深淵の真相-アビス-④

 心臓が狂ったように脈打ち、息をすることさえ躊躇うほどに手足が竦む。


 それでも……俺は己を奮い立たせ、足下の赤黒い液体を蹴散らして言い放った。


「――それで? 人族に裏切られたことを根に持って魔王の真似事でもしてたってのか?」


「……たしかに酷い裏切りだった。絶望に堕ちるくらいにはね。でも魔王の真似事はしていないよ。強いて言うなら僕は『なにもしなかった』んだ」


「――ッ!」


 イライラするってもんさ!


 殴り飛ばしてやりたくて踏み切った俺の前、赤黒い液体がどぷりとせり上がり壁を作る。


 俺は舌打ちをしてその赤黒い液体へと剣を突き込んだ。


 呆気なく爆ぜるその壁の向こうでクソ勇者は唇に笑みを浮かべたまま俺を眺めている。


 ――なにもしなかった? ふざけるなよクソが!


 肥溜めの中で足掻いて、足掻いて、足掻いてきたってのに――勇者が負けて俺たち隷属が生まれたと思っていた自分が滑稽すぎて笑えない。


「お前が負けていなかったってんなら俺たち『アガートラー』は……隷属はなんのために苦汁を舐めてきた? ……お前がここでふんぞり返っているあいだ虐げられてきたってのに――お前はなにもしなかっただって? ふざけるなって話さ!」


 自分の声が思いのほか乾いて低くなる。


 生きようとして逃げたんならまだいいさ――けどそうじゃない。


 こいつは、ここで傍観することを決めたんだ。


 俺たち隷属が虐げられるのをただ見ていることを選んだってわけさ。


 これが真相。深淵に沈んだ最悪の……!


「この×△※○が――ッ!」


 再び踏み切る俺に、クソ勇者はその冷めた蒼い色の双眸をカッと開く。


 視線が交わり、俺は振りかぶった腕を止めた――いや、勝手に止まったってのが正しいだろう。


「ッ、は……!」


 脳を痺れさせるような気持ちの悪い感覚がして……頬がビクリと痙攣する。


 指先の感覚が遠のき、意識が持っていかれそうになって……俺は唇を噛み締めた。


 感じる痛みが四肢を弛緩させ……『俺』の制御下にすべてが戻ってくる。


「ハッ…………誰がてめぇに魅惑なんざされるかよクソ勇者ッ!」


「へえ? まさか僕の魅惑に対抗できるなんて驚いた。……そうか、貴公……『アガートラー』だったのか。なるほど、革命軍とやらに助けられてここまで来たのかな」


 クソ勇者はぱちぱちと手を叩き、ゆっくりと立ち上がった。


 体にぴったりと纏うのは白銀の鎧。


 その背で黒いマントが揺らめいて踊る。


「明確な殺気だ。貴公の相手はしなくてはならないようだね。……ところで勇者の名前は知っているかい?」


「名前だ? ……ふん。興味ないってもんさ」


 俺が返すとクソ勇者は左半身を引き、玉座の後ろからギラギラと光る両手剣を取り出して体の前に持ってくる。


 その切っ先を俺にぴたりと合わせ、上段に構えたクソ勇者は静かに言った。


「そう言わずに覚えておくといい。きっと僕への殺気はもっと濃くなる」


「――あ? なに言ってやがる?」


「『アガート』だ」


「…………なに?」


「僕の過去の名前……勇者の名は『アガート』。その名前が――魔王と勇者の戦いを模して始まった血に飢えた獣たちの娯楽となったんだ。そこで勝ち抜いていたのなら……はは、『アガートラー』、貴公は勇者だな!」


 ヒュッ……


 そのまま突き出される剣の速さに俺は舌打ちをする。


 ――なにが勇者だ……ふざけるなって話さ!


 こっちは秘薬ってのを呑んでるんだ。その程度の攻撃でやられるわけがない。


 激しく燃え上がる怒りが俺の体を突き動かす。


「おぉっ!」


 ところが。


 気合とともに左の短剣を盾代わりにぶち当て、重心を下げて踏み込んだ俺を――クソ勇者の蒼い双眸はしっかりと追っていた。


 お前の動きはお見通しだと言わんばかりに笑みを浮かべた唇が見え、俺はまんまと罠に嵌まったことに気付く。



 ――ああ、クソ。しくじっちまった……。



 普段ならこんな見え透いた挑発には乗らないってのに……なにやってんだ俺は。


 盾代わりにした剣を撫でるようにくるりと弧を描いて返された刃が俺の首目掛けて突き出されてくる。


 ……俺は首が飛ぶのを覚悟した。


 時間がゆっくりと流れていくような錯覚に呑まれ……自分の無能さに反吐が出る。


 大口叩いてこれかよ――情けないにもほどがあるだろ。


 勇者なんてのがいなけりゃよかった。


 勇者なんてのがさっさと逃げてりゃ隷属は生まれなかった。


 囃し立てられて乗せられた大馬鹿者のせいだ。


 だから魔族のクソどもを○×△※してやりたい……全部なかったことにしてしまいたい――。


 そう思ってきたことが頭のなかを駆け抜けていく。


 ――けれどそのとき。耳に触れた声に俺は息を呑んだ。



「アガートラーッ!」



「……!」


 たぶん俺は目を見開いただろう。


 瞬間、体が軋むような衝撃に弾き飛ばされて俺は酷い臭いの液体の中に無様に転がる。


「がはっ……げほっ……」


「――貴公、しばらく会わないうちに動きが鈍ったようですね」


「……なんで……お前……」


 すぐに体勢を立て直した俺に降ってきたのは……くぐもっていてもなお凛とした声。


 兜の下、冷めた蒼色の瞳が見下ろしているのがわかる。


 そいつはクソ勇者の剣に絡ませるようにして自身の剣を突き出したらしい。


 クソ勇者は少し離れた位置に下がり、目の前の白銀の甲冑をしげしげと眺めていた。


「……おい……馬鹿言うなってんだ……」


 呟いた俺に、お伽噺にでも出てきそうな甲冑の騎士が笑う気配がこぼれる。


「『信じておけ』と伝言をもらいました。……だから来たのです。アガートラー」


「……いや、お前、なんで信じないで来やがった? 邪魔になるだけだろうさ!」


 吐き出した俺は時間の流れが戻っているのを感じ、かぶりを降って剣を構え直す。


 クソ勇者はこの茶番に付き合うつもりらしい。微動だにしない。


 すると騎士は――不満げな声で言い募った。


「貴公が私に言ったんですよ。『信じろなんて言うのは相手を欺すときだけだ』と。だから私は貴公のその言葉を信じただけです。――現に危なかったのでは?」


「そんなところだけ律義に覚えている奴がどこにいるんだって話さ! クソ、面倒臭いな! 退いてろアルヴィア! お前は邪魔だッ!」


 俺が吐き捨てると……アルヴィアはこんなときだってのにくすくすと笑って剣を構えた。


「元気そうで安心しました。――行きますよアガートラー!」


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