信頼の証明-プロバティオディアボリカ-④
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フィードを連れてくるべきだったかと思い当たったのは町を出て十日後……雨が降り始めてからだ。
ザアザアと音を立てて大きな雫が引っ切りなしに頭を叩く。
簡易テントは用意しているが俺とマイルでうまく浸水を防げるかどうかは怪しいってもんさ。
あのクソガキがいればと思った自分に俺は思わず自嘲した。
「アガートラー、森ならどこかで休めるかもしれない」
そこで茶色がかった灰色の毛を顔に張り付かせたマイルが、それを邪魔そうに掻き上げながら言う。
俺たちは森に沿って歩いていたが、木と下草がこれでもかとひしめいているその佇まいはとてもじゃないが入りたいとは思わない。
――マイルは知らず眉を寄せた俺に続けた。
「雨で鼻はそう利かないが――獣臭い気がするんだアガートラー。狩りもできるかもしれないぞ」
「……はーん。そりゃいいな」
肉は重要な栄養源だ。摂れるなら摂っておきたいって話さ。
俺は一も二もなく頷いて森へと分け入り――大きな木が雨を遮る場所で夜営することに決めた。
雨は絶えず大樹の葉を叩き、時折葉を伝って落ちてきた大きな雫が鼻先で弾ける。
満ちるのは雨と土、それとむせ返るような緑の匂い。
……そんななかでマイルが狩りに出たんで、俺がテントを張ることになった。
テントを張りながらやれるのは物思いに耽ることくらいだったが……思い出すのは暗く狭い牢獄ばかりだ。
――こんな雨が降れば『アガート』は延期になる。
安堵なのか緊張なのかよくわからない奇妙な気持ちになったこと……俺はそれを覚えていた。
命を賭けるそのときが先延ばしになっただけ――生き残るために苦しむ時間が延びただけ。
戦う相手が人族か魔物かもわからない。
死ぬかもしれないと一瞬でも考えてしまったら、それはもう苦痛の時間でしかなかった。
……それが革命軍に助けられ、自由に誰かと言葉を交わすことも増えたってんだから驚きだ。
俺を革命軍へと導いた白銀の鎧を纏った騎士……その豊かな艶を保った長い銀髪が脳裏を過ぎる。
――ハッ。なにを感傷に浸ってるんだかな。
俺は誰に向けるでもなく鼻を鳴らし、ギュッと縄を結んだ。
テントはこんなもんでいいだろ。
あとはマイルが狩ってくる獲物を焼くための焚火が必要だ。
俺は立ち上がり……足を止めた。
「……、……」
木々が軋む音じゃない。話し声のようなものが聞こえる。
俺は音を立てないように剣を抜き放ち、太い木の幹に体を寄せた。
マイルがひとりでペラペラ喋っていやがるとは思えない――かといって俺たち以外に人族がいるはずがない。
下草を掻き分けゴソゴソとやってきたのは『魔族』だった。
「……お腹空いたよ……」
「大丈夫だ、この森ならきっと食べ物がある」
小さな角を額から生やした子供――それと反り返った二本角の大男だ。
腹を空かせているってことは壊滅したらしい町の奴らかもしれない。
魔族どもが野営をしているのはもっと西寄りのはずだが、バラバラに逃げてはぐれでもしたのか?
子供の魔族ってのはあの儀式では見かけなかった気がするが……年齢制限でもあったんだろう。
様子を窺っていると、そのふたりは背の低い草や蔦を払いながら少しずつ向かってくる。
ちっ。こっちに来られたらテントが見付かっちまうな。
俺は足下にあった石をゆっくりと屈んで拾い、テントとは反対側に投げ付けた。
石は枝葉を揺らしてガサガサと音を立てながら飛んでいき、大男がでかい手で子供の魔族を制する。
慎重に向きを変え……男は子供に言った。
「獲物かもしれない。見てくるから、ここを動くんじゃないぞ」
ハッ。俺にはでかい背中がよく見えるってもんさ――!
俺は身を低く保ち一気に距離を詰めて後ろから男を突き倒す。
「ぐあっ⁉」
「動くな」
地面は枯れた葉が堆く積もってそう固くはない。
そこを割って生えた下草は細い枝を持っていたりするが、ここまででかい男が倒れ込んだんじゃひとたまりもないだろう。
俺はうつ伏せに倒れた男の背中を右膝で押さえ、首筋に刃を当てた。
冷えた魔族の体が緊張に固くなり、絶えず落ちてくる雫が汚れた頬を洗い流す。
「じ、人族――なぜここに」
左頬を地面につけた状態で俺を睨む男の目は金色。浅黒い顔は血色が悪く相当消耗しているのがわかる。
俺は尻餅を突いて呆然としている子供の魔族を一瞥し、口を開いた。
「ふたりだけか」
「――そ、そうだ――頼む。子供には手を出さないでくれ」
呻くように応えた男は俺の目線に気付いて懇願してくる。
「なにしにここに来た」
無視して続けた俺に、男は額に汗を浮かべながらゆっくりと話す。
「食べ物が必要だった。二日間食べていない……」
「……」
見たところ大男の武器は折った枝だけ。これで狩りをするつもりだったんだろう。
とはいえ魔族のクソ女は素手で戦う奴だった。
こいつがそうじゃないと言い切ることはできないってもんさ。
……すると。
「お、おじちゃんを放せ! 俺たちなにもしていないだろ!」
我に返った子供の魔族が上擦った声で叫び、懸命に立ち上がってこっちに向かってきやがった。
「動くなクソガキ。こいつの首をかっ斬るぞ」
俺は低い声で脅し、びくりと立ち止まる子供に向けて鼻を鳴らしてみせる。
「なにもしていないだ? ふざけるなよクソガキ。俺たち人族を隷属としてこき使っているくせにそんなことも知らないか? それとも自分は関係ないとでも言うつもりか?」
「ま、待ってくれ。その子はまだ人族のことはよく知らないんだ」
俺は子供を庇おうとして身動いだ大男を押さえるために膝に力を込めた。
「黙れ。知らないなら教えてやるさ。なあ魔族、あんたは血に染まったアガートの戦場を見たことがあるか?」
「ぐ……。あ、アガートは、知っている……人族がアガートラーとして、戦っていることも……」
「戦っているんじゃない。戦わされているんだって話さ。負ければ死ぬ、簡単にな。――命を賭けて戦わなきゃならないんだよ、アガートラーは。傷を負っても手当てのひとつもない。罵倒され、殴られ、気まぐれで命を奪われることもある。……あれは肥溜めだ、地獄だ。それをお前ら魔族のクソどもが作った」
「……うぅ」
大男は呻いて震えた。
子供は青ざめた顔で目を見開いて小さく首を振る。
自分が死ぬかもしれないのに逃げ出すことすらできず、ただ見ているだけってのは恐ろしいもんだ。
俺がここで大男の首を斬れば、このクソガキには同じ思いをさせてやれる。
――ま、それができれば……だけどな。
……俺はため息をついた。
抵抗しない奴を狩ることが正しいとは思わないってもんさ。
「…………はぁ。おい魔族、いいか。俺が退いたらゆっくり両手を上げてこっちを向いて立て。俺があんたをいつでも狩れることを忘れるなよ」
「……わ、わかった」
俺は宣言通り魔族の大男から慎重に膝を退かし、魔族も言われたとおりこっちを向いて立ち上がる。
「お前もこっちに」
顎で指し示すと子供の魔族は弾かれたように駆け出して大男の腰に飛び付き、しくしくと声を殺して泣き出した。
……ふん。
俺は腰のポーチから乾肉の入った革袋を出し、魔族に近付いて上げられたその手に握らせる。
「――乾肉だ。それだけありゃ少しは腹の足しになる。……水はこれだけ雨が降ってるんだからなんとかできるしな」
「……は?」
ぽかんと口を開ける大男に俺は鼻を鳴らす。
「俺はお前ら魔族のクソどもと同じことをしたいわけじゃない。おとなしくしてるならなにもしないさ。……とにかく火を起こしてやる。あんたの体は冷えすぎだ、その子供も気丈にしてるが体力は持っていかれてるだろうさ。――来い」
魔族の大男は恐る恐る手を下ろし……俺の言ったとおり乾肉があるのを確認して唇を震わせた。
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