静かだった。


 水面に手を触れる。

 その先の外気なのか少し肌寒く、そしてシイナがその手を掴んでくれた。

 ここに来て安心感に包まれ、一連の出来事にようやく胸を撫で下ろせた。


 これで、ようやく終わる。


 確かな足取りで水面へ浸かった。

 半身が外へ抜け、森の中で星空を見た。

 空気の質もガラリと変わり、ツンとした少し寒く気持ちの良いそよ風が吹いていた。


 最後に足を運ぶだけだったその時、一瞬の浮遊感と共に不意に転んでしまった。


「ゆづき!?」


 上半身が外へ、下半身がまだ結界内という状態。

 両足首に違和感を感じた。


「あ」


 引かれる。


「シイナさ」


「ゆづき!!!」


 苦し紛れにゆづきを引いていたシイナの手も呆気なくほどけた。

 ゆづきは結界へ引きずりこまれ、その闇の中で揺らいでいた水面もいつしか消え去ってしまった。


 それが意味するのは出入り口の失われた空間。

 つまりゆづきは、怪物の潜む檻に囚われてしまったという事になる。

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