愚者の楽園-ディストピア-④


******


 ――夜闇に紛れゴブリンの巣にほど近い森に到着した俺たちは簡易的な陣を敷いた。


 決行は明日の朝。ここはもう戦場だ。すべての兵は臨戦態勢を保ったまま過ごすことになる。


 肋骨のヒビは痛みを感じない程度になり、剣を振るう鍛練を再開していた俺はすぐにでも駆け出したい衝動を抑えるのに必死だった。


 ハッ。魔族を○×△※できるってんなら気が逸るってもんさ。


 ――しかしまぁ、酷ぇ町だな。


 森の端……茂る下草に腹ばいになって覗き見たゴブリンの巣は遠目に見ても荒れ放題。


 広さでいえばおそらくはオークどもの町のほうがはるかに広いが……どうやら居住地の管理には興味がないらしい。


 ――ただ馬鹿なだけかもしれないけどな。


 町をぐるりと囲んでいるらしい外壁は役に立たないほど崩れ、蔦が壁面を呑み込もうとしている。


 ――あれなら足場には困らない。登って侵入するのは簡単だろうさ。


 しかも外壁より奥……空へと突き出す一番高いとおぼしき四角い塔の天辺に屋根はなく、俺の視界には見張り台なんてのも皆無だ。


 篝火らしきものが街道――町と町を繋ぐ主要な道のことらしい――の先で燃えているが、肝心のゴブリンどもの姿は見つけられなかった。


 こんな近くの森に陣を敷かれても気付かないってのは無防備すぎる。


 豚面オークどもでさえ見張りの兵がいつも彷徨うろついてたってのに。


「……これなら一気に攻めちまえばいいだろ。なんでそうしない?」


 俺が言うと、隣で同じように身を伏せているアルヴィアがちらと俺に視線を投げた。


 邪魔なのか結い上げられた銀の髪を後ろで丸め、甲冑は着ずに厚手の服に身を包んでいる。


「この町にいるゴブリンたちは『ヨウカネズ』と同じように増えると聞きます。不用意に攻めるのは得策ではありません」


「……ヨウカネズってのは?」


「八日で増えるネズという魔物です。兜くらいの大きさなのですが、油断すると溢れんばかりに増えて作物を荒らします」


「ハッ、ならなんでゴブリンどもはあんな広くもない町に収まってる? もっといてもいいだろうに」


「……まあ……とにかくそれだけ数が多いってことですよ。ゴブリン王を討てば混乱が起きて大半は逃げるはずです。つまり数が寄り集まる前に頭を潰すという作戦なのです」


「――そんなもんなのか」


 半分も逃がしちまったら楽しみが減りそうだな。


 俺は考えながら手元の草を引き千切って顔に擦りつけた。


 青臭い汁に鼻がむず痒くなるが、それでも肥溜めよりはマシってもんさ。


「アガートラー……貴公、なにを?」


 訝しむアルヴィアには応えず、俺は次に土を掴んでほぐす。


 柔らかくどこか温かいそれもそのまま顔に塗りつけ、仕上げに草と土の上でじっくりと体を転がした。


「汚れてしまいますよ……?」


「…………はぁ。お前馬鹿か? 綺麗な格好なんてして行ってみろ。逆に怪しいってもんさ!」


「ああ……なるほど。確かにそうですね」


「お前、星とやらなんじゃないのか? もっとしっかりしたらどうだ?」


「…………」


 アルヴィアは苦虫を噛み潰したような顔で首を竦めると、寄せた眉を隠すように視線を逸らし大きく息を吸って前を見据える。


「星……そうですね。言われずとも精進しますから心配無用です。――ではアガートラー、私たちの部隊はこの森にある下水道への入口から地下を進みます。後発部隊はさらに離れた場所で陣を敷いて待機……時間になっても動きがなければ突入しますから、決して無理はしないでください」


 多少違和感のある反応だったが、アルヴィアはそれ以上眉を寄せることはなかった。


 俺の言葉がアルヴィアにとっていいものではなかったのは間違いない。


 勇者の末裔であることになにか思うところがあるのかもしれないが……ま、俺の知ったことじゃないさ。


 俺は体に纏った草と土の臭いを確かめ、両手を突いて体を起こす。


「――先に俺がゴブリン王とやらを狩っても文句はないよな?」


「『はい』と言ったら作戦を無視したりしませんか……」


 呆れた声でそう言って、アルヴィアは諦めたように首を振った。


「誰が討とうとかまいません。ですが、いいですかアガートラー。ゴブリン王を討っただけでは戦いは終わりません。絶対に気を抜くようなことのないように」


「あーはいはい。……それで、俺の荷物は」


「本当にわかっていますか? まったく。……準備済です。そろそろ下がりましょう、少しは休んでおかなくては」


 俺は肩を竦めてみせ、森の奥へと取って返して革命軍と合流する。


 ……森ってのには濃密な植物の匂いが満ち溢れ、獣が息を殺して様子を窺っている気配が常に肌に纏わり付く。


 鳴き交わす虫たちの音は時折、瞬きのあいだに静まり返ることがあり――そのたびに森の息遣いを感じるようだった。


 生きているとでもいうんだろうさ。


 蛆と羽虫ばかりの肥溜めではない世界ってのはこうも脈打つものなんだな。


「アガートラー、これが貴公の荷物です」


「ん? ……ああ」


 呆けていた俺はそこで差し出された革袋を受け取った。


 中には水筒、携帯食糧、オーク族を装った書状が入っている。


 書状には動物の皮が使われ、紅い蜜蝋みつろうで封が施されていた。


「アガートラー。私は貴公を信じています。必ず合流を」


 アルヴィアの冷めた蒼色の瞳は俺を真っ正面から見据えて、静かな光を浴びせかける。


 俺はふんと鼻を鳴らして目を逸らした。


「信じるなんて簡単に口にするな。いつかだまされるぞ? 自分のことを心配しろって話さ」


 信じるなんて言葉がどれほど薄っぺらいものか、俺はよく知っている。


 生き抜く戦場で誰かを信じるなんざ、狩ってくれと言うようなもんだからな。


 ……だってのに、アルヴィアは退かなかった。


「それでもアガートラー。私は貴公を信じます」


 ったく、目出度い脳味噌してやがるなこいつは。


「ハッ。『信じろ』なんて言うのは相手を欺すときだけだ」


 俺は大きく肩を竦めて手近な場所で地面に腰を下ろし、木の幹に背を預けて目を閉じる。


 息を潜める革命軍の気配のなかで、神経は研ぎ澄まされるばかりだった。


******


「『俺はオーク族のアガートラー! オーク、俺を自由にする約束、した。アガートだ』」


 翌日、朝。


 ゴブリンの巣の入口には一部に穴が空いた木の扉が聳えていた。


 本来外壁が守りを固めていたんだろうが、これじゃ扉にも意味があるのか怪しいな。


 わざとたどたどしいオーク語で言ってのけた俺に、門番らしきゴブリンは手にした棍棒をこっちに向けたまま困惑したようにキョロキョロとあたりを見回した。


 残念なことにオークはおろか、ほかのゴブリンどもの姿さえない。


「『書状、ここ。見ろ。俺、ひとり来た』」


 俺がひらひらと書状を振り回すと、ゴブリン族は腹をくくったのかおそるおそる近寄ってくる。


 このまま狩ってやりたいところだがアルヴィアにどやされるのは面倒だ。


 黄色く濁った大きな眼、毛のない肌はくすんだ緑色。


 俺たち人族の半分くらいの背丈しかなく、纏った服もぼろ切れ同然。


 裂けたように見える口を開けばギザギザした黄色っぽい歯がずらりと並ぶ。


『――オレ、聞いてない』


 ゴブリンはオーク語で返してくるが……こいつらはそもそも普通にこの言葉を使うのか? ゴブリン語なんてのは聞いたことがない。


 俺はとにかく書状を前に突き出し様子を窺った。


 万が一読めないとなったらこいつを○△※×する必要があるかもしれないからな。


 ……さて、革命軍が用意した文章はこうだ。


『この者はオーク族のアガートラー。ゴブリン族のアガートに参加させろ。大々的に宣伝して客を呼び込め』


 ――で、だ。これを読んだときに俺は鼻を鳴らしたが……当然ってもんさ。


 普通に考えて『隷属』がたったひとりで馬鹿みたいにアガートを申し込みにくるか? 最初はなからどこへなりとも逃げちまえばいいってのに。


 これを考えた奴は『隷属』のことなんざ知らないってことだろうが、それなら利用してやろうじゃないか。


 だから俺は自由になるためにやってきた『馬鹿なアガートラー』を演じることに決め、書状にこう付け足したのさ。


『客人として扱い希望を持たせ、アガートで絶望に叩き落とせ。そうすればゴブリン族に褒美を出す』


 少なくともあのクソオークどもは経験上そういう奴だし、ゴブリン族ってのもそれを信じちまうくらいには大馬鹿だ。


 俺はまだ煮え切らない態度のゴブリンに身を乗り出す勢いで再度書状を突き出した。


「『オーク、俺に言った。ゴブリン族のアガートで勝つ、俺、自由になる』」


『ちょっと待て』


 ゴブリンはようやく俺から書状を受け取ると封を開け、中身に目を通す。


 ぎょろりとした眼が書状の表面を舐めるように見詰め、その顔が醜く歪んでいくさまに俺は内心ほくそ笑んだ。


 よしよし。思ったとおりこいつらが馬鹿で助かったってもんさ。


 この町を見るかぎり、ただの愚者の集まり。


 オーク族とゴブリン族の関係をずっと見てきたが、こいつらもあの豚面どもにいいように使われてきたんだろう。


『いいだろうアガートラー! こっち、案内する!』


 醜悪な笑みを浮かべるゴブリンは警戒もせずに背中を俺に向けると、小さな歩幅で弾むようにちょこちょこと歩き出す。


 ――さぁて、こっからがお楽しみだ。


 俺はゆっくりと唇を湿らせて右足を大きく踏み出した。


******


 案内されたのは町の中央付近と思われる石の建物……アガートの戦場だ。


 ゴブリンの巣の建物は殆どが切り出した石造りで、なるほど、適当な手入れだろうと形を保っているのも頷ける。


 オーク族の町で石材を運んでいた隷属たちもいたことを思い出し、俺は小さく鼻を鳴らした。


 まだ見当たらないがここにも隷属がいるはずだ。


 助けるのは俺の仕事じゃないが、革命軍――いや、アルヴィアは放っておかないだろうさ。


 俺は不思議そうに俺を見詰める数多くの眼を見ないようにして歩く。


 先導するゴブリン族が問い掛けてくる奴らに書状を見せては甲高い声で笑うのがこの上なく不愉快だが、ここは我慢するしかない。


 そうこうしているうちに何匹かのゴブリンが集まってきて俺の収容場所について話しているようだったが……やがて広くはないが狭くもない部屋に通された。


『ここ、お前の部屋。客人、ゆっくり過ごせ。ただし建物出る、駄目。アガート、ここで行われる』


 俺はそれにへらへらと笑ってみせる。


「『わかった。戦場確認はしてもいいか』」


『勿論だ、客人。お前の試合、王も見るだろう。数日以内、開催する』


「『ハッ、そりゃ――――素晴らしい、俺、勝つ』」


 おっと。思わず貶しちまうとこだった。


 俺が大きく頷くとゴブリンはさも楽しみだと言いたげな顔で双眸を細めてクケケと笑う。


『腹が減ったら、飯、やる。そのへんのゴブリン、お前の世話すする』


「『わかった』」


 ふん。飯も出るとは好待遇だな。


 オークのクソどものほうが力関係は上ってことは確かだ。


 俺はゴブリンが出ていくのを見送って扉を閉め、まずは部屋の内部を確認して回った。


 ベッドらしきものにはボロボロで埃まみれの布団がある。


 ……石の上で眠ってきた俺にとっちゃ、これほどの寝具が与えられるってのは贅沢ってもんさ。


 あとは小さな丸いテーブルと椅子。


 窓は三つ並んでいるが俺の体は通らない大きさ。この向こう側にゴブリンがいても中は見えない位置だ。


 填まっているガラスは雨粒や土埃で酷く汚れている。


 扉に鍵はなく、いつでも出入りできる状況なことを確認して……俺はまずアガートの行われる建物の地図を頭のなかで描き出した。


 この部屋は一階の西端。


 アガートの戦場は巨大な円形で、それを囲む形で建物が建てられている。


 下水道と繋がる扉は建物の北側、階段を下りた先だ。


 地下にも通路があったが――アガートラーがいるとしたらそこだろうな。


 王のいる城はこの建物からは離れている。


 アガートに合わせてやっちまうのが一番いいように思うが、さてゴブリンどもはどうするか。


「よし。さっさと行くか」


 俺はすぐに扉を開け、誰もいない廊下の北へと進路を取った。


 弧を描く廊下は埃の積もった絵画で飾られ、松明に灯された炎が揺れている。


 鼻を突くのは松明のやにの臭いか。


 この絵は……たぶん魔族にやられる前のものだろう。


 そこで俺は前方から小走りにやってくるゴブリンと鉢合わせした。


 衛兵なのかもしれないな、持っているのは細身のダガーだ。


 一瞬だけ身構えたゴブリンはすぐに俺が『オーク族のアガートラー』だとわかったらしい。


『クカ、どこ行く、アガートラー!』


「『戦場、見にいく。場所、知りたい』」


『そうかそうか! ここ、真っ直ぐ。途中、左に入る、地下一階。その正面、今度は上がる』


「『わかった』」


 ハッ、楽でいいってもんさ。


 俺はさっさと移動して地下に入り、さらに階段を『下りた』。


 ――しかし。


「……やってくれるな」


 その先にあるはずの『扉』がない。


 俺は舌打ちしてあたりを見回した。


 本来なら階段の下、正面に下水道への入口があるはずだ。


 だが俺の正面はどうだ? 石の壁があるだけさ!


 クソッ、誰だよでたらめな地図を寄越したのは!


 思い浮かんだのは斥候部隊を率いていた星のひとり……汚ねぇ策を講じたバリスだが――さすがに革命軍を危うくするようなことはしないか?


 俺は石の壁に手を触れ、あたりに誰もいないのを確認して叩いた。


 コッ……


 向こう側は空洞か。ほかの場所も叩いてみたが音が違う。


 下水道への入口を埋めたってことか?


 暗い通路には殆ど灯りはない。


 しかしなにかが息づいているような気がして、俺は鼻を鳴らした。


 アルヴィアたちがここに到着するのはおそらくもうしばらくあとだ。


 俺が扉を開けられなかった場合には翌日の夜に爆破される手筈だからな――問答無用で決行されるに違いない。


 まぁいい。あくまでそこからが本番だ。


 壁を蹴飛ばしたくなるのを堪え、俺は地下二階をぐるりと歩くことにした。


 オークどもの町と同じような造りになっているなら、ここにいるのはアガートラーのはずだからな。


 その面を拝んでおくのも悪くはないってもんさ。



 ――しかし。



 固く閉ざされた扉の覗き窓を開けた俺は顔を顰めた。


 人族ですらない魔物の影が……暗い部屋の隅に身を寄せ、闇に溶け込むようにしてじっと俺を見ている。


 覗き窓からむっと溢れ出す獣臭と糞尿の臭いのなか、狼のようにも見えるそいつらは紅く光る瞳を爛々と煌めかせているが、唸り声ひとつ立てることはない。


「なんだ……こりゃあ」


 隣り合う部屋にはすべて魔物の影。


 人族はどこにもいない。


 ――オークどもも魔物を使うことがあったが、こんなに大量じゃあなかった。


 束になって放たれたとしたらどこまで戦えるか――。


 俺はいくつめかの覗き窓を閉め、ふと耳を澄ます。


「いやだ、いやだ、助けてくれ!」


 それは絶望の淵に立つ人族のそれ。


 恐怖が声を裏返らせ、冷静さは欠いているのがわかる。


『うるさい、お前、餌! 餌は黙れ!』


 次いで聞こえるのはゴブリン族の声か――どうやらこの階に下りてくるらしいな。


「やめてくれ、働くから! もう逆らわないから!」


『お前、ゴブリン馬鹿にした! 償え!』


「やめてくれ――!」


 なにかが引き摺られる音。


 俺は壁にぴたりと身を寄せ、階段を窺った。


 やがて現れたのは三匹のゴブリンと――縛られて転がされる若い男。


 体は細くとても戦えるようには見えないが……ゴブリンに盾突いたのは想像に難くない。


 ハッ、死に急ぐ必要なんてなかったろうに。馬鹿な奴もいたもんさ!


 ジャラジャラと金属を鳴らしたゴブリンはクケケと笑うと腰を抜かした男を蹴飛ばした。


『お前、餌! ジャグロ、お前喰う!』


 俺はそれを見て思わずほくそ笑む。


 はーん、あのジャラジャラいってんのはここの鍵だな?


 ジャグロってのが飼われている魔物ってわけだ。


 それなら俺がやることはひとつだろ。


「『ゴブリン、俺も交ぜてくれ、ジャグロ、見てみたい』」


 俺はひらひらと両手を振って声をかけた。


 ぎょっとして飛び離れたゴブリンどもは俺を見ると眉を寄せる。


『お前、なにしてる?』


「『見学さ! アガートの相手、いるかもしれない。俺、歩くこと、許された』」


「ちょっと待て――なに言ってるんだあんた! 人族だろ⁉ た、助けてくれ、助けてくれ!」


「うるせぇぞ馬鹿が。黙ってろ」


 俺は吐き捨ててゆっくりと歩み寄る。


「『いいだろ。ジャグロ、見せてくれ』」


 ゴブリンどもは顔を見合わせると再びクケケと笑った。


 まなじりを下げた気持ちの悪い笑みは不愉快だが、これからの高揚感を思えば我慢もするってもんさ。


『いいだろう! こいつ、これから餌! ジャグロ、餌を喰う!』


「やっ、嫌だ! 放せ、放せぇっ! くそ、人でなしめ! 魔物め! お前なんか――」


 ったくうるさい奴だな。自分で選んだんだろうが。


 俺はじろりと男を見下して腕を組む。


 そのあいだに三匹のゴブリン族はひとりが持つジャラジャラと鳴る金属の輪を――あらゆる形の鍵が輪に通されていくつもぶら下がっている――揺らした。


『さあ、開ける! 開けたらジャグロ出る。お前、よく見ておけ!』


「ああぁあーっあぁわあぁ――!」


 そこからひとつ選び出された鍵に男がめちゃくちゃな言葉で泣き喚く。


 ばたばたと足を鳴らし、後ろ手に縛られた手をどうにかしようと身を捩るさまは滑稽だな。


「そんなに嫌なら最初はなから反抗なんかするな。死にたくないなら尚更だろうが」


 ……俺はゴブリンが扉を開けようと背を向けた瞬間、するりと踏み出す。



『ギャッ――!』



 ハッ! なにが起きたかなんてわからなかったろうさ!


 左手の短剣で一番手前の奴の首を。右手の長剣で別のやつの背中を突き通し、最後の一匹が振り返って目を瞠る瞬間には左右の剣を斬り払い、一気に振り抜いた。


 激しく脈打つ血液は熱を帯び、滾る気持ちが体中を駆け抜ける。


 これだよ、この感覚だ。


 甘美な痺れのような濃厚な高揚感。


 俺は歓喜に叫びたくなるのを堪えてゆるりと体勢を整える。


 まだだ。こんなもんじゃ足りないってもんさ!


「あ、わ……ッ! ひ…………ッッ!」


 見ていた男は声にならない悲鳴とともに失禁しガクガクと震え出したが知ったことじゃない。


 俺は男を無視して倒れたゴブリンの服で剣を拭って鞘に収め、鍵束を拾い上げた。


 ――たしかこの鍵か。


 扉に差し込めばがちゃりと手応えがあり、俺は息絶えたゴブリンどもを乱暴に掴んで中に放り込んだ。


 涎を零した魔物が飛び付くのを確認して扉を閉め、しっかりと鍵も掛けてしまう。


「……さてと。おいあんた、ここの隷属か?」


「あ、ああ……ひは……うう」


「……はぁ。落ち着け。別に取って喰ったりしないさ。死なずに済んだんだ、少しは感謝してくれてもいいぞ」


 俺はがしがしと頭を掻いてから男に歩み寄るとその縄を切ってやる。


「あ、あんた……いったい……」


 男は怯えたように身を丸め、歯をガチガチと鳴らして後退った。


「俺か? 俺は……そうだな、革命軍のアガートラーってとこか」


「か、革命軍……?」


「……にしても――助けたはいいが面倒なことしちまったな。そもそもあんたを匿う場所がない。……いや待てよ……」


 俺は説明もそこそこに手にした鍵を持ち上げて少し考えた。


******


『お前のアガート、明日になった』


 気分よく部屋に戻って堂々と昼寝していた俺に、やってきたゴブリンは突然告げた。


「『明日? そんなすぐにか?』」


 ベッドから上半身を起こし聞き返すとゴブリンはクケケと笑って手をぱんぱんと叩き合わせる。


『そう、明日! ゴブリン王、早い開催望んだ! 喜べ』


 ……ふん、なるほどな。


 早いところオーク族からの褒美が欲しいってことだろうさ。


「『わかった』」


 俺はゴブリンが出ていったのを確認して水筒から水を飲み、口元を拭う。


 ――アルヴィアが動くのは明日の夜。つまりアガートが先ってこった。


 ち、失敗したな。


 あいつには書状に付け加えた文について一切説明していないし、そもそもここまで早い開催は予想していなかったからな……。


 まあいい。いっそ本気でゴブリン王を仕留めちまうってのもありだろうさ。


 とりあえず成り行きで助けちまった男はジャグロって魔物を一匹倒し、その部屋に隠れさせた。


 アルヴィアたちが下水道から入ってくりゃ、あいつをなんとかするはずだ。伝言でも頼んどけばいいだろう。


 ……俺は再びベッドに転がり、石の天井を見上げながら深く息を吸う。


 アガート。血と汗と泥にまみれた命懸けの娯楽。


 再びあの戦場に立つ日がこうも早く来るってのは俺の運命みたいなもんかもな。


 気付けば微かに指先が震え、俺は舌打ちをして拳を固く握り締めた。


 死にたくないなら逃げりゃいい。それはわかっている。



 あとは生きるだけ――生き抜くだけだ。



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