第2話 水の香り

制服の真白いブラウスが、丸く桃色の肩を滑る。

鴉の濡れ羽色のように黒々とした髪の毛が束の間、服の代わりになる。冷たく滑らかな髪の毛の感触を背に覚えながら、キャミソールと下着を脱いだ。薄暗い更衣室で晒された素肌は大理石みたいに内側から白く発光しているかのようだった。

衣擦れの音が響き、床に全ての衣服が落ちた。何も身に着けていないが故の心許なさを覚えながら、水着を着用する。少しだけ、胸元がキツい。制服を拾って綺麗に折りたたみ、ロッカーにしまった。性格の几帳面さがうかがえる。

長い黒髪をヘアゴムで一つに纏め上げ、キャップを被った。ゴーグルは首にかけ、タオルを手にしてプールへ向かう。ひたひたと裸足の足音が、プールサイドのタイルに響いた。

水泳部強豪校の私立白羽高校は4月の今でも、水質、水温共によく管理されていた。透明に澄み渡り、少し塩素の香りがする水はとてもなじみ深い。


春休みの昼下がり、譲羽しずくは白羽高校のプールにいた。しずくは水泳が好きでスポーツ推薦を経てこの学校に入学した。親元を離れ、寮に入寮し、荷物を全て整理し終えたのでフライング気味に学校のプールに訪れたのだった。春休み期間中の事もあり、人数は疎ら。それでも監督を務める教員が職員室に居たので、交渉してプールの使用許可を得た。


1000mを泳ぎ、身体をゆっくりクールダウンさせていく。人がいないことを確認し、キャップを脱ぎ髪の毛を解放させた。僅かに波立つ水面に浮き、空を仰ぐ。太陽が白く光り、地球の半分を煌々と照らす。蒼穹に僅かな羊雲がぶかりと浮かんでいた。

ちゃぷ、と耳の中を水がくすぐる。背筋がぞくりとするこの瞬間は好きだ。

「―…。」

右手を天に伸ばす。水滴が腕を伝い、肌を流れていく。指の隙間から太陽光が零れて、水に反射した。それはダイヤモンドのように指の付け根を飾った。

一つの雲が太陽に陰る。一瞬の薄暗さに目を瞑り、次の瞬間には解放されて瞼の裏に紅い血潮が見えた。ドクドクと脈打ち、身体に鼓動が響き渡る。まるで母親の胎内、羊水に浮かんでいるようだと思う。柔らかく自身を包み、生を感じさせる。

しばらくぼうっとしていたかったが、プールサイドのフェンス越しに人の声を聴いてしずくはプールから身体を持ち上げたのだった。



「瑞樹ー!遅刻するよ、急いで急いで!」

朝の斉藤家は騒がしい。父親と長女がそれぞれ通勤や通学に家を出る頃、のそのそと次女の瑞樹が起きてくる。低血圧な上に二度寝が大好物とくれば、ちょっとやそっとの刺激では目が覚めない。今日もまた、時間ぎりぎりまで瑞樹は惰眠を貪って二階の自室から出てきた。

「おはようー…。皆、早いねえ。」

「あんたが遅いのよ。ほら早く、朝ごはん食べちゃって!」

母親は瑞樹を急かして、朝食の席に着かせる。和食のごはんをしっかり食べて、瑞樹はやっと意識を完全に覚醒させた。急いで洗面所に飛び込んで、身支度を整える。そして一回自室に戻り、前の日から用意してあった制服に袖を通した。

今日は私立白羽高校の入学式だ。採寸以来、初めて制服を着る。瑞樹は姿見の鏡を見つめて、変なところがないかを確認してから部屋を飛び出した。

「行ってきまーす。」

玄関でスニーカーの靴ひもを結んでいると、母親が後ろから嬉しそうに声を掛けた。

「入学、おめでとう。今日はお夕飯、サービスしちゃうからね。」

「ありがと。楽しみにしてる。」

瑞樹は立ち上がる。振り返ると、母親は目を細めていた。そして「制服、よく似合ってるわ」と言い、瑞樹を元気よく送り出すのだった。


学校は街の高台に位置していた。道は海岸沿いをずっと行く。瑞樹は鼻歌を歌いながら、地面を踏みしめていた。真新しい制服、馴染みのスニーカー。天気は良く、街路樹の桜から花弁が吹雪いた。僅かな風が頬を撫で、磯の香りが鼻腔をくすぐる。キラキラと乱反射を重ねる海の水平線には何隻もの船が見えた。手の平で日除けを作りながら、空を仰ぐ。飛行機雲が一直線に続いている。数泊置いて、鼓膜を刺激する重低音の飛行機が飛ぶ音が響いた。


学校に近付くにつれて、瑞樹と同じ制服を着た生徒たちが増えてきた。制服は男女ともブレザーで統一されている。眠そうに欠伸を噛み殺す男子生徒や、友人同士の女子生徒が華やかな笑い声が周囲を包む。やがて見えてきた校門には教員らしき大人が立ち、生徒たちににこやかに挨拶をしていた。瑞樹もまた、挨拶を返して校門をくぐった。昇降口前には掲示板があり、生徒たちがクラス分けの発表を今か今かと待っている。やがて訪れた教員の登場に、一瞬だけ場が静かになった。そしてクラス分けが記された紙が張り出された。生徒たちは我先にと前に押し寄せて、掲示物を食い入るように見つめ友人と一緒のクラスになった歓声だったり、離れてしまった悲鳴を上げていた。瑞樹は人が少し減ってからと思い、桜の木の元で待機していた。何気なく人間観察をして時間を潰す。

眼鏡を掛けた気難しそうな男子生徒の笑顔や、切りすぎたのであろう前髪を気にする女子生徒。スカートを短くし、精一杯おしゃれをする子。そんな女の子たちを眩しそうに見つめる男の子。

今日、これから学び舎を共にする仲間たちは皆、輝くような力がみなぎっていた。とても魅力的で、若く蒼い双葉の様だった。

「…ん?」

ふわっと、水の香りが瑞樹の鼻腔をくすぐった。ふとその源の人物を見て、視線を奪われた。

長い黒髪が風に舞って、前を見すえる凛とした瞳が印象的な少女だった。どこか中性的な容姿は見るものを魅了する。

睫毛、長いなあ。肌も白くて、大人っぽい。

ぽかんと見つめていると、その視線に気づいたのか少女と目があった。

「…クラス分け、見に行かないの?」


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