深淵の真相-アビス-

深淵の真相-アビス-①

******


 突如草原が終わって・・・・いた。


 渦巻く蒼白い霧。


 草原に線を引いたように始まり、絶えず流動し続けるその壁はまるでひとつの大きな生き物のようだった。


「……ここが魔王ヘルドールの居城か――」


 見上げるマイルは心持ち耳を伏せ、囁くような音でこぼす。



 狼々族ろうろうぞくの町を出て一カ月ほど経った日の夕方、俺たちはようやくこの場所にたどり着いた。


 すでに暮れつつある太陽は地平線目掛けて降下していくところだ。


 もう少しすれば空も暗くなる。闇に紛れて進むのがいいだろう。


 俺とマイルは草っ原に腹這いになり、霧の塊が見える場所に陣取っている。


「……鼻は使えそうか」


 俺が聞くとマイルは空気の匂いを確かめて頷いた。


「大丈夫だ。この草原の匂いも覚えた。……最悪は香散草こうさんそうを焚いて離れるように進めばなんとかなる」


香散草こうさんそう――たしか龍の臭いも消せるんだったな。鼻が曲がるんじゃないか?」


 応えるとマイルは唇の端を持ち上げる。


「調合次第ではいい香りなんだ。ナノが作る香りは格別だぞ」


「そういうもんか? 臭いもんは臭いと思うが……ま、霧から抜けるのに使えりゃどうでもいいけどな」


 思わず応えると、マイルは耳をぴくぴくさせながら灰色の目をこっちに向けた。


「……アガートラー、お前の腹はもう平気か」


「……あ?」


 言うまでもなくアルヴィアに斬られた傷のことだろうが、さすがに一カ月もあれば塞がるってもんさ。


 俺はマイルが困ったように眉尻を下げたのを見ながら眉を寄せた。


「とっくに問題ない。急にどうした」


「いや……怪我したまま戦うなんて無謀だろう? 本調子ではないなら少し考え直さないかと思ったが……やはり治っているか」


「なんだそりゃ。引き留める口実のつもりか? ハッ。残念だったな。――いいかマイル、何度も言うが霧から抜けたらお前はすぐ帰れよ」


「……本当にひとりでいくのか?」


「当たり前だろうさ。お前が魅惑されたら邪魔だ」


「……何度聞いてもそのとおりだと思うんだが、やはりひとりで行かせるのは誇り高き戦士として許容できなくてな」


「ふん。俺が死ぬと思うからだろ? ――死にそうになったら逃げるさ。俺をなんだと思ってやがる」


「ひねくれ者の人族だ」


「うるせぇ、その尻尾引き千切るぞ」


「はは」


 マイルは困ったような顔のままで笑うとため息をこぼす。


「これ以上は止めても無駄だな。お前ならやれるんだろうし、危険なら退くだろう。――なら霧の向こうまで必ず送り届け、革命軍と合流してここまで戻る。それまでに魔王ヘルドールを倒していなくても文句は聞かない……それでいいな?」


「ハッ、言ってくれる」


 俺はマイルの背中を一発叩き、再び渦巻く霧へと視線を移す。


「終わらせといてやるさ。俺の目的は魔王ヘルドール率いる魔族を×○△※してやることだ。爺さんの秘薬もあるしな」


 きっぱり告げると――マイルは今度こそ諦めたのか前を向いて頷いた。


*****


 霧は腕を伸ばすともう指先が見えないほどの密度だった。


 俺はマイルと自分を細い縄で繋ぎ、いつでもそれが切れるよう武器を手に進んでいる。


 夜を待って出発したために霧の内部にも闇が満ちていて、より視界が悪いからだ。


 マイルは少し進む度に臭いを確かめているらしく、微妙な調整を繰り返している。


 正直、俺には臭いの違いなんてのはさっぱりわからない。


 湿った空気には泥臭さが混ざっているだけで、草原の匂いなんてのはまったく感じない。


 しかも霧の流れが一定ではなく、撫でられる方向がころころ変わっているために方向感覚が狂ってくる。


 するとマイルがぴたりと足を止めて肩越しに呟いた。


「そっちから獣とも違う臭いがする。魔物がいるようだ。避けていくぞ」


「ああ」


 なるほどな、迷うのは確実なうえに魔物もいるってわけか。


 マイルが大回りするのに従いながら、俺は狼々族ろうろうぞくの鼻が必要だと話した革命軍総司令官――ジュダールの爺さんを思い出す。


 確かにこの霧は人族にとって厄介だ。狼々族ろうろうぞくの助力を得ようとしたことも頷ける。


 足場はそう悪くはないが見えないぶん慎重にならざるを得ないうえに、木が疎らに生えていて草が深くなることもある。突如大きな岩が目の前に現れたりもした。


 とはいえ、地図で見た感じではでかい町ひとつぶんが霧に覆われているだけ。


 その中央に城があるとすれば、普通なら日が昇る頃にはたどり着けるはずだ。


 ま、地図は魔族のオッサンに渡しちまったし――見たところで自分がどのへんにいるかなんてわからないだろうけどな。


 そうして俺たちは夜通し進み、明るくなってからようやく壁のようなもの・・・・・・・に行き当たった。


 どうやら霧もここまでらしい。


 目を凝らせば薄く煙る視界の向こうに続く石積みの城壁が見えている。


「出たらしいな」


 俺が言うとマイルは小さく頷いて壁にそっと触れた。


 長く誰も手入れしていないんだろう。


 削れ、抉れた壁には蔦が這い、所々がくすんでいる。


 マイルは尻尾を大きく揺らして静かに言った。


「ここが――人族の城だった場所か」


「らしいな。ご立派な壁じゃないか。勇者はここで四肢を分かたれたって話だったな」


「……アガートラー。お前は人族が城を取り戻したらどうする? ……人族には王がいるのだろう? エルフ族とともに南の森に残っていると聞いたが――」


「さぁな。その先は俺には関係ない。はっきり言って興味もない。……ただ、革命軍の星とやらは百年前の過ちを繰り返す馬鹿じゃないだろうさ。王族に欺されることもないだろ。とくに総司令官の爺さんは曲者だからな」


「そうか。それなら――我ら狼々族ろうろうぞくもともにやっていけるだろうか?」


 俺はそこで壁を見詰めるマイルを見た。


 灰色の瞳は人族が築き上げた壁に釘付けで……何処か遠くを見ているようでもある。


 他の種族と関わってこなかった狼々族ろうろうぞくの行く末――それを考えているんだろう。


 俺は鼻を鳴らしてマイルとのあいだに渡された縄を切った。


「隷属だった俺に聞くな。お前以上に誰かと関わることなんざなかったからな」


 同じ隷属たちと身を寄せ合って眠った日々を思うといまも肺を掴まれるような息苦しさがある。


 暗く狭い部屋にひとり押し込められていたときを思うと酷く惨めで、いますぐに魔王ヘルドール率いる魔族を×○△※してやりたい気持ちが腹の底から染み出してくる。


 ハッ、誰かと仲よくやっていけるかどうかだ? そんなこと考える必要すらないってもんさ。


 失敗したところで命を落とすわけじゃない。アガートとは違うんだ。


 俺はブツリと音を立てて垂れた縄に視線を移すマイルに続けた。


「別に命を賭けるわけでもないだろ。やってみて駄目ならやめりゃいいじゃねぇか。――じゃあな、マイル」


「……アガートラー……ああ、そうだな。やってみるとする。――必ずまた会おう」


 マイルは細い目を大きく見開いたあとで俺に向かって左の拳を差し出した。


 ……それがどういう合図なのかは知らないが……俺はそれに自分の拳をぶつけて頷く。


 これ以上の言葉は必要ない。


 壁に沿って歩き出す俺と同じく、マイルも振り返ることなく霧の中へと消えていく。



 俺は震える体を律し、歯を食い縛って笑みを浮かべた。


 ……ハッ。たぎるってもんさ。そうだろ?



 ――さあ。ご対面といこうじゃないか、魔王ヘルドール



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