深淵の真相-アビス-③
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――過去の栄光を微塵も感じさせない廃れた建物がそこにあった。
勇者が四肢を分かたれ、
豊かな土地を手に入れるために攻めてきた魔族の始祖は、その実、人族への復讐を掲げて進軍していたのかもしれない。
――ま、俺の知ったことじゃないけどな。
陰鬱な空気には命の気配はなく、静まり返ったその場所に俺の足音と呼吸音だけが木霊する。
くすんで乾いた石のタイルを割って茶色い草が生えているが、倒れて横たわる木と同様――もう死んでいるように見えた。
それを踏み締めて巨大な庭園を横切り、建物を目指して進む。
じわじわと熱を持っていた体が急激に冷めていくような感覚に、俺は秘薬が切れたのだろうと思い当たった。
なるほど、
俺はいつでも呑めるよう秘薬の入った革袋をベルトに下げ、剣を握ったまま歩を進めた。
城の内部は入ってすぐが巨大な吹き抜けの広間だ。
その奥、左右から二階へと上る階段が伸びて一階を見下ろす踊場と繋がり、広間をぐるりと囲む足場には奥へと続く廊下への扉がいくつも構えている。
本来なら煌びやかな絨毯だったろうに……埃が積もりボロボロに朽ちた足下は酷い有様だ。
天井から垂れ下がる蜘蛛の巣にまで埃が絡み、壁は灰色に煙って見えるほど。
ハッ、まるで牢獄だな。
もっと魔族どもがいると思っていたがいやに静かで、俺はひとりふんと鼻を鳴らした。
「……王と言うからには玉座にでも座ってるってか?」
頭のなかに覚えた地図を描き出し、俺はゆっくりと右足を踏み出す。
――どこまでも静かな空間。
割れた窓から差し込む光に埃が踊っている。
俺は階段を上がり、廊下を抜け、目的の部屋――謁見の間というらしい――へとたどり着く。
「……」
赤茶けた金属の扉が重く閉ざすその向こう。
たしかに『なにか』がいることはわかる。
……だってのに、この静けさはなんだ?
本当に
――いや。油断するな。慎重になれ。ここでの失敗は許されないってもんさ!
俺は深呼吸を挟み、荷物を放ってベルトに下げた革袋から赤黒い薬を手に取る。
強烈な臭いを嗅ぐと胃がひっくり返りそうな吐き気が込み上げ、目の奥から液体が滲む。
俺はそれを飲み下してから、口の中に薬を放り込んだ。
「……ッ」
思わず嘔吐きながらも喉を上下させて腹の奥へと薬を押し込み、思いっ切り息を吸う。
熱くなる体を確かめて……俺は扉にゆっくりと手をかけ、引いた。
――ギッ、ギギィィ……
軋み悲鳴を上げながら、重たい扉が開いていく。
真っ直ぐ前を見据えたまま中に踏み入った俺に――そいつはつまらなそうな顔をした。
「…………貴公、何者だ? 革命軍とやらの指揮を執るのは憐れな僕の子孫のはず」
思っていたよりずっと柔らかく高めの声。
俺は自身の双眸を見開き――
――肘掛けに右肘を突き、頭を手の上にもたせかけた男。
艶めく銀色の髪は少し長めで、冷めた蒼色の目は大きく、女みたいな風貌をしている。
俺はそいつによく似た奴を――そいつと同じ呼び方をする甲冑の女騎士を――知っていた。
大きく違うとすれば頭の左右、銀の髪を割って生えた
知らず剣を握る腕が震え、湧き上がる黒い感情に己を忘れそうだった。
「ふざけるなって話さ――その髪、その瞳――お前は……」
「…………」
絞り出した俺の言葉に、そいつはなにひとつ応えない。
四肢を分かたれた――そうじゃなかったか?
それなのに……こんなところでなにしていやがる? その頭の角はなんだって話さ。
深淵を覗くなと魔族の女は言った――沈んだ真相を拾い上げてはならないとも言った。
これがその真相か? ハッ、馬鹿にしやがって……ッ!
俺はぎゅっと剣を握り直し、できうる限り冷静にその切っ先を持ち上げる。
「……堕ちたもんだな
ふつふつと沸き上がる怒りを押さえる必要もないって話さ!
吐き出した俺に、クソ勇者は初めて表情を変えた。
『
「――僕の子孫でもない男がここに来るとは思わなかったよ。汚い髭面を晒さないでくれるかな」
「ハッ。お望みなら髭くらい剃ってやるさ。答えろクソ勇者。
双眸を眇めるそのさまはどこかバリスを思い出させる。
俺は怒りにぶれる切っ先を力尽くで一点に集中させ、踏み出したいのを堪えた。
「はは。髭を剃るだって? 貴公、なかなか面白いことを言う。いいよ、この場でやってみせるなら多少話し相手になってあげようか」
俺は剣を収めず、油断なくクソ勇者を窺いながらバックポーチを漁って道具を取り出す。
「その言葉、忘れるなよ? たかが髭を気にするのはお前の子孫そっくりで笑っちまうってもんさ」
言ってやるとクソ勇者は薄い唇に笑みを浮かべた。
「――貴公は僕の子孫を知っているのか。なるほど、次に担ぎ上げられた勇者かな? その割には酷い言葉遣いだね」
「ふん。誰が担がれるかよ。俺は俺の意志でここに来た。お前みたいなクソを○×△※するためにな!」
俺はマイルから貰った半液体の保護剤を顔に塗り、刃を走らせる。
クソ勇者は笑みを浮かべたまま俺を眺め、殺気のひとつも発しないで終わるのを待った。
――本当にこいつらの一族は面倒臭いったらない。
とはいえ、たかが髭で話をするってんなら安いもんだ。
いますぐぶん殴ってやりたいが……こいつを狩る前に聞きたいことは山ほどある。
こいつがなぜここにいるのか。
ここで百年なにをしていたのか。
返答次第じゃ我慢しきれないだろうが、そんときはそんときだって話さ。
「――ほらよ。望みどおりにしてやったぞクソ勇者」
布切れで顔を拭った俺に、クソ勇者はようやく頭を上げて手を叩く。
「ははっ、驚いた。綺麗な顔じゃないか! ここで本当に髭を剃るその度胸に免じて教えてあげよう。――
「ハッ、なるほどな。儀式ってわけか」
それを行えるのは百年に一度だったはず。つまり、百年前の儀式でこいつは――。
俺が呟くとクソ勇者は目を細め、形のいい眉尻を下げて笑う。
「貴公が儀式を知っているなら話は早いな。――ほら」
瞬間。
玉座を中心として、ぐにゃりと世界が
どこまでも広がる黒と赤の世界。
玉座の後ろには丸みを帯びた巨大な黒い釜が鎮座し、そこから続く階段を流れて足下に沸き立つ赤黒い液体がごぼりごぼりと気泡を弾けさせる。
頭上には巨大な紅い月が浮かんでいて――魔族の町を思い起こさせた。
鼻を突くのは血と肉、汗と皮脂、汚泥と汚物がどろどろに混ざり合った肥溜めのような臭い。
「ハッ……」
額に汗が滲むのがわかる。
初めて明確な『恐怖』を感じ、俺はギッと唇を噛んだ。
クソ勇者は座したまま頷いて唇を開く。
「これが儀式の間だ。僕は百年前ここで
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