異形の儀式-カノナス-⑧

******


 山脈の上層にある貴重な薬草を採るため、ガロンは蔦で編んだ籠を背負って山道を登っていた。


 上層ともなれば十分な量の薬草を採取するのに数日かかる場合もある。


 それはガロンにとって珍しいものではないので、まず目指したのは拠点にしている岩場だ。


 拠点は岩と岩のあいだに木製の骨組みを渡し、ある種子から取れる油を染みこませ防水加工を施した布を屋根として、雨風を凌げるようにしたガロンの『別荘』である。


 ……しかしその日は急病人の治療のため出発が遅れたこともあり、いつもは明るいうちに到着できる拠点でガロンがひと息ついた頃には、星がちらちらと瞬いていた。


 だからガロンは気付かなかったのだ。いつもなら多くの生命いのちが寄り添うその場所がやけに静かなことに。


 そのとき……カラカラ、と小石が転げる音がして、ガロンはふと顔を上げた。


「――ッ!」


 それはまるで巨大な岩。


 いや、岩壁だった。


 距離はあるが、わかる。


 岩の上に鎮座した影と確かにガロンを見据えるふたつの眼……ガロンは悲鳴とも呼吸ともつかない音を発して踵を返し、一目散に逃げ出した。


 ――龍だ、龍だ。龍だ!


 ――どうしてここに? 早く逃げないと喰われる――!


 しかし。


 風を切り裂く音が耳に届く瞬間には――ガロンの左肩に龍の爪の先がずふりと食い込んでいた。


「あ゛あ゛あ゛ッ!」


 逃げようにも龍の力は凄まじく、ガロンは身をよじって絶叫する。


 岩場を反響する己の声はさらなる恐怖をガロンに与え、濃厚な死への畏れに呑まれた彼は瞼をぎゅっと閉じて耳を伏せた。


 左肩が激痛にびくんと疼くがそれどころじゃない――いまこの瞬間、心を、意識を、すべての事象から切り離してしまいたいと考えたのだ。


 ……すると。


「まぁ。目と耳を塞いで……それは諦めの表れかしら」


 龍のいるほうから声がする。


 クカカ、と喉を鳴らした龍がぶはりと吐き出す息は血生臭く、凄まじい悪臭だ。


 鼻が痛み、閉じた瞼の奥がじわりと熱を帯びた。


「――こっちを見てはどう? 狼」


「……ッ」


 ガロンは首を振ってその場にうずくまる。


 龍の爪はいつのまにか肩から離れていたが逃げられるはずがない――それだけはわかっていた。


「見ないのなら仕方ないわね。……そうだわ。ねぇ狼。これから下の町を焼きにいこうと思うのだけれど、気が向いたからわたくしを手伝わせてあげてもよくてよ。そうすれば町は焼かないであげてもいいわ」


 誰かはわからないが、女の声。


 ガロンは耳を伏せ尾を巻いて、地面に額を当てたまま震えるしかない。


 頭を抱えるガロンの肩から血がこぼれ、乾いた岩場をてらりと濡らした。


「わたくし、にえが必要ですの。そうね、三日に一度でいいわ。夕方になったら町のこちら側ににえを送り出しなさい。町から少し離すだけで十分ですわ。あとはわたくしが回収します」


 ガロンは大きく横に首を振る。


 ――にえだなんて……そんなの無理だ、無理だよ!


「ならいますぐ町を焼き尽くしましょう。……狼、わたくしの気が向いているうちに選ぶのですわ? それとも……」


 瞬間……クカカ、と龍が喉を鳴らし、己の真横で生臭い吐息が吐き出された。


 そこまで聞いて、ガロンはとうとう恐怖に堪えられず叫ぶ。


「わ、わかったよ! 人数……人数を教えてよッ! にえを出せば……町は助けてくれるんたな⁉」


 顔を上げることは勿論、瞼を閉じたまま動かすこともできないガロンが叫ぶと――女は楽しげな笑い声をこぼす。


「ふふ、勿論町は残してあげますわ。わたくし『裏切り』は嫌いですもの。……七人よ。最初のひとりは三日後に」


******


「俺はそれから……三日ごとににえを決め、薬草採取の依頼を出したんだ……臭いが残らないように香散草こうさんそうの香炉を持たせて……」


 ガロンが喉を震わせるたびにからからの声がこぼれ落ちる。


 何度聞いても胸糞悪い話に違いないが――死にたくない気持ちを俺は理解することができた。


 その気持ち――生きるという本能に従って誰かを殺める道を、俺はとっくに通ってきちまったからな。

 

 けどな、まったくもって気に入らないってもんさ。


 ガロンは己の手を汚さず、ろくに頭を使うこともなく、ただ誰かを差し出した。


 自分だけ安全な場所で、だ。


「――ちっ。本当にクソだな」


 思わず舌打ちした俺に、くすんだ紅は今度はなにも言わない。


 ……にえの決め方は単純だった。


 その日の最初にガロンのところにやってきた者である。


 ガロンは薬を求めたにえに材料が切れているからと薬草採取を依頼して、夕方にもう一度来てもらっていたらしい。


 己の肩の傷を理由にすれば断る者はいなかったという。


「ナノが、七人目――最後のひとりだったんだ……」


 ガロンはそう言って肩を震わせる。


 マイルがぎゅっと唇を噛み締める横で、黙って聞いていたおさはクワッと目を開いた。


「――この大馬鹿者がッ! 誇り高き狼々族ろうろうぞくがそのような! 恥を……恥を知れ!」


 ビリビリと耳に痛いほどの音量に、くすんだ紅と濃紺、鮮やかな黄色が耳をぴたりと伏せて首を竦める。


 ガロンは床に身を伏せたままぶるぶると震えているだけ。


「――おさ。ここから一週間ほどの地で魔族の儀式が行われるらしい。この人族が儀式のことを報せてくれた。話を聞いてくれ」


 ……そのなかでも耳をピンと立てたままのマイルは、おさの爺さんにそう言ってアルヴィアを振り返った。


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