一話 Aパート・チャプター7/にがいのがきらい




 ドア枠の上、ルーフをもって、わずかに顔が近づいて来たかと思えば、




「これが、私の能力。 絶対落涙空間。コキュートス・ティアーズよ」と、号泣する老紳士へ目をやり、




 いいいいいいいいっひっいいいひっひいいいいいいいい!と、横隔膜の痙攣を隠しもしない泣きすがたを悲しげに眺める。




「嫁のごどは言うなよおおおおおお!」と、老紳士がぶり返した哀しみに打ちひしがれ、またハンドルに突っぷして頭を打ちつけ、クラクションがペッと鳴る。「あん゛まりじゃないがああああああああ!」





 あ゛ーあ゛ー叫ぶすがたへと、タカハシ(27)も、ドン引きする顔を向けている。





「心が在るなら、どんなものでも泣かせてみせる。 それが私の、  絶対落りゅい空間!」と、サキちゃんは気合いを入れ過ぎて噛みながら、噛んだことは気にとめずとうすいして目をつぶり、窓枠から手を離して、身体を起こして、



 梅雨入りまえの重々しい夕空へと振りかえり、


 あおぎ、見あげて。





「コキュートス ・ ティアーズ、」と、あかい太陽の光に左の手指を伸ばし、独りですずやかにつぶやく。「こぼす涙で、 あらゆる闇を、浄化してみせるの」





「あのー、」と、タカハシ(27)は口を開き、サキちゃんの肌が透けて見えるセーラー服の背中と、



「んんんんんっ!ぐふうんんんん!」と、泣くのを堪えようとして堪えきれていない老紳士を、


 何度か見比べ、どうすりゃいいのこれ?と、困惑し、



「代表?」と、サキちゃんが後ろ手に指をくんで、若干すっきりした顔で、車内をのぞいて言う。優しい笑みを浮かべて、「もう、終わりましたから」と、澄み切っておだやかに続ける。



「んん!んっぐ!」と、身体を震わせながら、唇を結んでわなわなさせつつ、泣き顔を向ける、老紳士。「んん!」と、幼児のように頷いてみせる。



 タカハシ(27)は若干笑ってしまいながら、「あのー、」と、また、戸惑いに満ちた声を出し、二人を見比べて、




「少し、  休みましょうか?」と、サキちゃんが言い出し、「あそこに、ちょうどイイ感じのコーヒーショップがあるわ?」と、角の交番のそばを振り返って指さし、



 ――――――



「もういやだ根岸に帰る!」と泣きぐずってイヤがる老紳士の腕を、「いい加減にしてください代表!ほらタカハシも!手伝ってほらはやくっ!」と、必死に引っぱるサキちゃんに片手間にうながされたこともあって、

 心の底から帰ろうかなとも思ったが、

 いい歳のおじさんが泣いているので同情にかられてやむなく、


 二人がかりで運転席から無理やり引きずりおろして立たせた後、



 ――――――

 


 三人は、


 揃ってドトールの店内奥の喫煙席に腰を下ろしている。



 タカハシ(27)は、テーブルに両肘を突き、手で頭を支え、なし崩し的に奢ってもらった二杯めのアイスコーヒー(S)の水面に眼を落している。



 ちらと、手をどけて視線をあげれば、



 どこか肌つやのよくなったサキちゃんが右向かいの窓際で、ちょっとほくほくしたあかるい笑顔を浮かべて、ハニーアイスミルクを混ぜているところで、



 さらにちらと、その左に視線を泳がせれば、



 小二時間ほど叱られたおした子供のように老紳士が、


 つい先程カウンターで、『にが、い、の、 や、だ』と、しゃくり上げながら駄々をこねてサキちゃんに財布を渡して注文させたアイスココアを前に、


 いしゅくして、肩をすぼめて小さくなっている。



 まだ、哀しみは消えないらしく、時おり、ひひひっく、としゃくり上げている。


 

 タカハシ(27)は、人知れず小さなため息を吐いて、



「あのー、」と、本日すでに何回目かわからない声を出している。





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