ゲームがようやく完成したのでゲーム会社に持ち込んでみた
俺がまずはシナリオのテキストデータなどの基本となる部分のプログラミングを行いつつ、最上さんは会長さんにアドバイスを受けながら絵を完成させていき、朝倉さんは斉藤さんにアドバイスを受けつつBGMやSEを作り上げ、出来上がったそれらを俺は場面場面に応じて組み込んでいく。ゲームとして一式形が出来上がったらみんなでテストプレイをしてデバッグやゲームの面白さを確認し、細かい所をちょこちょこ修正してなんとか4月末までにはゲームが完成した。
「ようやくできたかぁ、だいぶ大変だったな」
俺がそう言うと斉藤さんが言う。
「でも面白かったわね。
そしてこうして形になると感慨深いものがあるわ」
一回にかかるプレイ時間は一時間半程度なのに意外と手間がかかるものだと実感したが完成にこぎつけられてよかったぜ。
「さ、ゲームが完成したなら早速売り込みに行きましょう」
そう言うのは会長さん。
「あ、うん、そうだな。
で、どこに行くつもりなんです?」
「フェニックスは新宿区の西新宿に本社がありますし、横浜市の港北区にある日吉にはヘックスがあるようですから、このどちらかがよろしいかと」
「あ、うん、会長はよく調べてるね」
「ゲームを作ってもそれをお金に変えられなくては、新たに部活動を設立して人や機材に投資をした意味がございませんわ」
「ウン、ソウデスネ」
会長はよっぽどお金が好きなんだなと思うが事実としてお金があればできることは多いし、ゲームを作ってもお金に変えられなくてはたしかに意味がないだろう。
そういうことをはっきりわかってるというのは会長の強みでもあると思う。
ホムコンのサードパーテイとしてはニャムコが圧倒的に強くて『ギャラクティカン』や『パクパクマン』、『ゼピウス』、『マッポー』、『ディグ&ダグ』、『ドルーガの塔』といったアーケードの人気ゲームがホムコンでできるというのはかなりの強みで、アーケードの移植アクションゲームでこれに追随できるサードパーティはスペースエイリアンのタイト、1942年のカブコなどくらいであまりなかった。
そして現状でアドベンチャーゲームのパソコンゲームとホムコンゲームの両方を取り扱ってくれそうな場所としては、フェニックスかヘックスというのも妥当だと思う。
フェニックスは「ゲームパブリッシャー」でゲーム開発自体そのものは行わないが、へックスは「ゲームディベロッパー」でもあってゲームの開発もしてるのは違うけど。
「じゃあ総武横須賀快速線で行けば近そうだし、まずはヘックスに行ってみようとおもいます。
その後でフェニックスに行きたいですね」
「では私がアポを取っておきますわね。
当然私も同行しますが、日時が決まったらお知らせしますわ」
会長がそう言うと斉藤さんも言う。
「なら私も行くわ。
実際のゲーム会社がどんな雰囲気なのか知りたいし」
「ああ、将来ゲーム会社で働くなら、確かに予め知っておきたいよね」
「じゃあ私も行く!」
「私も行くです」
最上さんと朝倉さんも行きたいということなのでゲーム制作部の全員で行くことになった。
そして翌日。
「アポが取れましたわ、今日の放課後に行きましょう」
「ありがとう会長、助かりますよ」
「社会の仕組みを知っていればこのくらいできて当然ですわ」
まあ、予め時間をとってもらうためにアポを取るのはたしかに普通だよな。
ヘックスは昭和58年(1983年)に徳島県の電気工事会社社のソフト開発部門として設立された。人材を確保をするために、40台もの最新パソコンを自由に使える会員制サロンがあって、そこにはすぐ目の前にある慶應義塾大学日吉キャンパスや、横浜国立大学、神奈川大学など横浜周辺にキャンパスを置く大学の学生たちが出入りしていて、サロンの会員から選ばれたメンバーと公募で集められた10名のスタッフによるゲームソフト開発が開始されていて、パソコン用のアドベンチャーゲームやロールプレイングゲームを開発している。
昭和60年(1985年)には陣天堂とライセンス契約を結びホムコン用ソフトを提供する。最初はゲームノーツから発売されたパソコンゲームのオイテグザーからなのだが、なかなかヒット作を出せずにいたためホムコン市場からの撤退も考えていた中で、昭和62年(1987年)に発売された
横浜から電車を乗り継いで日吉駅で降りてヘックスの入ってるビルへ、俺たちは会長を先頭にして向かった。
「失礼します、本日このお時間でのアポを取っています北条と申します」
「はい、確認いたしました。
応接室へご案内いたします」
「ありがとうございます」
というわけで応接室へ案内されたあとで対応してくれたのは死の罠IIのゲームディレクターの坂元博信氏で、後のFFFの開発者だね。
「今日はゲームソフトの持ち込みと聞いてるけどデータはあるかな?」
「はい、こちらです」
俺はデータのはいった5インチの
「じゃあ少々失礼して中身を確認させてもらうね」
かれはふむふむとかうーんとか言いながらゲームを進めていってエンディングにたどりついたところで感想を言ってくれた。
「グラフィックとサウンド関係はすごくいいね。
でもストーリーがありきたりだし、ユーザーに最後の展開を任せるのはどうかなと思う」
「そうでしょうか?」
「うん、僕はゲームの中の物語は制作者がきっちり決めるべきだと思うからね。
その方がきっと感動できるだろうと思うよ」
「わかりました。ありがとうございます」
「君たちも大学生になったらここに来るといいよ。
交流もできるしね」
「重ね重ねありがとうございます」
というわけで評価に関してはグラフィックとサウンドはいいけど肝心のシナリオやマルチエンディングをダメ出しされて、ちとがっかりだった。
「これじゃ駄目なのかな……」
俺が弱気になってそう言うと朝倉さんがきっと俺を睨んで言った。
「まだ諦めるのは早いです。
次はフェニックスに行って同じように試してもらうのです」
「あ、ああ、そうだな」
素人が作ったゲームなんだからダメ出しをされても仕方ないとは思うが、まだフェニックスでの評価は聞いてないんだし、そっちに一縷の望みをかけてみよう。
というわけで再びアポを取ってもらい今度は西新宿のフェニックスに行くことにする。
昭和57年(1982年)に設立されて、パソコンソフト業界に参入し、大々的なプログラムコンテストを開いて、翌年の昭和58年(1983年)に一挙に13本のソフトを発売したことで知名度を上げ、昭和60年(1985年)にボートピア連続殺人事件でホムコン市場に参入。
翌年の昭和61年(1986年)に
対応してくれたのはボ-トピア連続殺人事件の堀井雄次氏で、ヘックスと同じようにゲームを試してくれた。
「うん、これを最初からホムコンへの移植も考えてるならこれはわかりやすくてとてもいいと思うよ。
グラフィックやサウンドもいいし、個人的には最後のエンディングが選べるのもいいと思う」
「本当ですか!」
「あくまでも個人的にはだけどね」
「でも嬉しいです!」
そこで会長がすっと言う。
「では、このゲームを委託販売させていただくとして、こちらの取り分はいかほどでしょう?」
「そのあたりは福島社長と相談かな、ホムコンは一割、パソコンは二割になると思うけどね」
「なるほど、一割ですか」
「まあ、ホムコンソフトは三割は陣天堂に払わないとダメで、五割は一次・二次問屋・小売店のマージンだからね」
「あら、それはかなり大きいですわね」
「とは言えホムコンのゲームソフトはパソコンソフトとは売れる本数の桁が違うからね。
最終的には30万から50万本はかたいと思うよ」
「一本5000円として50万本の一割とすると……2億5千万円ですわね」
「十分でしょう?」
「ええ、ゲーム制作部の部費としては十分ですわね」
会長たちのやり取りに俺たちはついていけてない。
「いや、高校の部活の部費としてその桁はどうなんだろう?」
「これからも開発のための機材を買うためには必要なことですわね」
「いや、いくらなんでもそんなに金かかんないでしょ?
まあ、部活が設立できたのは会長のおかげですからいいですけど」
私立の野球部の部費なんかは親の負担も年間で何十万だが学校だって何百万何千万とかかってるらしいけど、それでもまだ一桁ケタが違うんじゃなかろうか。
というわけでフェニックスから発売されるパソコンゲーム並びにホムコンゲームの売り上げの一割が千葉経済高等学校ゲーム制作部に売り上げとして振り込まれることになったのだ。
「とりあえず売れてくれることを願うしか無いよな」
今は取らぬ狸の皮算用とならないことを祈るしか無いが、子供には馴染みにくい殺人事件を扱う推理アドベンチャーのボートピアも60万本売れたならそれを上回ってもおかしくはないと思うんだけどな。
あと、会長のアドバイスで著作権および商標権をすぐに取得したよ。
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