■第四信②

 徹じいが倒れたとき、不謹慎ではありますが、末期まつごまで何週間、何ヶ月かと秘かに賭けをしながら、その日のために墓標を用意して待ち構えていました。眺めのいい岬の突端、灯台の傍にでも埋葬してあげよう……などとヒソヒソ言い合って。特別待遇ですよ。他のやからと違って、僕らのためにいろいろ気を配り、骨折りを惜しまなかった、愛すべき人物だったんですから。しかし、徹じいは死ぬ前に身内とゆっくり話したいと、車を呼んで施設ここを後にしました。それが、荘だったんですね。廃材で作った十字架は未使用で、多分、物置の隅に収まっていると思います。

 ところで、宵待蟹は食用に適するかどうか——ですが。小さくて、見たところ殻も薄そうなので、唐揚げにでもすれば食べられるかもしれません。ですが、僕らは誰から言い出すでもなく、無毒な植物を餌にしていれば問題ないだろうけれど、毒草や土中の亡骸をんだものは体内に毒素を蓄積しているに違いないと思っているので、手出しはしないのです。には、糧になってくれるより、せっせと屍を分解して土塊つちくれと成さしめることを期待していますから。

 ザッザッと大股で歩く足音が近づいてきました。荘でした。凪はしゃがんだまま顔を上げて彼を睨みました。彼は仁王立ちになって僕らを等分に見比べ、何か言いかけましたが、ブァッと物凄いくしゃみを連発して身を屈めました。彼は僕らの動きに気づいて大きなゴミ袋を持ってきてくれたのでした。やはり態度はけれど、気配りはしっかりしていて、管理人としては妥当な人物なのかもしれません。施設の中はかつてないほどピカピカに磨き上げられていますし。

 凪は彼から目を逸らし、刈り取った雑草を袋に詰め込みました。荘はエプロンのポケットからタオルを引っこ抜いて涙と鼻水を拭き、

「何の花粉だ馬鹿野郎」

 誰に向けるでもなく文句を放ちつつ、目を真っ赤にして、まだくしゃみの発作と格闘していましたが、いつの間にか数の増えた宵待蟹の行進に視線を落として、

「こいつらを餌にして魚でも釣りゃ食材が増えるじゃないか」

 荘の顔には「自分で釣りたいが、そんな暇はないから代わりに行って来い」と書いてありました。僕は余分に時間が取れるなら一つでも多く箱を開けて本を整理したいくらいですから、そう答えようとしたところ、凪は彼を嘲笑うような鼻あしらいで、

「とっくに試した。足場は不安定だし、碌ながない」

「へえ、そうかい」

 荘が再びくしゃみに襲われ出すと、凪はゴミ袋を持ってプイと菜園を後にしました。行く手に陸海兄弟の巨体が見えたので安心して、僕は追いかけるのをやめました。荘の面色めんしょくが微妙に変化した気がしたからです。彼は何かに打ち拉がれたように、タオルを握った手をプランと下げて、充血した目をしばたたきました。凪の声がかわいそうなことになっているのを徹じいから聞いて知ってはいたものの、実際目の当たりにし、耳にして、痛ましく思ったのかもしれません。これを機に、彼が食糧だけでなく風邪薬なども手に入りやすくなるよう、しかるべきところへ働きかけてくれるといいのですが。

 宵待蟹たちがカサコソと葉叢はむらを揺らして、――蟹ですから、ではなくが正しいかと存じます――で視界をよぎりました。荘はまた鼻梁にタオルを押し当て、はなを啜っていましたが、きょうが湧いたのか、連中の進路を辿って歩き始めました。僕も何故か、吸い寄せられるように従う形になりました。蟹の列は、寝惚けているにしては意外な速さで灯台の方へ向かっていきます。そこには堡塁が遺構として残っていて、遙か昔に打ち捨てられた灯台共々、砲台などが、うそ寒い佇まいを呈しているのです。

 僕と荘は宵待蟹の行進を追って、半ば崩れた煉瓦の堡塁に足を踏み入れました。廃墟は蔦に取り巻かれ、冷淡かつ執拗な愛撫に息も絶え絶えといった風情でした。蟹は下草を薙ぎ倒すかのようにはさみを揺らし、ザワザワと音を立てて猛進します。僕らは緑の天蓋キャノピーに取り巻かれた煉瓦造りの井戸を前に、歩みを止めました。蟹の列は赤錆びた鎖のていを成して、丸井戸の縁に登っていきます。僕らは煉瓦に手を突いて中を覗きました。蟹どもは垂直に、内壁を降下しましたが、じきに影に呑まれてしまいました。ややあってピチャッとウォータークラウンが跳ね上がった——そんな音が聞こえたので、井戸は完全に涸れている訳ではなさそうです。

「……」

 荘は気が済んだのか、微かな吐息を漏らすや否やきびすを返しましたが、僕はぼんやりと井戸の底に視線を落としていました。宵待蟹たちがレミングのイメージと重なって見えたのです。いえ、あの集団自殺説が事実でないことは知っていますが。

 それにしても、心に黒々と立ち込める、この暗雲はどこから来たのでしょう。宵待蟹の出没するタイミングがズレ始めたのが、凶事の前触れのように思えるせいなのか。ですが、こうした不吉な予感は、荘が施設ここに到着した瞬間にきざしたものではなかったでしょうか……。


                                  詠より

                                   敬具

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