第4話 未完成の彼女

入学式を睡魔に襲われながらも耐え抜き、放課後が訪れた。席を立ち、すでに出来上がりつつある友人同士グループを組んで、教室を後にする。瑞樹は早速、美術室に行ってみようと荷物をまとめ始めた。

「斉藤さん、もう帰るの?」

「ううん。美術室に行ってみようかと思ってる。譲羽さんは?」

「私は、ちょっと泳いでから帰る。」

「あ、そっか。水泳部だもんね。」

うん、と笑うしずくを見て瑞樹は思わず見惚れた。先ほどの自己紹介のときは少し、面白かったことを思い出す。しずくが席を立った瞬間にもう、クラスメイトは惹き込まれていた。

『譲羽しずくです。趣味、特技共に泳ぐこと。よろしくお願いします。』

誰もがはっとするような美人だからなー。皆、眩しいものをみるように見つめていた。クラスの男の子たちが「このクラス、可愛い子多いなー」と喋っているのを聞いた。

しずくにどうしたの、と聞かれて瑞樹は我に返った。

「今日、4月なのに暑いね。美術部の見学終わって良かったら、プールに来ない?」

「私、水着ないよ。」

「足付けるだけでも涼しいよ。今日は、正式な練習日じゃないから誰もいないし。」

「ふーん…。行こっかな?」

「うん、来て来て!」

しずくは両手を叩いて喜んでくれる。それだけで、何故か嬉しい。

「じゃあ、後で行くね。」

「また後でね。」

手を胸の位置で振って、廊下で二人は別れた。


美術室は油絵具の匂いが僅かにして、少し埃っぽかった。でも歴年の先輩たちの作品が飾られており、見応えがあった。瑞樹は一枚一枚、キャンバスを捲るように見ていく。そして一枚の絵画に手が止まった。

それは人物画で、青を基調とした背景に浮かび上がるように髪の毛の長い女性が描かれていた。柔らかいタッチで笑みを称える「彼女」は作者との親密さを感じさせた。

「その絵が気に入ったかい?」

「!」

低く掠れた優しい声に背後を振り向くと、初老の男性が立っていた。

「初めましてかな。僕は、この高校の美術教師の林田です。よろしくね。」

「新入生…、今年一年の斉藤瑞樹です。あの、この絵画は誰がお描きになったのですか?」

「うん。これはね、」

林田教諭は静かに語って聞かせてくれた。

この絵の作者は病弱な生徒で、でも人一倍絵を描くことに熱心だったという。この絵はコンクールに出展する予定だったが、完成を前に美術部を退部してしまったらしい。

「未完成なんですか?」

「うん。そうだよ。僕はその時、彼女の相談に乗ることができなくて…後悔したよ。」

「彼女…、女の先輩なんですか。」

「そう。とても感受性の豊かで、聡明な生徒だった。きっとその気質が逆に退部に追い込んでしまったのかもしれない。モデルは、とても仲のいい彼女の友人でね。ご友人は転校してしまったんだ。」

「そうなんですね…。」

完成を待つことなく見限られた絵画。モデルの女生徒の笑みが今、とてもさみしく感じられた。

瑞樹はキャンバスを丁寧にしまって、林田教諭にお礼を言って美術室を出た。


ぺたぺたと足音を響かせながら、廊下を歩く。教室の中にもう生徒の姿はなくて、校舎はひっそりと静まり返っていた。グランドにも人はいない。恐らく明日から、部活に没頭する生徒たちで溢れかえるのだろう。入学氏の入場で披露された吹奏楽部の練習の音も聞こえてくるに違いない。

開け放たれた窓から、ちらりと桜の花弁が舞い込んだ。その桜に導かれるように、そっと窓際に近付く。眼下に丁度、大きな50mプールの青が広がった。一人の少女が今まさに、プールに飛び込む瞬間だった。

鋭く切り込むようにスプラッシュ少なく、鳥の鵜を連想させて水の中に消えた。数拍遅れて水面に浮かんできた少女は、まるでトビウオのように飛んで、バタフライで泳いだ。

少女はしずくだった。

こうしてしなやかで、少し筋肉質な身体に作り込まれたのかと思うと、心臓がドキドキと脈打った。

しばらくぼうっと呆けるように、瑞樹は眼下で繰り広げられる光景を見つめていた。泳いで、泳いで、しずくは止まらない。まるでどこまでも行けるのかと思うぐらいに。


校舎を出て、プールに向かう。しずくが満足いくまで泳ぎ切った後だと良いが。彼女の邪魔にはなりたくなかった。瑞樹は砂利道を踏みしめて、そっとフェンスからプールを覗く。そこには、ゴーグルとキャップを外して、長い髪の毛の水分を拭っているしずくがいた。傍と目が合う。

「斉藤さん、来てくれたんだ。」

大人っぽい彼女が無邪気に笑った。

「うん。校舎の上から見てた。泳ぐの、早いんだね。」

「私なんて、まだまだ。」

こっちだよ、としずくに誘われて瑞樹はプールサイドに、靴と靴下を脱いで足を踏み入れた。プールサイドのコンクリートの床は太陽に照らされて熱くて、思わず跳ねるように早足になってしまう。その様子をしずくは「踊ってるみたい」と楽しそうに笑った。

「私のバスタオル、貸してあげる。下に敷けば、まだ濡れないよ。」

「ありがと。」

言われた通り、バスタオルを敷いてプールの際に腰掛けて足を水につける。水は冷たく、暑い気温の中、素肌に触れて心地がいい。思わず、笑顔になる。足を僅かにばたつかせると、波が輪のように広がって水面を撫でた。

「気持ちいいねー。」

「でしょ。」

しずくも瑞樹の隣に腰掛けて、水を足で蹴った。

「あ、ごめん。濡れた?」

「平気。」

水飛沫が上がり、制服のスカートに僅かにかかるが悪い気はしなかった。どうせすぐ乾く。

お喋りは楽しく、時間は和やかに過ぎていった。やがて太陽は真上に来て、一番熱い時間帯を迎えた。じりじりと肌を焼く感覚に目を細めると、それに気づいたしずくが会話を止めた。

「暑くなってきたね。そろそろ帰ろうか。」

「あ、うん。…ごめん、私、すぐに肌が紅くなるから。譲羽さんは日焼けしてないね?」

「強力な日焼け止め、使ってるから。今度、メーカーを教えてあげる。」

それはとても興味深い。楽しみだ。

「私、着替えるから先に帰っていいよ。寮は学校のすぐ近くだから、通学路も何もないし。」

「そっか。じゃあ…、帰るね。また明日。」

「うん。また、明日。」


空からは太陽の白い光が零れて、幾重にもカーテンのように広がっている。海の水平線は淡くぼやけて霞む。学校の高台から眺める街は青く、遠くまで見渡せた。

帰り道にこんな風景をこれから毎日見れるのかと思うと、それはとても良いことのように思えた。いくら寮が近いとはいえ、しずくもまたこの景色が見られることを切に願う。

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