戦うための犠牲

「ここがゆづきの部屋っすよ〜」


 マーシャに案内されたのは本館二階にあるゆづきの新しい部屋だった。


 ――つい先程タイミングよくシイナの前に現れたマーシャは、本格的にお荷物のゆづきを押し付けられたのだ。

 せっかくだから部屋で押さえ込んでいろと命を受けて。


「どうすか?気に入ったっすか?」


 広い。これが第一印象だ。

 無駄に広い、とにかく広い、誰がなんと言おうと広い。

 キングサイズらしきベッドや必要最低の収納などが設置されているだけで、後は自由に模様替えして良いみたいだ。

 窓際のドレッサーの上には、ゆづきが持ち込んでいたバッグが丁寧に置かれていた。


 それを確認し、ゆづきはベッドに座る。それに便乗してマーシャも隣に座った。


「ん、まあ良いと思う」


「元気無いっすね。そんなに血を見たいんすか?」


「そういうわけじゃ無いけどさ」


 神器なんて代物を手にしている以上、そして世界を救うという使命を自覚している身としてなぜこのような緊急事態でじっとしていなければならないのだろうか。

 食客だからか、それともろくに武器も扱えない元一般人だからか。


「なんつーか、聖剣サニシアの存在意義が分からないなって。武器でしょ?戦えるでしょ?」


 マーシャは腕を組み、身体ごと大きく首を傾ける。そしてそのまま倒れこむ。


「ま〜シイナさんが決めた事っすからね。よほどの事が無い限りあの人の意思を変えるのは難しいっすよ」


 のんきにもそんな事を言う。


「ところでさ、緊急事態ってなんの事か分かる?」


「差し詰め近郊にヤバイモンスターでも出没したか、個人的に対処しなければならない出来事が発生したかのどちらかっすね」


「ふーん」


「一応言っておくっすけど、いくら未知数の能力を有する神器を持ってしても今のゆづきには何も出来ないと思うっすよ。別に役立たずと言っているわけじゃなくて、立ち向かうものがきっと強大故に。っす」


 そういう意味では無いと言われても、要は役立たずという事だ。

 せめて、昨晩のドラゴン討伐のように見ているだけでも良いと言ってもらいたかった。


 血を見たいわけではない、積極的に命を奪いたいわけでもない。

 ただ、戦いの中に身を置いた者として武器を取る事は出来る。

 それがほんの些細な力であろうと、きっと無よりはマシだ。


「ねえ、〈イデア〉でのあたしの存在意義ってなに」


 戦う力があり、当人にもその意思がある。

 これではただの持ち腐れだ。


「光、っすかね」


「光?」


「ゆづきは自分がここに来たのは、シイナさんの単なる思いつきだと思ってるすか?」


 首を振り否定する。


「それは、滅多に扱える人のいない神器を手に出来たから」


「その通りっす。これまで神器なんてのに適合したのは誰もいなくて、つまりそれが〈エデン〉に対して最大の武器なり得るからゆづきは大切にされるんすよ」


「エデン?ていうかその言い方だと将来的にはあたしも戦うみたいな感じだけど」


 エデン。気のせいかどこかで聞き覚えがある。

 ゲームだったかアニメだったか、どちらにせよこの場において必要のない知識だ。


「〈エデン〉ってのはシイナさんを目の敵にしてる組織の事っす。なんで恨まれてるかは知らないすけどずっと戦い続けているとか」


 その戦いにおいてこの神器は有力になると。つまりそういうことか。


「一つ言っても良い?」


「なんすか?」


「冒険者って何?」


 まさか〈イデア〉はその〈エデン〉に対抗するためだけにあるのではないだろうな。

 だとしたらどうしてギルドで手続きをしてわざわざ冒険者という肩書きを得る必要があったのか。

 モンスターを討伐するためではないのか。


「平たく言えば冒険をする者の事すけど?」


「そりゃそうだけど……」


 確かに冒険者という字面なのにモンスター討伐だけというのもおかしな話だ。

 これはゆづきの勝手な思い込みによる疑問だったので深追いはよそう。


「あたしが言いたいのは、依頼を受けてモンスターを退治しに行くだとか、なんかそういうのが冒険者らしいのに〈イデア〉は対組織のために動いて全くらしく無いってこと」


「そんな事無いっすよ。自分らもきちんと冒険者やってるんすからね?なんならギルドまで確認しに行っても良いっすよ」


 そういえばと昨晩の事を思い返す。

 ドラゴンの元へ向かう前、モエが提示してきた二枚の紙、それだ。


「……んーーー!」


「うおっ、なんすかいきなり」


 ゆづきはどうしようもなくどうしようもないモヤモヤを晴らすため、気休めでも良いからとベッドの真ん中で暴れた。


「一回で良いから戦いたい」


「それは禁止されてるから仕方ないっすよ」


 現実と二次元と混同するなんて事はしない。

 だが聖剣だ、この手にあるのは願いの聖剣と呼ばれるものなのだ。

 具体的にどんなのかは知らないが、きっと願い事を叶えるだとかそういう事だろう。


「命はひとつだけ。限られてるんすよ。それをちょっとしたお願い事で落とすかもしれないって考えないすか?」


「……分かってるけどさ」


「だったらその時が来るまで、ここでこうしてゆっくりして待つっすよ」


 ゆづきはマーシャに手を握られる。

 温かく、柔らかで安心する女の子の手だ。


 諦めか、どうにもならないような事で騒ぎ立てるのがなんだか馬鹿らしく思えてきた。

 この心地の良いベッドの上で、もう寝てしまおうか。


 瞳を閉じる。マーシャの手から伝わる温もりだけに意識を傾けて、それに縋るように意識を落とそうとした。


 ――間も無くノックも無しに部屋の扉が開かれる音がした。

 マーシャはまだここにいる。

 つまり誰かが入ってきたという事になる。


「マーシャ?ここはあの人の部屋だけど……って横にいたのね」


 これはそう、間違いないし間違えようもない。


「モエちゃん?」


 目を開き、声の方を見る。

 そこには何食わぬ顔のモエがいる。


「シイナは?というかマーシャは何をしてるの?」


 その問いの後で、マーシャはゆづきに密着するように体勢を移すと、ゆづきの胸の上に手を落とす。そしてまた上げて、落とす。リズム良くそれを繰り返す。


「シイナさんは急用で出て行ったっすよ。そして自分は悩める乙女の子守りっす」


 悩んでいるのは自覚するが、これを子守りとは……?


「……はっ!これってそういう事!?」


 先程から胸に手を落とされるのは、赤子をあやすあれをされていたという事だ。

 いやどうして嫌な気分にならないものか、不思議と安らいでしまう。


「急用って何よ」


「さあ?災害級のモンスターが現れたか、〈エデン〉が現れたかのどっちかっすね」


「ふーんあいつらまだ生きてたんだ。〈エデン〉なんてざっと三ヶ月も見てないから忘れてたわ」


「はぁ……そう余裕ぶっていられるのが羨ましい限りっすよ」


 マーシャは軽いため息を吐き、困ったように言う。


 扉の前にいたモエはベッドの真横に来てゆづきを見下ろした。


「それで?あんたはそんなチャンスをみすみす逃すって言うの?」


 苛立ちが込められた声だ。


「逃すも何も、あたしの利用価値はまだ先なんでしょ。だったら今出来る事なんて何も無いよ」


「はあ?何言ってるの」


 次第に空気が重くなってくる。

 マーシャも黙り、固唾を飲んでゆづきの手を握る。


「あんたの決意はそんなもんだったのね。強くなって護るべきものを護りたいなんてのも結局は虚勢。それなのに神器を手に入れて、これ以上の怠慢を働く気なら」


 モエは両手をゆづきへ向ける。


「ここで殺すわ」


 殺意が込められた視線に胸が張り裂けそうだ。


「その方が神器のためにもなる」


 その小さな手に輝きが収束し始める。


「所詮あんたなんかじゃ何も変えられない」


 まばゆい光は加減を知らずに増大する。


「ちょちょ、待つっすよ!何も本気になる事無いじゃないすか!ゆづきはまだ神器の使い方なんて知らないんすよ!」


 これは脅しではない。

 それは握るマーシャの手から伝わる必死さで理解出来た。


「それが何もしなくても良い理由にはならないわ」


「そうかもしれないすけど、仲間の事情をモエの一存で曲げるのは許されないっす!」


 マーシャは手を振り切り、ゆづきの前へ出た。まるで盾になるとでも言わんばかりに、だ。


「本気で殺る気なら自分が容赦しないっすよ」


 これはまずい、何とかして止めなければ。


「戦うと決めたのはその人よ。それなのに怠慢を働く事を肯定するマーシャにはその全ての責任が取れると言う事ね?例えその一振りで仕留められたはずの敵を逃したとしても、その敵がやがて脅威になったとしても」


「それは考えが飛躍しすぎじゃないすか。自分はただ、弱い者いじめを止めたいだけっすよ!」


「弱い者いじめ?これは鉄槌よ、偽りの決意で強さを語る愚者へ対しての」


「愚者って、仲間に対してなんて事言うんすか!」


 マーシャは叫ぶ。破壊を厭わぬ勢いでベッドを蹴り飛び、拳を振り上げて光の中のモエに襲いかかる。


「うっ……!」


 光の最中にてモエがうめき声をあげた。

 直後光は消え失せ、余韻がしばらく視界を塞いだ。


「人間のクズが!鉄槌を下されるのはあんたの方っすよモエ!」


 モエが頬を抑えている。

 激昂するマーシャに胸元を掴まれ、視線を強制的に合わせられている。

 その口元からは赤い雫が床に滴り落ちていた。


「なにするのよ!」


 モエは脚を折り、マーシャの脇腹に膝蹴りを入れた。


「ゲフッ……」


 マーシャがよろけ、胸元を掴む手を緩めた。

 それを狙っていたモエは拘束を解き、即座に距離を取る。


「や、やだ……」


 現在この二人の間に生じている亀裂で、そしてその原因である事に何よりも罪悪感を感じる。


「もうやめてよ……」


 モエが口元の血を手で拭いマーシャを睨む。

 マーシャが拳を構えてモエを見据える。


「弱者であるという事は搾取されると同義よ。死の確率を自ら高めているとも言って良いわ」


「この世界では強さが優位かもしれないっす。でも、それを他人に強要するのは間違ってるっすよ!」


 マーシャが微動するのを視界に捉えたゆづきは、頭で考えるよりも早く身を振り出した。


 自分のせいで起きてしまったこの諍いを止めたい、もう強さでもなんでも良いから見ているだけは許されない。


 ケンカを止めるだけ。それが例えほんの小さな願いだったとしても。

 ゆづきは願った。


「だめぇーーー!!!」


 二人の間に割り込み、飛びかかってくるであろうマーシャに向き直す。


「んなっ!ゆづき!?」


 マーシャの拳が伸びてくる。

 まだ距離はあるが、瞬く間に眼前まで詰めてくるだろう。

 そうなればゆづきの顔面が青くなり腫れるだけで済み、もう少し酷くて血が流れるだけで終わる。

 それでマーシャの拳を止められるのなら安いものだ。


「これで良いんだ」


 覚悟を決めて目を閉じた。


 ……ゆっくりと時が過ぎている気がする。

 これはつまり、マーシャの拳を受ける事を認め、諦めたからだと解釈する。

 そしたら心に多少の余裕が生まれ、その余裕によって物事の進みが遅く感じられているだけに過ぎないと、そう考えているうちにもマーシャは迫ってきている。


「……?」


 遅い。思い込みで体感時間がずれていたとしてもこれはいくらなんでも遅すぎる。

 スローモーションの映像を見ているかのように、その動きからはありえない鈍さでマーシャが動いている。


 一体その間に何回まばたきをしただろうか。


 ――そしてスローモーションのマーシャはやがて完全に停止した。


「……止まった?」


 モエを見る。

 が、彼女もまたその動きを止めていた。

 肩を揺さぶり軽く頬を叩こうと、うんともすんとも言わない。

 まるで正真正銘本物の置物になってしまったかのように。


 だが身体が固定されていたわけではない。

 指を触れば、触った分だけ動き。

 髪を弾けば、弾いた先の空中で停止する。


 ――右手が疼く。正確には中指が。

 目を向けた先には、黒紫色の輝きを放つ指輪が意思を持ったように震えていた。

 震えているというのは物理的な振動ではなく、なんとなく心の底に落ちていく不思議な鼓動のようなものがあるのだ。


 それがゆづきの心臓の鼓動と一致している。

 耳まで響くけたたましい脈音。


「神器……が使えてる?」


 現象から見て間違いは無さそうだ。

 ただ、これはどういう能力なのだろうか。

 時間停止と言うと『願いの聖剣』と呼ばれるこの神器の通称的に噛み合わない。


 となるとやっぱりこれは魔法か?

 だがゆづきはエレメンタルクリスタルを所持していないのでこの可能性は無いはずだ。

 コートックがちらりと言っていた例外とやらかもしれないが、そこまで自分は能力を持っているものなのだろうか。


 と、ここで閃いた。


「まさかケンカを止めた?」


 止めた。だがそれは時か空間の事であって、どんな理屈を並べても目の前で確かにケンカは止まっている。

 これではまるでトンチではないか。

 二人を仲直りさせる意味の止めるではなく、根本的に止めてしまうとはどういうことか。


 とはいえ、結果的に『ケンカを止めたい』というゆづきの願いは叶った。

 やはりこれは願いの聖剣の力だと見て良いだろう。

 結果がどうであれ、ついに神器を行使出来た。


「この状況、どうしたものか……」


 突進姿勢のマーシャ、棒立ちのモエ。


「ずらすか」


 マーシャの拳を下ろし、背後から引きずってベッドの上に放り投げる。

 モエは放っておいても問題無いだろう。


 これで暴力は無力化出来たが、依然としてケンカは収まっていない。

 そして、この静止させた二人はどのようにして動き出させれば良いのか分からない。

 まさかずっとこのままという事は無いと思うが。


 モエとマーシャはゆづきの願いによって止まった。

 なら、逆に動くことを願えばこの状況は抜け出せるのではないだろうか。


「それだ」


 そうと決まれば即行動だ。

 ゆづきは指輪を眼前に持ってきて見つめる。

 心の中で静かに、鈴音のように願う。


『動き出せ』


 それを願った瞬間、神器から伝わる鼓動が減速した。

 不規則に感じ取る二つのうちのひとつが弱まり、そして静かに消えていった。

 それと同時に黒紫の輝きも薄れていった。


「――ぃ!うばっ!」


 輝きが完全に収まった途端、ベッドから賑やかな声が聞こえてきた。


「あ、れ?なんで自分こんなとこにいるんすか?ゆづきは?」


「マーシャ」


「えあ!?ゆづきごめんなさいっす!」


 ベッドの上のマーシャはゆづきを見るなり土下座をした。


「じ、自分確かゆづきの事ぶん殴っちゃったっすよね?本当に申し訳ないんすけどそこら辺の事なぜか全く覚えてないしゆづきが自分の前に出てきたとこまでしか記憶が無くて……」


 やたら必死に訴えてくるマーシャ。

 殴りかかる前に停止させられたのだから、そこからベッドに移動させられるまでの記憶は無くて当たり前だ。


「ううん、あたしのために怒ってくれてありがとう」


「……?それはどういう意味すか」


「あたし、神器使えたよ」


 マーシャの目が点になる。


「え」


「なんですって!?」


 マーシャの言葉を遮ってモエが声を張り上げた。


「神器って聖剣は?どうやって?そもそも今の一瞬で何があったの?」


 モエがゆづきの顔に食らいつかんとする勢いで迫ってくる。

 それもとんでもない形相で。


「おおお落ち着いて!怖い怖い!」


「話しなさい!」


「あたしが二人の間に入った時に二人の動きが止まったんだよ!だからマーシャをベッドに移動させて、また動き出させたの!」


「行動は納得したわ、でもどうやって神器を発動させたの」


「その時はケンカを止めたいって思ってて、そしたら勝手に」


 モエは窓の方を向き、しばらく腕を組んで空を見上げていた。

 時折唸り声をあげて、首を傾げながら。


「つまりそれが願いの聖剣と呼ばれる所以なのね。所有者の願いを叶える、ただそれだけの事ながらなんでも出来てしまう」


 ゆづきも同じ事を考えていた。

 意味が歪んで伝わってしまうのはどういう事なのか分からないが、単純に願いを叶えられる物であるから『願いの』というのが付いているのには納得している。


「それでケンカを止めたいと願ったからサニシアが叶えてくれた。だけど正確な発動条件までは知らないと」


「うーん、もしかしたらだよ?ひとつだけ心当たりがあってね、そんなに難しい事じゃないんだけど、純粋にどれだけ強く願えるかって事なんだと思う」


「……?」


 ゆづきもあまり自信が無いだけにモエに首を傾げられてしまうと、どう説明したら良いか分からなくてなってしまう。


「要は、思いの強さが発動の鍵って事っすね?」


 と、マーシャが補足。


「そうそれ!」


 サノーレが言っていた、気持ちだけではどうにもならない。をあえて無視した考えだ。

 サニシアが発動するのは魔法か、あるいは思いの強さか。

 この一度きりで全てを知るということはとても叶いそうにない。


「これであたしも戦う力を手に入れたって言ってもいいんじゃない?」


 モエとマーシャは、まるで先程の諍いが嘘だったかのように互いの顔を見合わせした。


「でもシイナさんがどう言うかじゃないすかそれって?」


「私は良いと思うわよ。〈イデア〉のためもそうだけど、何より自分の使命を果たすためには反対を押し切るのも大事よ」


 ゆづきの使命とは世界の救済だ。

 具体的に何をどう救済するのかはまだ知らないが、願いの力があれば大きな前進になるのではないだろうか。いいやその前に、世界を救済してくださいと願うのはだめなのだろうか、だめなのだろうな。


 ――その時、ゆづきの左手首にピリリと痛みが走る。


「いたっ……」


「……?どうしたんすか?」


「あ、ううんなんでもない」


 左手首、そこにあるのは常日頃巻いている包帯。

 怪我をしているわけでもなく、過去の行いを隠蔽するための道具。


「……!?」


 痛みを紛らわせるためにさすっていると、その包帯の下から赤い線が滲み表れてきた。

 その一筋で思い起こされる、過去の自分が。


 横のドレッサーの鏡の中で幼いゆづきは、深い闇の底にでも沈まんとする瞳を揺らしている。

 光を失い、何を思っているのか分からない目。

 この世に寸分の興味も持たない仮面のように固められた表情。


『……ねえ』


 ほんの一瞬だった、たったそれだけの間に横目で見ていた鏡の中のゆづきがポツリと口を開いた気がした。


 咄嗟に鏡を視界から外す。

 声はもう聞こえない。


「どうしたのよ、調子でも悪い?」


 この挙動をモエに心配されている。

 恐らく左腕の事はバレていないだろう。


「なんでもないよ」


 軽い表情で向き直り微笑んで見せる。


「ならいいわ」


 無関心そうなモエは思い出したかのように目を細め、再度腕を組んだ。


「それで、あんたはどっちに着くのかしら?」


 邪悪な空気が舞い戻った。

 先程のような息苦しさは無いものの、背後のマーシャが宿した警戒は見なくても察知できるほど色濃かった。


「モエ、この後に及んでまだそんな事を言うんすか」


「これは提案よ。強制では無いのだからゆづきの意思が全て。もちろん、ゆづきがこの場に留まることを選ぶのなら私はそれを尊重するわ」


「でもシイナさんが……」


「そんなの私が面倒見てやるわよ。今、どんな戦場であれ彼女がいるのなら私は向かうわ。あんたはそれについて来るか来ないかだけ決めれば良いのよ」


 〈イデア〉においてモエがどのような立場なのかは知らない。

 だがリーダーであるシイナの意向を無視出来るという事は、ただの反抗か本当に特殊な立場にあるのか。


「ゆづき行っちゃだめっす。仮にも〈エデン〉になんて遭遇したら命が無いっすよ!」


「口を挟まないでもらえるかしら。戦うかはこの人が決める事よ」


「……行く」


 命を失くすのが怖いと言えばきっとモエは自分を見捨てるだろう。

 怖い、死にたくない。

 だけどこれから先自分が〈イデア〉において、有効活用できる人材だというのはこちらから知らしめていかないといけないのだ。


「それで良いのよ」


 モエが不敵に笑い、ゆづきをその身に引き寄せた。


「ゆづき!」


 マーシャがベッドから飛び降り、ゆづきの手を掴もうと姿勢を崩壊させながらも必死に手を伸ばした。


「無駄よ!」


 ゆづきのすぐそばの背後に半透明の障壁が展開された。

 すんでのところでマーシャはその手を遮られ、弾かれた反動で後ろへ転がる。

 マーシャがそれ以上ゆづきとモエに近づく事は叶わなかった。


「くっ……モエ!あんたはどこまでも……!」


「なんとでも言えば良いわ」


 モエは窓を解錠し、全開に開放する。

 外の空気が舞い込む。


「飛ぶわよ、昨日の夜を思い出しなさい」


 モエはゆづきへ触れた。

 その瞬間体が軽くなり、平衡感覚が消え失せる。


「シイナを探しながらだから今回は一緒に行くわよ。でも制御くらいは自分でやりなさい」


「分かった」


 ゆづきはマーシャへ振り返る。


「ゆづき!今からでも遅くないっす!戻って来るんすよ!」


 障壁の向こう側でマーシャは懇願する。


「……ごめんね、マーシャ」


「ゆづきっ!!!」


 モエが窓から飛び降り空へ駆けて行った。

 ゆづきも続き、夕暮れに染まりつつある空の下へ飛翔した。

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