第2話 面会
埼玉県警察本部第一留置施設‐そこが殺人と放火の疑いで逮捕された山田純が勾留されている場所であった。本来ならば特別捜査本部が置かれている朝霞警察署の留置施設に勾留されるべきところ、事件の規模から言って、何より被疑者である山田純が被疑事実を否認している現状、さいたま地方検察庁とも連絡を密にする必要があることから、さいたま地検とも程近いここ埼玉県警察本部第一留置施設に勾留された次第である。
山田純は殺人と放火の容疑で逮捕されてから間もなく24時間になろうとしている今もって容疑を否認していた。あと24時間以内に山田純の身柄を事件を管轄するさいたま地検に送検しなければ山田純を釈放しなければならない。無論、警察では釈放など論外で、否認のままでもいったんさいたま地検に山田純の身柄を送検し、それから24時間後に取調べの再開を見込んでおり、そのためにもさいたま地検とは連絡を密にする必要があった。送検後の24時間は検察の持ち時間であり、24時間以内に裁判所に勾留請求をするか否かの判断が検察に委ねられているからだ。警察としては勿論、検察には是が非でも勾留請求をしてもらわなければならない。
そこへ浅井俊宏と名乗る弁護士が山田純の接見のために姿を見せた。既に警察としては山田純が割れないものと見ており、接見を即座に認めた。いや、認めなければ接見交通権の妨害で訴えられるだろう。接見を認めないという判断は元より警察には与えられていなかった。
こうして浅井俊宏は山田純と「初対面」を果たすことができた。
「山田純さんですね?私、弁護士の浅井俊宏と申します…」
浅井はアクリル板越しに、それも受話器越しに自己紹介した。ドラマで良くお目にかかる通声穴は前世紀の遺物である。
「弁護士さん?」
対する山田も受話器を手にしており、山田の声が受話器を通して浅井の耳に届いた。
「ええ。お母上の美和さんから依頼を受けまして…」
「そうっすか…」
「それで事実の確認なのですが…」
浅井は受話器を耳元と肩で挟みながら、持参した手帳のお目当てのページを繰ると、そのページにしおり代わりに挟んであったペンを抜き、左手で手帳を開きつつ、ペンを右手に持った。
「俺やってねぇんだよっ!」
山田純の怒鳴り声が受話器を通して聞こえた。いや、それは悲鳴であった。
「やってない…、それは坂口慶子さんを殺してはいないと?」
「そうに決まってんだろっ。いや、放火もだ…」
「ですが警察ではあなたを疑っている…、そうして逮捕されたわけですが…」
「確かに慶子とは…、別れ話が持ち上がっていたのは事実だよ。それで喧嘩にもなったさ…」
「原因は?」
「原因?」
「坂口さんから別れ話を切り出されたとのことですが、その原因は?」
そう尋ねる浅井に対して山田は鼻を鳴らした。
「そんなん決まってんだろ?俺が無職だからだよ」
「無職がどうして別れの原因に?」
「俺は働かねぇ、で、慶子に生活費諸々、工面してもらってた…」
「坂口さんのヒモだったと?」
はっきり言うな…、山田の自嘲めいた声が聞こえた。
「そう、ヒモだ。で、あいつは…、慶子はいい加減、俺に寄生される生活が嫌になったみたいで、それで…」
「坂口さんから別れ話を切り出されたと…」
「そういうこった…」
「事件当日のことをうかがいますが…、事件が…、アパートの火災が消防に認知されたのが先月の11月9日の午前零時頃…、正確には午前零時34分ですが、その時刻、あなたはどこで何をしていましたか?」
「刑事にも聞かれたけど、散歩してたよ…」
「散歩…、深夜にですか?」
「散歩するには随分と遅い時刻だな…、刑事にも言われたけど実際、そうなんだから仕方ねぇ…」
「なぜそんな遅い時刻にお散歩を?」
「ムシャクシャしてたんで、それで憂さ晴らしで…」
「何にムシャクシャされていたのですか?」
「決まってんだろ。別れ話だよ…」
「つまり、あなたはお散歩する前、坂口さんとアパートで別れ話をされていたと?」
「そうだ」
「で、お話し合いの結果は?」
「決裂だよ。俺は絶対、別れねぇ…、そう言ってアパートを飛び出したんだよ」
「それでは火事はその後だと?」
「それに慶子が死んだのも…」
「今のあなたのお話を証明して下さる人はいますか?」
「アリバイ証人、ってやつか?」
「ええ」
「いねぇよ…、そんな野郎がいてくれたら、俺はこんなところにいねぇって…」
「そうですか…」
「先生、俺、どうなるんだ?」
「間もなく逮捕から24時間、あと24時間もすればあなたは間違いなく地検に…、さいたま地方検察庁に身柄が送検されるでしょう」
「それで?その後は?」
「送検後の24時間は検察の持ち時間ですから、今度は検事の取調べを受けることになります。取調べは刑事のそれと大差ありません。いや、もしかしたら世間知らずの検事の取調べの方がひどいかも知れませんが、ともかく殺しにしろ放火にしろ、被疑事実を認めるような調書には絶対にサインしないように…」
「わあってるよ。サインしちまえば、それが裁判の時に証拠になっちまう、ってんだろ?」
「良くご存知で…」
「それで?24時間後には?」
「裁判所に対して勾留請求をするかどうかを検事が判断します」
「勾留請求しないってなったら釈放か?」
「理論上は…」
「理論上はってことは…」
「ええ。あなたの場合、否認のままでも間違いなく検察は裁判所に対して勾留請求をするでしょう。何しろあなたに対する逮捕状の発布は検事も承知済みのことでしょうから…」
「ってことは俺はどのみち釈放されねぇってことか?」
「少なくとも無罪の判決を得ない限りは…」
「頼むよ、先生…、俺にはあんただけが頼りなんだから…」
山田は左手で拝むしぐさをしてみせた。浅井はそんな山田の姿を目の当たりにして苦笑を禁じ得なかった。
ともあれ浅井は山田に対してさらに今後の見通しとそれにいくつかの留意点を説明した上で留置施設をあとにした。
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