第7話〜8話

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 初練習を終えた俺と亘哉くんは、徒歩で帰途に就いていた。俺たちの周囲には、日本中のどこにでも見られそうな住宅街が広がっている。どこかの家の夕食なのか、カレーの良い匂いがしていた。

 亘哉くんは自分の憧れの選手は、FCバルセロナとオランダ代表の攻守の要、フレンキー・デ・ヨングだと輝く瞳で口にした。小学校低学年だと前線の選手に憧れる子が多いけど、亘哉くん曰く「ゲームメーカーが、すっごいカッコいい」らしかった。

 やっぱり、「超絶姉弟」の片割れにして日本サッカー界の至宝は、他の奴とはどっか違うよね。ひがみっぽくなるから、言葉にはしないけど。

 公園を出てからずっと弾んでいた会話が、途切れた。話題を提供すべく黙考していると、「……あのさー」と亘哉くんが、小学生に似つかわしくない不安げな声で沈黙を破った。

 俺は、「ん? どうしたの?」と、軽い調子で聞き返した。目を伏せた亘哉くんは、とぼとぼと歩き続けている。

「姉ちゃん、学校で嫌われたりしてない?」

 歯切れの悪い亘哉くんに合わせて、俺は、シリアスに返事をした。

「うーむ、まだ入学したばっかだし、俺、中学は別だし、正直わからないなぁ。何でそう思うの?」

「僕には優しいんだけどさ、姉ちゃん、悪口が多いんだよ。前のミニ・ゲームでもさ、星芝さんたちに『あんたたちなんか、どうでもいい』とか、ゆってたでしょ? あんなことばっかり言ってたら、絶対、みんなに嫌われるじゃん」

 亘哉くんの嘆きの言葉に、俺は思案を巡らせる。

「水池未奈の毒舌は、たちの悪い攻撃だ」という意見は否定できない。だけど、悪口雑言を乗り越えた先にこないだのミニ・ゲーム後のような言葉があるなら、俺は未奈ちゃんの味方でいられる。

 それに自覚してないかもしれないけど、未奈ちゃんの口撃は男子への期待の裏返しだ。振り分け試験の「声が出てない」の鼓舞が、良い例である。

 だから俺は、「亘哉くん、いや、未来の義弟よ」と、暖かく包み込むようなトーンで言葉を紡ぎ始める。

「ギテー? ……まあいいや。なに? 星芝さん」

「未奈ちゃんを嫌いな人は、少なくないと思う。だけど未奈ちゃんには、俺みたいに、深い絆で繋がった味方もたくさんいる。だからなーんも心配する必要はないよ」

 俺の返答を聞いた亘哉くんは、きょとんとした顔になった。俺は大らかな笑みとともに、亘哉くんの瞳を覗き込む。春の夜の柔らかい夜気が、俺の身体を優しく包んでいた。

「……って星芝さん。よく見たら顔のここ」立ち止まった亘哉くんは真面目な感じで、自らの右頬をとんとんと叩いた。

 俺はさっと同じ場所に手を当てると、ぬるっとした感触がした。すぐに掌を見ると、少し血が付いていた。

「顔切っちゃってるね。けっこう痛そう」渋めの顔で、亘哉くんが呟いた。

「何回かスライディングしたから、その時かもな。そんでもこのぐらい、フットボーラーには日常茶飯事だよ。心配するにゃー当たらないぜ」

 人差し指をフリフリしつつ、俺はおどけてみせた。

「いやいや、ダメだよ。僕んち近いし、そこでちゃんと治療しよ。ね?」

 申し訳なさそうな視線に困っていると、亘哉くんはぎゅっと俺の手を掴み、てくてくと歩き始めた。ちょっと迷った俺だったが、やっぱり従いていく事にした。


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 三分ほど歩くと、やがて「水池」と書かれた表札を掲げた一軒家が見えてきた。二階建てで壁は焦げ茶、ごくごく一般的な家である。

 ぐんぐん歩く亘哉くんは敷地に入り、家の入り口へと至る三段の階段を上がった。「ただいまー」ドアを開いて、大きな声を出す。

「お帰り亘哉。……って、色呆け。あんたなんで……」玄関を上がってすぐのところで、未奈ちゃんが驚いた表情で立っていた。部屋着なのだろう、上下灰色一色の服を身にまとっている。ただミニスカートはちょっと短めで、健康的なおみ足が自然に目に焼き付いた。

「ごめん、未奈ちゃん。亘哉くんのお言葉に甘えちゃいました。勝手に上がっといてなんだけど、すぐに着替えたほうがいいよね。大丈夫。俺既に目ぇ瞑ってるから」

「あっ!」焦った感じの声が、閉目した俺の耳に届く。すぐにすたすたと足音がして、俺は目を開いた。未奈ちゃんは家の奥に着替えに行ったのだろう。

 普通の男子高生ならラッキーって感じだろうけど、俺は断じてスケベじゃあない。俺の幸せは、決してそこにはないのだよ。

 しばらくすると、上下白色のジャージ姿の未奈ちゃんが現れた。「で、何であんたがいんのよ」口調と目とは不満げだけど、照れているのか頬はかすかに赤かった。

「星芝さん、練習中に顔にちょこっと怪我したんだ。僕が手当てするから、星芝さんをしばらくうちにいさせてあげてくんない?」

「もう八時過ぎてんでしょ。手当でも何でも、小学生が夜更かししちゃダメ。あんたは風呂入って寝る準備しなさい」

 厳しくも愛を伺わせる調子で、未奈ちゃんは亘哉くんを諭した。

「わかった、そんじゃあ姉ちゃんよろしく。やっぱ優しいよね。学校でもそうしてりゃ、カレシぐらいすーぐできるだろうのにさ。もったいないよね」

 残念そうな風の亘哉くんに「このマセガキ。ほら、とっとと靴脱ぐ」と、未奈ちゃんは少し鬱陶しそうだった。

「わかった」靴を脱いだ亘哉くんは、とんとんと玄関上がって左手すぐの階段を上がっていった。

「あんたも上がんなさい。練習を命じたのは私。責任はあるし、きっちり治療したげる。特別大サービスよ」

 未奈ちゃんは、なおもぶすっとした感じだった。

「お、おう。ありがとう。あっ、ご両親ってどこ? 挨拶しときたいんだけど」

 ちょっと狼狽えた気持ちで訊くと、「お父さんもお母さんも同窓会。高校の同級生夫婦なのよ」と即答が来た。

「え、この家って今、俺たち三人だけ?」俺がすぐさま疑問を口にした。

「そういう事になるわね。妄想真っ盛りの男子高校生には、わりと垂涎のシチュエーションよね。まあ甲斐性なしのあんたに、私をどうこうする度胸があるとは思えないけど」

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