深淵の真相-アビス-②

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 とはいえ、夜通し歩いてそのまま戦うのが不利だってのは馬鹿でもわかるだろうさ。


 城壁の裏口を確認した俺は一度壁沿いに離れ、休息を取ることにした。


 どういうわけか城壁沿いは霧の中と違ってなんの気配も感じないほどに静けさが満ちている。


 虫の鳴き声さえしないってのは相当なもんだな。


 背の高い草が茂る場所に身を潜めて荷物を置き、俺はそっと瞼を下ろした。



 どれくらいそうしていたか――不意に意識が浮上して俺は咄嗟に剣の柄を握る。


 なにかが来る……本能がそう警鐘を鳴らしたのだ。


 ここまで感覚を研ぎ澄ませているのはいつぶりか――思わず自嘲の笑みがこぼれる。


 ……アガートラーとして小さな部屋に押し込まれ、オークのクソどもの気配を常に探りながら過ごしてきたってのに……気付けば随分緩んだもんさ。


 次のアガートが決まったのか、俺たち隷属の『餌』の時間なのか、ただ八つ当たりをしにきたのか……なんにしても構えておいて損はなかったことを思えば、自由とやらは居心地がよかったのかもしれない。


 そう考えながら俺はあの頃と同じように息を殺し――じっと待つ。


 やがてサクリと草を踏み締める音とともに城の裏口から出てきたそいつに俺は目を瞠った。


 魔族のクソ女――ハッ、ここに来ていやがったか。


 薄ら煙る霧に赤い髪が映える。


 ジュダールの爺さんに折られた鼻は治ったらしいな。すっと通った鼻筋は綺麗なもんだった。


 様子を窺っていると、黒いドレスの切れ込みから白い足を覗かせ、女は腕を組んだ。


「どこから入り込んだのかわかりませんけれど、出てきなさいネズ。態度次第では命は奪わないであげますわ?」


 ――ちっ。


 俺は舌打ちを胸のなかだけにとどめ、息を殺して逡巡する。


 ……ネズってのは俺のことだろうさ。


 エルフ族が作り出せる結界ってやつと同じ――魔法の霧を抜けてきたことが魔族には筒抜けだったってことか。


 クソ、忌々しいったらないな。


 警戒すべきだったと後悔しても遅かった。


「……まだ近くにいるのはわかっておりますのよ。出てこないならしらみつぶしに捜して叩きのめすまで」


 とはいえ、俺の居場所まではバレていないらしい。


 俺は慎重に背に手を回し、バックポーチから革袋を取り出す。


 秘薬とやらを使うのは魔王ヘルドールだけのつもりだったが、こいつがここにいるってんなら別だ。


 こんなところで足踏みしていられるかって話さ。


 細く息を吐き、猛る心臓を宥め……俺は生臭く吐き気すら催すほどの赤黒い薬を口の中に含んで唾液と一緒に飲み下した。


 鼻を抜ける不快な臭いが脳を震わせ、体液が沸騰したかのような熱が体中を巡る。


 狩りたい――その欲求が膨れ上がり、知らずごくりと喉が鳴った。


 秘薬とやらの力、試させてもらおうじゃないか。


 俺はクソ女が視線を逸らした瞬間、右足の爪先で地面をギュッと蹴り上げた。


「――おぉッ!」


「!」


 クソ女が身を翻して胸の前で腕を交差させる。


 しかし迫る剣に双眸を見開くと、血色の唇を歪めて回避に転じた。


「お前ッ……人族!」 


「逃がすかよ――ッ!」


 たったの一歩が普通ではあり得ないほどの凄まじい距離を弾き出す。


 突き出した右の長剣が身を捻ったクソ女の左脇腹を掠め、黒いドレスが裂けて白い腹が覗いた。


 間髪入れずに踏み込み左の短剣を閃かせた俺の顔にクソ女の右の拳が迫るが――ハッ! こりゃすげぇな!


 見える・・・のさ。


 右へと首を捻って拳を躱した俺を見て、クソ女の眉がぎゅっと寄せられる……その一挙一動――すべてが手に取るように。


 龍をも屠る力を得る秘薬――その力は想像以上だった。


「おぉ――ッ!」


 気合いとともに振り抜いた左の短剣がそのままクソ女の右脇腹を薙ぎ、鮮血が弾け飛ぶ。


 ほんの一瞬。ただ数歩を詰めただけの時間に呆気なく片が付いたのを……俺はその手応えとともに感じ取った。


 俺にもたれかかるようにふらついた魔族は……踏鞴を踏んだあとでその場にへたりと座り込む。


「…………く、は……。まさか、たった二撃で、やられるなんて……ね」


 腹を押さえる白い指先のあいだから、真っ赤な液体がとめどなく溢れ出る。


 俺はそれを見下ろしながら剣に着いた液体を振り払った。


「――よお、クソ女。腹を裂かれる気分はどうだ」


「……ふ、同じ気持ちを味わったのだから、もっと……優しくしてはどう?」


 魔族のクソ女は金の目で俺を見上げ、額に脂汗を浮かべながらそう口にする。


「ふん。隷属として――アガートラーとして生きてきた俺に優しさなんてもんがあると思うか?」


「ふ、は……よく、言うものですわ。お前は、の者の子孫を守ろうとした、でしょう」 


 乾いた音で言葉を絞り出すクソ女はそれでも唇に妖艶な笑みを浮かべていた。


 どうやら反撃も諦めたらしく殺気のひとつも感じない。


 俺はゆっくりと左膝を突き、そいつの顔を覗き込む。


 大きな金の瞳に影を落とす長い睫毛。


 白い肌にはあでやかな柔らかさがあり、緩く波打つ赤い髪は華やかだ。


 ……俺とそう変わらない歳にすら見えるこの女が魔族が生まれたときから生き続けてきたってんだから驚かされるってもんさ。


「……今日は魅惑はしてこないのか?」


 俺が聞くと、女は眉尻を下げておかしそうに笑った。


「ふ、ふ……お前、わたくしに魅惑なんて、されないくせに……酷いものね……それとも、ようやくわたくしの物になると決めたのかしら」


「ハッ。誰がお前の玩具になるかよ」


「あぁ……お前のそういうところ、やはり最高ですわ。……最期にお前にやられる、というのも……悪くはないかもしれない。さあ、とどめを刺しなさい、抵抗はしませんわ」


 俺はその言葉に鼻を鳴らし、次の質問を紡ぎ出した。


始祖様しそさまとかいうんだったな。お前、人族だったのか?」


「……!」


 クソ女は一瞬だけ目を瞠り、やがてゆっくりと伏せる。


 下ろされた瞼に塗られた煌めく銀色の粉がちらちらと瞬き、薄く開いた唇から吐息がこぼれた。


「――そうよ。わたくしたち『始祖』は、人族から羽化した蝶のようなもの。お望みでしたら教えてあげますわ……遠い昔、南から来た人族はわたくしたちの国を襲った……同族の争いがあったのです。敗れたわたくしたちは北へと落ち延び、細々と生きるなかで禁断の儀式を見出した……」


「……」


 黙って聞いていると、女は傷口を押さえていた手を放し俺に向けて伸ばした。


 真っ赤に染まる白い指先が……このうえなく鮮やかに俺の視界に広がる。


「お前が戦うのは……恨みのためでしょう? 血の色に染まった道を歩むのでしょう? それも気に入りましたわ。わたくしと、同じだもの……魔族は恨みから生まれ、すべての痛みに体中が軋んで、軋んで、軋んで……そうして……ああ」


 女は俺の頬を指先でなぞり……ふふと笑う。


「……お前。助言をあげますわ。深淵を覗かないことよ。沈んだ真相は決して拾い上げてはならない。それでもわたくしたちを滅したいのなら……ともに堕ちるがいいわ」


「ふん、なんだそりゃ。意味がわからないってもんさ」


「もう、話すことは……ないわ」


 女は俺の頬から手を放し、再び腹の傷に手を当て……なにを思ったか柔らかく笑った。


「……その髭がなかったら……もっと素敵な最期でしたのに」


「ハッ。そりゃ悪かったな」


 俺は放った荷物を取るために踵を返し、思い立ってその中からいくつかの品を取り出した。


 血を止める薬。傷を押さえるための布と包帯。流れ出た血を再び作るのに役立つらしい滋養強壮薬。


 それを投げると、女は信じられないとでも言いたげな驚いた顔で俺を見上げる。


「生きようと足掻くかどうかはお前が決めろ。あとは俺の知ったことじゃない」


「……つくづく馬鹿な、人族ですわね……わたくし好みじゃなかったら、めちゃくちゃに×○△※してさしあげましたのに……」


「ふん、本当は俺だってそうしたいところだけどな……そんな簡単に死ぬことを受け容れやがる馬鹿は大嫌いなんでね。望みどおりにしてやる義理はないって話さ。死にたけりゃ勝手にしろ。そうじゃないなら足掻け。それくらいの傷、お前ならなんとかするだろうさ」


「…………」


 女は無言でゆっくりと瞬きをすると……薬に手を伸ばす。


 俺はそれを最後まで見届けずにさっさと歩き出した。


 好き勝手しやがる魔族には反吐が出る。


 情けをかけるつもりもなかったが……嫌な話を聞いちまったからかもしれない。


 原因を探していけばこうして恨みの火種があちこちに転がっている――それがこの肥溜めの本質なんだろうさ。


「ち。どっかのお人好しの目出度い頭が移ったとしか思えないな……」


 吐き出した音が城壁に跳ね返り……俺を嘲笑うかのように反響するのを聞きながら……俺はひとり鼻を鳴らした。


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