愚者の楽園‐ディストピア‐⑤

******


 昼寝を済ませてから男のもとに赴き、明日アガートがあることを告げる。


 死ぬつもりはないが――明日の夜までここにいられるとも限らないしな。


 それから食糧を分けてやって、俺は確認のために戦場へと繰り出した。


 なんでもいい。利用できるもんは利用しないとならないからだ。


 ――戦場は簡単に言うなら剥き出しの土の広場で、踏み固められた吹き曝しの地面には小さな雑草が点在し、乾ききった風が土埃を舞い上げる。


 巨大な爪で抉ったような痕が散見されるのは魔物を使っているからか。


 魔物相手に戦うことも多かったが、そのほうがありがたいって話さ。むしろ遠慮しないでいいだけ戦いやすいからな。


 ぐるりと見回せば、設けられた観客席の一画に高い位置から見下ろす形のバルコニーを見つけた。


 あれが王の観覧席だろう。


 観客席はアガートの戦場から直接繋がっていて、一番手前の席の前には俺の腰ほどの石垣が造られている。


 これくらいなら簡単に越えられるな。あとは――。


 俺は石垣を跳び越えてバルコニーの下まで移動し、じろじろと観察した。


 観客席は外側に行くほど高くなり、一番外側の後ろは通路を挟んで建物の壁だ。


 入口がいくつかあってその先は三階。観客席は一階から三階の高さに跨がっていることになる。


 そして問題のバルコニー。


 円を描く建物の北側、四階から入ることになっているはずだが……戦場側から登るのは難しそうだった。


 ち、わかってはいたがそう簡単にはいかないか。


 それにこれだけ簡素な造りの戦場だ。力と力がぶつかるだけ――命と命のやり取りになる。


 さて……だとするとあとは相手だな。そのへんのゴブリンでも捕まえて聞いてみるか。


 俺は三階から建物に戻り、ふと気付く。


 この入口から入ると階段がすぐそこか――この上はバルコニーのある四階で、つまり……。


 ――ハッ、いいぞ。運が向いてきたかもな。


 俺は階段を一段飛ばしで駆け上がり、四階の造りを思い浮かべる。


 バルコニー席の内側は大きな部屋だ。


 いまは閉ざされているかもしれないが本番はどうなる?


 ……四階の廊下はほかよりも豪華――だった、と言うべきか。


 絨毯が敷かれていたようだが汚れまみれでズタズタだ。


 俺は目当ての部屋に到着するとあたりになにもいないのを確認してそっと耳を押し当てた。


 ――音は――しないな。


 右手で取っ手をゆっくりと掴み、ひんやりした感覚を確かめながら慎重に押してみる。


 扉は開かなかったが――それでいい。


 俺は懐から鍵束を取り出し、ひとつひとつ鍵を差し込んで試していく。


 地下二階の部屋数よりもはるかに鍵が多いのは、おそらくこの建物全体のものが集約されているからだ。


 だから――。


 カチリ。


 ――ほらな!


 俺は鈍色の大きい鍵を掲げて思わず口角を吊り上げる。


 この部屋の鍵だってひとつやふたつじゃないはずだ。鍵を持ったまま行方不明のゴブリンがいたとしても今日明日で付け変えるってこともないだろうさ。


 俺は部屋に入ると真っ直ぐにバルコニーに出る。


 備え付けられた石の椅子はひとつ。背もたれは高く、後ろから突き刺すのは無理だ。


 アガートの戦場がよく見渡せるよう低めに造られた手摺りについては具合がいい。


 ――さて。万全とはいえないが形は描けたってところか。


 俺は手摺りの上に立って下を見下ろし、この程度なら飛び降りることができるなと思いながら踵を返した。


 そのへんのゴブリンどもは俺の相手についてなにも知らなかったが……まあいい。


 やってやるさ――こんなところで死ぬなんざ御免だ。


******


 翌日。


 頭が割れそうな金切り声の歓声がアガートの戦場を包んでいた。


 汚い色をしたゴブリンどもが鳴き喚くのは不愉快でしかない。


 オーク族がちらほら紛れているようだが――ふん。『お前らクソどもの町はもうないぞ』と腹を抱えて笑ってやりたいってもんさ。


 ぐるりと首を巡らせて、俺は目当てのゴブリン王に視線を合わせる。


 申し訳程度の冠を頭に載せ、石の玉座に腰掛けるそいつはほかのゴブリンどもよりでかい。


 纏っているのは悪趣味な紅いマントだ。


 兵士のような格好をした似たような大きさのゴブリンが二匹控えているが――ありゃ普通のゴブリンじゃないのかもな。


 ハッ、やりがいがあるじゃないか!


 俺は剣を抜き放ち、右足を前、左足を後ろに構える。


 そのとき黙って座っていたゴブリン王が立ち上がって両腕を広げた。


『さあ今日の余興は最高だぞ! 楽しめゴブリン! アガートラーはここで朽ちろ!』


『朽ちろ! 朽ちろ! 朽ちろ!』


 呼応して叫ぶゴブリンどもが右手を振り上げる。


 俺は笑い出したくなるのを堪え、ゴブリン王に向かって剣を突き出した。




 震えなんざクソ食らえだ! そう、俺はこうして生きてきた!




「『ハッ! 汚い声で喚くな馬鹿ども! 勝つのは俺だ、その首洗って待ってろよこの×○△※が!』」


『ギャ……ッ⁉』


 遠目からでもゴブリン王が目を瞠るのがわかり、俺はとうとう笑ってしまった。


「『さあ出せよ。俺の相手はどいつだ?』」


 キリキリキリ……ゴゴッ……


 そこで東側にある鉄格子の扉がゆっくりと持ち上がり始める。


 暗闇のなかで蠢いた巨大な影が太陽のもとへと脚を踏み出した。



『朽ちろ! 朽ちろ! 朽ちろ!』



 歓声が大きくなり、出てきたそいつは後ろ脚でゆっくりと立ち上がる。


 ――俺より頭ふたつ分はでかい黒い魔物。


 見たこともない姿だが、戦場の爪痕はこいつの前脚から伸びる太い四本爪が付けたもので間違いないだろう。


 牛――に近いが、頭の左右から突き出して蜷局を巻く角は牛にはない。


 鼻先が長く、爛々と光る金の双眸を細い瞳が縦に割っていた。


 毛に覆われた体は生々しい傷痕が散見され、こいつも戦場を生き抜いてきたのだとわかる。


『メルルル――グル……』


 口からは涎がぼたりぼたりとこぼれ、俺を品定めするかのように首が傾げられた。


 図体はでかいが――速さはどうだ?


 俺は慎重に間合いを取ろうとして――咄嗟に横っ跳びに転げた。


『グアフゥ! メルルルルル――ッ!』


 ものの数歩で俺に到達した魔物の爪が地面を抉る。


 獣よろしく四つん這いになった黒い魔物は俺を正面に捉え、高い跳躍で頭上を越えて後ろに回り込んだ。


「チッ……でかい図体のくせに速いってか⁉」


 すぐさま魔物へと向き直る俺の前、地面を踏み抜く勢いで迫った魔物が頭を突き出しながら大きな口を開く。


 ずらりと並ぶ尖った牙。


 生臭い息が頬に触れる瞬間、俺は身を屈めて攻撃に転じた。


 ガチンッ!


 噛み合わされた歯が鳴るのと同時、地面に爪を立てていた魔物の右前脚へと左の短剣を振り下ろす。


『グフアァァッ!』


 咆吼に鼓膜がビリビリと震えるが知ったことじゃない。


 飛び離れた俺がいた場所で魔物の左前脚の爪が空を裂く。


「どうした? 腹が減ってんだろ? ほら、来いよ!」


 俺は挑発してからするすると下がった。


『メルルァッ……』

 

 怒りを金の双眸に宿し、魔物は再び踏み切る。


 振り上げられ迫り来る鋭い爪――ハッ、いったい何人の血を吸ったんだかな!


 次の瞬間、俺は剣を逆手に持ち替え切っ先を魔物に向けて地面を蹴った。

 

『ガァ――ッ!』


 まさか自ら懐に跳び込んでくる獲物がいるとは思わなかったろうさ。


 前脚が振り抜かれるより先。


 俺の剣がその脳天に突き刺さり、魔物は俺と一緒に乾いて固くなった土の上を転がった。


 衝撃に頭がぐらぐらしたが――鎧ってのはなかなかいいじゃないか。


 傷付くことを覚悟していたがしっかりと防護された体はなんともない。


 俺は魔物の下から這い出してその脳天に突き刺さった得物を右手で掴み、右足で押さえながら引き抜く。


『…………』


 崩れ落ちたままの魔物はビクリビクリと痙攣し……やがて動かなくなった。


 ――戦場が静まり返る。


 俺はどくどくと鼓動する心臓を落ち着けるために大きく息を吸い、魔物の生臭い臭いで肺を満たした。


 本番はこれからだ。


「『――おい。歓声はどうした?』」


 紅に染まる剣をゆっくりとゴブリン王へと向ける。


「『それともなんだ、俺が勝つことは想定外か? なあゴブリンども』」


 いまならいける。


 俺は大股で一歩を踏み出し、ゴブリン王が呆然と座り込む玉座に向かった。


 右足で一歩。左足でもう一歩。


『……! おい、次だ! 次の魔物を出せ!』


『ギャッ……かしこまりました!』


 我に返ったゴブリン王の怒鳴り声で兵士らしき一匹が建物内へと駆け出す。


 そのときには俺は駆け出していて、観客席の前――石垣を跳び越えていた。


 俺は無造作に剣を振り、目の前の一匹を蹴り飛ばす。


「『退け!』」


『ヒイィッ!』


 オークのクソどもとは違う。


 こいつらは本当にただの愚者――それがよくわかる反応だ。


 そのとき。どういうわけか戦場が『震えた』。


 ズズズ……ゴオォッ!


 ――なんだ? 地震か?


 地の底から響くようなそれは観客席のゴブリンどもを一気に混乱におとしいれる。


『ぎ……ギャアァーッ!』


 すぐに震えは収まったが、混乱は混乱を呼び伝染し続けた。


 ふん、よくはわからないが利用しない手はないってもんさ。


 蜘蛛の子を散らすように右往左往しながら転げていくやつらより、いまはもっと大きな獲物が優先だ。


 俺は混乱に乗じて一気に通路を抜け、建物の三階から階段で四階へと駆け上がる。


『……ッ!』


 廊下に飛び出すとゴブリン王の部屋を守っているらしき従者が目を見開いた。


 しかしそいつは普通の大きさのゴブリンだ。


「『かかってこいよ』」


 挑発してから剣を突き出すと――ゴブリンはじりじりと後退ってから悲鳴を上げて逃げ出す。


 ――おい。武器もとらないってか? ……まあいい。本命はこっちだしな。


 俺はさっさと取っ手を掴むが、扉には鍵が掛かっていて動かなかった。


 ハッ、こうも読みどおりってのは気分がいい。


 懐に忍ばせていた鍵を差し込んで捻り、俺はそのまま扉を蹴り開けた。


『フオォ!』


 棍棒を振り上げて待ち構えていたのは兵士らしき一匹。


 ゴブリンにしちゃでかいが、ハイオークよりは小さい。


「『この○×△※がッ!』」


 俺は剣を握る手に力が入るのを感じながら盛大に悪態をつい二本の刃を閃かせた。


 ガツッ――!


 さすがに棍棒ごと斬り払うのは無理だが、勢いを殺すことはできる。


 踏鞴を踏むゴブリンへと踏み出して突き出した剣が腕に突き刺さり、ゴブリンの悲鳴が響いた。


『や、やめろ! 金か、じ、自由か? やる、ゴブリン王、全部やる!』


 そこにバルコニーから声がかかる。


 兵士らしき一匹に剣を向けたままちらりと視線を走らせると、ゴブリン王がへこへこと頭を下げていた。


『助けてくれ。ゴブリン王、お前の望みは叶えるぞ。なにが望みだ?』


「『望みね――』」


 俺はオーク語で返し、右足の爪先をゴブリン王に向ける。


 こいつらの言う『自由』とやらはいったいなにを意味するんだろうな。


「『お前ごときになにができるかって話さ』」


『ゴブリン王、なんでも叶えられる。信じてくれ』


 ゴブリン王は床に這いつくばってペコペコと頭を下げ、上目遣いで俺を見上げる。


 その瞳が醜悪に歪む瞬間、俺はぐるりと体を捻って『棍棒を振り上げていた』兵士の腹を斬り払った。


『グギャ――ッ!』


 兵士は棍棒を取り落とすと、斬られた腹に両手を当ててどう、と倒れ伏す。


「『ハッ、×○※△どもが! 信じろって言葉なんざ一切信用できないってもんさ!』」


『……う、ウゥッ』


 たぶんゴブリン王は真っ青だろう。勿論、元々濁った緑色の体色だからわからなかったが。


 俺はそこで初めてじっくりとゴブリン王を見た。


 ほかのゴブリンどもよりはるかに恰幅がいいところを見るに、美味いものを喰ってのうのうと生きてきたんだな。


 この世界は魔王ヘルドールが率いる愚者にとっちゃ楽園――隷属にとっては肥溜めそのものだ。


 腹の底で激しく燃え上がるのは憎しみか。


「『――俺の望みはお前の首ってところだ。差し出せ』」


『ギャーッ!』


 瞬間、ゴブリン王は跳ね起きてバルコニーへと駆け出し、石垣の向こうへと身を踊らせた。


「……」


 俺はバルコニーへと繰り出して戦場を見渡したが……にわかに廊下が騒がしくなったのを聞き取って剣を構える。


 ――すると。


「覚悟しなさい、ゴブリン王!」


「……あ?」


 跳び込んできたのは白銀に煌めく甲冑。


 誰かなんて聞かずともわかるってもんさ。



「――アルヴィア、お前なんでここにいる?」


 

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