第2話 しょっぱい玉子焼き

 浅いまどろみから眼が覚める。今日はちゃんと眠れたのだろうか。身体は重く、動きそうになかったので、首だけ回し時計に目をやる。

 少し眠れていたようで、私はほっとした。枕元にあったスマホを手に取り、電源が切れていることに気付く。充電器は確かパソコンの側だったなとそちらに目をやると、荒れた部屋が目に入った。服は脱ぎっぱなしで、コンビニの袋が散乱している。だからといって、別に何とも思わない。これが今の私。


 睡眠薬の副作用らしく、口の中がずっと苦い。そこに意識を向けると、喉がガサガサでちょっと痛い。あー、と発声練習のように小さな声を出してみる。漏れたのは何かに引っかかるようなギザギザの吐息。

 とりあえず身体を起こす。ふらふらと目がまわり、気持ち悪い。ゆっくりと、吐き気をこらえながら冷蔵庫にたどり着く。わずか数歩の道のりが、まるで雲水の行脚のよう。

 いや、あの人たちは自らの意思で修行をしているのだ。望んでもいない苦行を強いられている私とは根本的に違う。


 ゴクリと冷えた水を飲むと、そんな考えは霧消した。細胞が活性し始める。最近は何を口にしても美味しいと思えなくなってしまったが、この瞬間だけは生きている実感がわく。

 夢を追って出てきたはずだった。でもきっと私は現実に追われて逃げてきただけなのだ。たった3年、だけどそれは自分の限界を知るには十分すぎる時間だった。

 帰ろう。実家に帰れば、生きていくことはできる。昔から見てきたそこの人たちと同じように、きっと私も死んだように生きるのだ。


 家を出た。少し考えたが、別に持っていくものは何もなかった。私の全ては、この小さなハンドバッグに収まってしまう。

 とぼとぼと駅に向かう。ぺちゃくちゃとおしゃべりするおばさんや、歩きスマホのおじさん。結局ここの人たちも、あそこと変わらなかった。私もそうだ。

 ふと、私は振り返った。小さな食堂が目に入る。匂いにつられたのだろうか。自分が振り返った理由をあたりに探し、そう結論づけた。軒先の赤いビニールは色あせてまだら模様になっており、ディスプレイされた食品サンプルは薄暗くてよく見えない。

 汚れたガラス戸から中を伺うと、客はいないが店は開いているようだった。頭の薄い店主らしき人物がカウンターの向こうでテレビを見ている。

 最後にご飯を食べたのはいつだろう。少なくとも、寝る前はなにも口にしなかったはずた。ふいに空腹感に襲われた。その勢いに任せ、ガラガラと戸を引く。

「はい、いらっしゃい」

くたびれた顔からは想像できないような、威勢のいい声が響いた。

「玉子焼き、ありますか?」

 変な女だと思われただろうか。

「こっちの定食にはどれも付いてるよ、玉子焼き」

 メニューを曖昧に指さし、空中で円を描く店主。

「じゃあ、これにします。玉子焼きだけください。料金は定食分支払います」

 どうせその玉子焼きだって、半分も食べ切れない。そんな説明をするのも億劫だ。

「……はいよ」

 テレビのガヤガヤした音に、卵をとく音、フライパンが熱をもつ音が加わる。

 甘い匂いが漂い、早くも胃はもたれ始める。店に入ったことを少し後悔した。べたつくカウンターに肘をつき、出された水を一口飲む。からんと氷が鳴った。

 ことりと目の前にそれは現れた。長方形の青い皿に、黄色いそれはどすんと乗っかっていた。横にはちょこんと大根おろしが添えられている。

 割り箸に力を込める。思ったよりも固いのか、それとも私の力が弱いからか、その箸はなかなか離れてくれなかった。

 再び浅黒い腕が視界をかすめる。

「食べられるだけでも」

 小さな子どもが食べるような小さな茶碗に、少しだけご飯が盛ってあった。優しいんですね、でも声には出さない。

 ぷっくりとした卵焼きに箸を下ろす。ぷつっと弾けるように断面が露わになる。それをもう半分に小さくし、箸でつまむ。

 おそるおそるといったように、私はその玉子焼きを口に運んだ。その温度が唇に伝わったとき、甘い匂いが鼻をかすめる。

 少ししょっぱい。でもそれはじんわりと味覚を思い出すように、身体にしみこんでいく。

 昔食べた玉子焼き。甘い玉子焼きだと思っていた私の心に、小さな風が吹いた。子どもの頃好きだけど嫌いだった、母の玉子焼き。

 私はその玉子焼きを夢中で口にしていた。ご飯もすぐになくなった。おかわり自由だから、そう言って店主はご飯をよそってくれた。今度は普通盛り。

 上京しようと決意したときのことを思い出した。とにかく両親からは反対された。それに反発するように私は決意を固めた。家を出て行く頃には、母は反対を口にしなくなった。そして、少ししょっぱい玉子焼きを作ってくれた。それを食べたとき、私は家族に気づかれぬよう、涙を流した。今は隠しようもなく、とめどなく涙が溢れている。

「うまいだろ? 未来の君もそういってた」

 きょとんとする私に、豪快な笑顔を向けてくれる。なぜだか照れた私は目をそらした。レジの向こうの壁には、私の名が書かれたサインがかかっていた。

 

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