第4話 幻の無罪判決

 それからひと月後、山田純の殺人放火被告事件についての公判前整理手続が行われた。浅井は当然のごとく、山田純の無罪を主張すると同時に、これが被害者と目されている坂口慶子による自殺であることを主張した。


「山田純に殺人の濡れ衣を着せるために坂口慶子が企図した自殺、およびこれに伴う放火と考えております…」


 浅井はそれを立証すべく、検察側に対して手持ちの鑑定資料、とくに坂口慶子の遺体の検証の全データを開示するよう求めた。それに対して検察側は渋い表情となった。どうやら開示したくない理由があるようだ。


 それでも裁判員裁判で裁かれる以上、弁護側が求める情報はすべて出させるべきと、そんな考えの持ち主が裁判官として担当になったことが幸いした。


 結果、坂口慶子の遺体検証のデータがすべて弁護側に、浅井に開示されることとなり、浅井はデータが開示されるや、それを医大の法医学教室に持ち込み、そこの教授に再鑑定してもらうことにした。


 その後、さいたま地方裁判所で開かれた裁判員裁判で浅井は見事、「無罪」を勝ち取ることができた。


 無罪のポイントはやはり証拠不十分、さらに言うなら浅井が主張した通りこれが被害者と目される坂口慶子が企図した自殺である可能性が拭えなかったことによる。


 具体的にはまず、坂口慶子の遺体、とりわけ致命傷となった心臓部位の切創、その周囲に複数の切傷があったことが挙げられる。これはいわゆる、ためらい傷ではないかと、浅井は主張したのであった。心臓を一突き、それは自殺にしてはかなり気合いのいる方法であり、そうであればこそ、何度もためらい傷を残したのではないかと浅井は主張したのであった。


 だが仮にそうだとすると、床下収納に隠されていた凶器の果物ナイフの説明がつかないことになる。既に死体となった坂口慶子が床下収納にしまえるはずもないからだ。いや、それ以前に火を放つことも不可能であろう。


 それに対して浅井は坂口慶子は最後は果物ナイフを心臓に突き立てて自殺に成功したものの、決して即死したものではなく、数分間は生きていたのではないか、具体的には坂口慶子は最初に部屋に火を放ち、それから果物ナイフを胸に突き立て、しかし中々、心臓を貫くことはできずに何度も心臓の周囲を傷つけ、そして最後には心臓を貫いた…、だが坂口慶子は即死することはなく、最期の力を振り絞り、心臓から果物ナイフを抜くとその果物ナイフを床下収納に放り込んだのではないか…、浅井はそう主張したのであった。


 傍証もあった。それというのも床下収納からは坂口慶子の汗、及び煤が発見されたからだ。これは最初に床下収納を開け、それから果物ナイフを放り込んだために床下収納に煤が、そして最期の力を振り絞って果物ナイフを床下収納に投げ込む際に、坂口慶子の顔から、あるいは額から汗が床下収納へと滴り落ちたからではないか…、浅井はそうも主張したのであった。


 凶器の果物ナイフの柄に付着していた山田純の指掌紋についてもまた然り。その証拠能力に疑義が生じたと浅井は主張したのであった。


 すなわち、浅井は凶器の果物ナイフの再鑑定を要求、裁判所もそれを認め、改めて民間の鑑定機関に再鑑定をしてもらったところ、山田の指掌紋とは別に手袋痕が採取されたのであった。


 浅井はこの手袋痕を坂口慶子のものだと主張、無論、山田を殺人犯に仕立てるための偽装工作であると主張した。凶器の果物ナイフだが、山田は一度だけ触れたことがあるそうで、それも事件の前日、リンゴを剝いて欲しいと坂口慶子から凶器となった果物ナイフで剝くよう頼まれたそうで、山田はそれを受け入れ、その果物ナイフでリンゴを剝いてやったそうだが、それも実は果物ナイフの柄に山田の指掌紋を付着させるための坂口慶子の偽装だった、そしてその後で坂口慶子は火の海の中でその果物ナイフでもって自分の心臓を刺し貫き、今わの際に手袋を脱ぎ捨てて火に投げ入れ、果物ナイフは床下収納に投げ入れたのではないかと、浅井はそう主張したのであった。


 それに対して検察側は勿論、浅井の主張は何らの根拠もない妄言だと決め付けた。が、弁護側は検察ではないので、被告人が有罪とするには合理的な疑いがあると、それを主張するだけで良いのだ。


 結果、浅井の弁論が功を奏して裁判員は被告人・山田純に対して無罪の判決を言い渡したのであった。


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