愚者の楽園-ディストピア-

愚者の楽園-ディストピア-①

「『アガートラー』……どこです、『アガートラー』!」


 はあ……。けたたましい鐘みたいな女だな。


 俺は両手で耳を塞ぎ、補給品の間に胡坐を掻いた。


 ところがだ。


「――まったく。せっかく甲冑が融通できたというのにどこに逃げたのでしょう」


 よりにもよってそのテントの真ん前で足を止めたらしいアルヴィアのため息が手のひらを抜けて耳朶を打つ。


 ――クソ。逃げたくなるってもんさ!


 なんだよ甲冑って。


 俺にお伽話の騎士様の真似しろってか? ふざけんな。


 思わず鼻を鳴らすと金属の擦れる音がした。


 慌てて耳から鼻へと手を移したが――遅い。


「……そこですね?」


 アルヴィアがばさりとテントの入口を跳ね上げる。


 まだ上りきっていないはずの日の光を白銀の鎧が散らし、俺は瞼を瞬いた。


「こんなところに逃げ込んで……補給品は生命線ですよアガートラー。なにかあったら大問題ですからね」


 腰に両手を当て、甲冑姿の女性騎士様は呆れたようにこぼす。


 兜はしておらず、豊かな艶を持つ銀の髪が柔らかな風に僅かに揺らぐ。


 俺は両手を上げつつ、もう一度鼻を鳴らしてやった。


「何度も言っただろ。俺に甲冑は必要ない。そんな重そうなもん着てたらいい的だ」


「そんなに重くはないですよ? これはエルフ族が特別な魔法を施した素晴らしい甲冑なのですから。着てみたら貴公にも伝わるはずです! 関節にもしっくりくる精巧な作りと羽根のような軽さはまるで我が身の一部……」


 こいつ甲冑愛好家かなにかか?


「……おい。そんなことより俺たちはいつ出発する? 俺は早く魔族をぶった斬りたいだけだ」


 深く息を吐き出した俺に、アルヴィアは艶のある豊かな銀髪を揺らして微笑んだ。


「甲冑を着ながらでしたら説明してあげます。それと……その無精髭はきちんと剃るように言ったはずですよ? アガートラー」


「…………」


******


 オーク族の肥溜めを征圧して早三日。


 つまり俺が隷属から解放されて『自由』とやらを手に入れてから三日。


 俺たちはいまだに制圧した町の外――そこに展開された革命軍の拠点にいた。


 引っ切りなしに誰かしらが駆け回ってんのは見かけるし、どうも偉い奴らは夜な夜な集まっているみたいだからな。


 なにも進んでいないわけじゃないってのはわかるが……俺は部外者。厄介者やっかいもの扱いってわけさ。


 なにが起きているのかはアルヴィアから聞くしかない。


 騎士たちが使うテントの中、俺はもうひとりの甲冑――でかいから男だろう――の手解きを受けながら甲冑を着ようとしていた。


「斥候はすでに放ってあります。時間との勝負なのは確かですから、近々私たちも出発することになるでしょう」


 テントの外からアルヴィアの声が聞こえる。


 俺は胴鎧を胸元に当て、革ベルトで調整しながら考えた。


 オーク族の町と隣り合っていたのはゴブリン族の町ともうひとつ――リザード族の町だったか。


 オークどもが話していたのを聞いたことがある。


 アルヴィアはゴブリン族の『アガートラー』として乗り込んできたわけだから、ゴブリン族の町はとうに征圧しているんだろう。


「次はリザード族か?」


 聞くと……アルヴィアが息を詰め、声を落とした。


「いいえ。すぐにわかるでしょうから先に伝えます。ゴブリン族の町です」


「あぁ? まだ落としてないなら……お前どうやって『アガート』に紛れやがったんだ?」


「綿密な計画と準備をして、ですよ。……とにかく『アガートラー』、貴公の腕は理解しているつもりですが、私と動くのであれば少し――」


「これはこれはアルヴィア。こんなところにいるとは思わなかった。なにをしている?」


 その瞬間、誰かが話に割って入った。


 この三日で一度も聞いた覚えのない鼻につく声に、俺は知らず顔を顰める。


 また面倒臭そうな奴がきた――俺の鼻がそう告げていたからな。


「バリス……こちらのテントまで出向いてくるとは珍しいですね」


「君に新しい従者が付いたと聞いて興味があってな」


「従者――?」


 訝しげなアルヴィアの声に俺は盛大に「ハン」と鼻を鳴らす。


 声と名前からして男。しかも少なからず嫌味の塊らしい。


 従者ね。隷属よりはマシってもんさ。


 ――そんな俺の鼻息が聞こえたのかバリスがわざとらしい忍び笑いを洩らした。


「ふふ……そうだ。我が斥候部隊にも『アガートラー』がひとり配属される――果たして『アガートラー』とはどんな手練れだろうな。君の従者が気に掛かるのも無理はないだろう?」


 俺は籠手を嵌めながらじっくりと耳を澄ませる。


 へえ、俺以外にも『革命軍』とやらに志願した奴がいたってのは初耳だ。


「バリスの部隊にアガートラーが? ――私は聞いていません」


「当然だろうな。先程この私の下へとやってきて直談判した年端もいかない子供だ――多少の無礼は目を瞑ってやった」


「――子供?」


 聞き返すアルヴィアに、俺はふぅんと頷いた。


 年端もいかない子供なんてのはアガートラーにひとりだけだ。


 俺がハイオークを屠ったそのとき、冷静さを欠いて攻撃を仕掛けようとした奴のことだろうさ。


 だけどあいつが斥候だって? 馬鹿か。


 そんなに命を散らしたいならほかでやってくれ。


「待ってくださいバリス。まさかその子供を斥候部隊に採用すると?」


「そのつもりだ。君の従者は採用され、ほかの者は採用しない――こんな不公平は許されないだろう?」


「……バリス。そもそも彼は私の従者などではありません。肩を並べて戦う仲間であり、彼の実力は私が保証できる――けれどその子供はどうです? どうやって評価を?」


 おそらく前のめりになったであろうアルヴィアの鎧が、ギ……と苦しそうな音を立てる。


 俺はわしりと兜を掴んで手伝ってくれた甲冑の肩にぽんと――実際はすさまじく耳に残るガチャンという音がした――手を置くとテントを出た。


「やめとけ、あんなガキ連れていっても役にも立たないってもんさ」


「!」


 アルヴィアがぎょっとしたように冷めた蒼い瞳を見開くが――知ったことか。


 俺に背中を向けていた男――バリスが右足を引いて半身をこちらに向ける。


 真っ直ぐでサラサラした女みたいな髪は銀、瞳は冷めた蒼。


 アルヴィアと似たような色だ。


 柔らかい表情だが……ハッ、ありゃ作り笑いだな。


 敵意――いや、殺気に近い嫌な色の灯火が目の奥に揺らめいていた。


 こいつも兜なしの甲冑だが背丈は俺よりかなり高い。


 年齢は俺と同じか――下手すりゃ年下だ。


「――やあ、君が従者のアガートラーか」


「ハッ、嫌味のつもりならやめとけ。俺たちアガートラーは隷属だった――従者なんて素晴らしい昇格じゃないか! ま、俺はまっぴら御免だけどな」


 俺は右手に兜を掴んだまま、左手を右肩に置いて首を鳴らす。


 ――ち、なにがそんなに重くないだよアルヴィアの奴。


 こんなに動きが阻害されるってのは落ち着かない……まるで拘束されたみたいだ。


 じろりと不満の視線を送ると、アルヴィアははっと目をみはり首を縦に大きく振った。


「バリス。彼への失礼な言動は私が許しません!」


 ――いや、そうじゃないっての……ったくどいつもこいつも面倒だな。


 そのあいだもバリスは上から下まで俺を眺め倒し、その薄い唇をゆっくりと開いた。


「ふん、失礼だって? これは進言だアルヴィア。こいつの顔を美しいと言う奴がいるから来てみれば……なんだその汚い髭は」


「……はぁ? なに言ってんだ、あんた」


「……鳶色とびいろの髪に飴色あめいろの瞳……実に美しくない。アルヴィア。君の隣にこのような輩は必要か? 星の傍にどこの馬の骨とも言えぬ男――そもそも革命軍に相応しいだろうか?」


「バリス!」


 目を剥いたアルヴィアが非難の声を上げる。


 ――が、俺は呆れて言葉も出なかった。


 なんだこいつ。星の傍に俺がいるのが気に入らないってのか?


 それにこんな短い髭っぽっちで汚いだって? ――どんだけ潔癖だって話さ。


 こちとら肥溜めでクソみたいな生活をしてきたからな、理解できそうにない。


 まあいい……それなら望みどおりにしてやろうじゃないか。


 俺はがしゃりと音を立てて左足に重心を乗せ、左手を腰に当てた。


「あー、いやいや。わかったバリス。あんたは星の評価を落としたくないってことか?」


「ほう。物わかりはいいようだ」


「じゃあお前んとこでも構わないさ。そっちに俺を置いてくれよ。そのかわり子供のアガートラーはエルフ族と築いた町とやらに送れ、邪魔だ」


「……ッ!」


 その瞬間、バリスは顔中に皺を寄せたような形相で俺を睨んだ。


 なんだよ、いい提案だと思うが。


 俺が首を傾げると、いきなりアルヴィアが噴き出した。


「ぶはっ、あはっ、ふふ!」


「ああ? なんだよアルヴィア……」


「い、いえ……アガートラー、ば、バリスは星のひとりなのです……! だから移動しても……ぶ、あははっ」


「は? ……なんだ、あんたも革命の星とかいうやつか」


 そういやアルヴィアも『私は星のひとり』とか言ってたかもしれない。


 バリスを見ると……おーおー、真っ赤になってやがる。


 そんなに怒るようなことでもないだろうに。


「馬鹿にしているだろう⁉ お前なぞいらん! アルヴィア、軍議でこの件は報告させてもらう!」


「――バリス。そのときは貴公のその無礼な言葉も報告させてもらいます」


「……ッ!」


 バリスは肩を怒らせ無言で踵を返すと俺を突き飛ばすようにして去っていく。


 甲冑が金切り声みたいな音を立てるのはイラッとするが……俺は遠ざかる背中を見送りながら考えを巡らせた。


 なんだありゃ。まるでオークどものクソみたいな考え方してやがるな。


「……おいアルヴィア、星にあんな奴がいるのはどうなんだ?」


 俺が左手に兜を持ち替え右手で頭を掻くと、星のひとりである彼女は肩に掛かった髪を優雅に掻き上げた。


「気にせずとも構いません。彼は――自分の容姿に絶対の自信を持っているのです。だから貴公の容姿に嫉妬しただけですよ」


「……⁉ 容姿……だと……?」


 驚愕に目を丸くした俺に、アルヴィアは慈愛すら感じさせる笑みを浮かべる。


「腕は立つのでバリスのことは心配ありません。まさか自分の仕事を放棄するようなこともないはずです。それよりも私は感動しましたよアガートラー!」


「……あ?」


「自分の異動を申し出ることで少年のアガートラーを戦場から遠ざけようとする心意気。心配したのですね――賞賛に値します」


「……は? そんなわけないだろ。俺は魔族を相手にできるならそれでいいんだよ」


「ふふ、わかっていますよアガートラー!」


 ……こいつ、わかってないな絶対に。


 俺は肩を落として空を見上げた。


 太陽が眼を刺すような光を放ち、壁に囲まれていない空がずっと先まで――それこそ見えなくなるほど先まで続いていると思うといまも変な感じだ。


 これだけ広い空を見ていれば心もでかくなるってもんじゃないのか?


 俺みたいな隷属を手厚い待遇で受け入れる革命軍なんてのも、そういう奴らの集まり――そんな気がしていたのは改める必要があるな。


 理由がどこにあろうと、バリスの纏う空気と目の奥底に宿る暗く残忍な灯火……あれは酷いもんだ。


「アルヴィア」


「……なんですか?」


「バリスのあの目はオークどもと同じ――誰かを見下す目だぞ。壁の内側に閉じ込められもせず、こんなに広い空の下にいたのに――星とやらはなにを見てきたんだ?」


「え……?」


「まあいい、俺の知ったことじゃないさ。さっさと話の続きだ」


 世界とやらは俺が思う以上に広いんだろう。


 そう思えば、あんな人間がいるってのもまた『自由』とやらか。


 俺の目的は憎い魔族を狩ること。あいつらをこの手で屠れるならどんな場所でも構わない。


 ハイオークの息の根を止めたときの高揚感を思い出せば心の底から滾るってもんさ。


 しかしそんな俺の考えをアルヴィアは真摯な表情で受け止め――おかしなことを言った。


「……わかりました。では訓練しながらお話しましょう」


「……あ? 訓練だ?」


 俺が反芻すると、彼女は微笑む。


「はい。その甲冑を試してもらわねばなりません!」


******


「アガートラー、そのような動きではすぐにやられてしまいますよ!」


 アルヴィアの兜の下からくぐもった声が聞こえてくる。


 俺はその声すら遠く感じる自分の兜の内側で舌打ちをした。


 クソ、視界も悪けりゃ音まで通さねぇってか?


 誰だよこんな装備考えた奴は!


 しかも与えられたのはアルヴィアと同じ両手剣。


 俺は右手に長剣、左手に短剣を持つ戦い方に命を賭けてきたんだ、そっちでやらせろって話さ。


「ッふ!」


 短い息とともに振りかぶられたアルヴィアの剣は兜越しに視界から消え、咄嗟に後ろに跳んだ俺の目の前に再び現れ振り下ろされる。


 そこを狙って両手剣を突き出すと、アルヴィアは右足と一緒に己の剣を引きながら俺の剣を弾き上げ、腰を深く落として俺の左側から横薙ぎに振るう。


 ギィンッ


「……ちっ」


 膝を突いて腕を捻りながら体に寄せた俺の剣は彼女の剣を受け止めたが――くぐもった笑い声が僅かに弾けたのが耳に触れ、俺は瞬時に剣を頭上に掲げた。


 ガァンッ!


 間髪入れずにビリビリッと痺れが上腕を駆け抜けるがこのままじゃまずい。


 俺は振り下ろされた剣を押し返しながら立ち上がる。


「ハッ、やってくれる」


「仕留める予定でしたが、ふふ、やはり貴公は強い」


「甲冑がなけりゃあんたの速さに引けはとらないかもな。ついでにこんな剣じゃなけりゃなおよしだ!」


 俺は鬩ぎ合う剣をそのままに一歩踏み込んで、そのまま額を――正確には兜をガツンと突き合わせ、真っ向からアルヴィアの冷めた蒼い瞳を覗き込む。


「それで、これはなんの見世物だ?」


 開けた場所で剣を交えていた俺たちの周りにはいつの間にか人が集まっていた。


 正直兜のせいで周りが見えていなかったってのは俺の落ち度だが……慣れているアルヴィアの奴はわかってやっていたに違いない。


 アルヴィアは兜の向こう側で瞳を一度だけ瞬き、真剣な声で囁いた。


「――すみませんアガートラー。貴公の実力を皆に見せ認めさせる必要がありました。バリスのような物言いをされる所以は貴公にないというのに」


 俺はその言葉に耳を疑った。


「ハッ、俺が気にすると思ってんのか? あんなのオークどもの臭い息に比べりゃまだ綺麗ってもんさ」


「その例えもどうかと思いますが……少なくともアガートラー、私が気分を害したのは間違いありませんから」 


 きっぱり言ってのけると、アルヴィアは剣を下ろして構えを解く。


 俺がそれに倣うと、彼女はそのまま三歩離れて体の前に剣を掲げ直した。


「――私は貴公の革命軍参加を望みます。その強さは私たちに勝利をもたらすつるぎの一本となるでしょう」


 兜の下から響くのはくぐもった声だってのに――凛とした空気を感じるのはなんでなのか。


 太陽の光はアルヴィアの白銀の甲冑を流れちかちかと瞬く。


 俺は剣を右肩に掛けて左手を腰に当て、ため息をついた。


「ふん。望まれずとも留まるさ。俺は『アガートラー』――戦うしか能がないからな」


******


 好奇の目に晒されながら甲冑を着たのと同じテントに戻り、俺はあてがわれていた服に着替え直した。


 ついでに風呂で髭を剃れとアルヴィアにどやされたんで仕方なく従って、昼飯を作っている広場に移動。


 また芋ばかりかとぼやく騎士を横目に椀を受け取ると――今日もたっぷりの野菜がこれでもかってな具合に盛られていた。


 しかも見ろよこの湯気。


 豚どもの冷めた飯しか知らない俺からすりゃご馳走ってなもんさ。


「今日もこんなに食えるのか。革命軍ってのは贅沢だな! ありがたく食わせてもらうぞ」


 配膳していた恰幅のいい女性に言うと、彼女は驚いた顔をして二度頷いた。


 ぼやいた騎士はばつが悪そうにその場を離れ、代わりに俺の椀にはゴロリと肉が足される。


「……なんだ、俺が肉食ってもいいのか?」


 聞くと恰幅のいい女性は「勿論さ! 出汁を取ったものだけど美味しいはずだからね、綺麗なお兄さん」と笑う。


 綺麗ってのは納得いかないが……ありがたい。肉は力になるからな。


 配膳係だってこの恰幅だ、いいもんを食ってきたに違いないと考えながら俺はさっさと移動する。


 ここに来てから昼飯はアルヴィアと食っていたが、今日はほかの隷属たちと――いや、元隷属ってな感じか? ――一緒だった。


 爺さん婆さんから子供まで年齢も性別も様々だが、彼らは明日エルフ族と築いた町とやらに移動を開始するらしい。


 俺の要求どおり、彼らがひとりで立てるようになるまでは補助してくれる人間がつくとかって話で感謝されたが……感謝ってのはむず痒いってもんさ。


「別に、俺はアルヴィアの話が気に入らなかったたけだしな。気にすんな」


 食い終わった椀を地面に置きひらひら手を振れば皆これでもかってな具合に俺を褒めようとしてくる。


 俺はふんと鼻を鳴らして胡坐を掻いた膝に肘を載せ、頬杖を突いた。


「そういや子供のアガートラーがいないな? あいつどこだ」


 斥候として革命軍に参加したいとはよく言ったもんだが――なんのつもりだと聞いてやろうと思ったんだ。


「そういえば見てないね……俺も志願するとか言ってたけど」


 あいつと歳が近そうな娘が首を傾げると、ほかの奴らも口々に「威勢はいいが志願はまずいだろう」と言う。


「……ちっ、面倒なことになりそうだな。……まあいい。なんだ、その……あんたらも死に物狂いで生きろよ」


 俺は手から顎を上げて膝を叩き元隷属たちに言った。


「ああ。お前もな『アガートラー』」


 すると壮年の男が落ち着いた声で応え、ほかの奴らも一様に頷くんで……俺は胸が熱くなるのに戸惑って視線を逸らす。


 ハッ、柄でもないだろ。


「――じゃあな」


 再会を願う必要はない。俺たちには別れの言葉だけで十分だ。


 立ち上がった俺を、元隷属たちは止めなかった。


 ……俺たちには名前がない。


 だけどたぶん、あの肥溜めを生きたその記憶が――名前など呼ばずとも俺たちを繋いでいる。


 もう魔族どもに虐げられることはなく、アガートの駒に選ばれることもない。


 ――あいつらにはアルヴィアたちが約束を守れるかどうか証明してもらわないとならないってもんさ。


******


 午後になると拠点は急激に慌ただしさを増した。


 聞こえる話からすると出発の命令が出たらしい。


 ようやく戦えるのかと思うと背中がゾクゾクする。


 俺は逸る気持ちを抑えられずにアルヴィアのテントに向かった。


 ――しかし。


「おいアルヴィア!」


 ばさりとテントの入口を跳ね上げた俺の前――バリスがアルヴィアと睨み合っているじゃないか。


 おいおい、なんだこの状況は?


「……アガートラー」


「……またお前……!」


 横目で俺を見て呟こうとしたバリスは、しかし双眸を見開いて動きを止める。


 甲冑は着ているが兜はどちらもしていない。


 冷めた蒼色の瞳がいまにもこぼれ落ちそうだ。


「――なんだよ?」


 俺が腕を組むとバリスは肩を跳ねさせて首を振った。


「髭を剃ったからと言ってその鳶色とびいろの髪と飴色あめいろの瞳が美しくなるとは思わぬようにな!」


「はぁ? なに言ってんだあんた」


 本気で容姿とやらを理由に突っかかってきているならただの馬鹿だろ。


「……ふん。アルヴィア、この作戦はすでに決定された! 拒否は認めん!」


「ま、待ってくださいバリス!」


 眉を寄せて悲痛な声を上げるアルヴィアを無視し、バリスは俺を押し退けようと手を伸ばす。


 二度目はわざわざ受けてやる義理もないか。


 俺はひょいと身を躱し、大袈裟な動作で入口の布を上げてやった。


「お帰りか? そら、行けよ」


「……ッ」


 顎で外を指してやると、バリスは額に血管を浮き上がらせて真っ赤な顔になる。


 こんなにわかりやすく顔に出したら隷属としてはすぐにやられていただろうが――これも自由とやらが関係してんのかもな。


 しかし手を上げないだけの理性はあったらしい。


 バリスは俺を刺すような瞳で睨み付けガシャガシャと耳に残る音を響かせながら去っていった。


 俺としては殴られてから一発返してやるってのもいいと思ったんだが、残念だ。


「……それで? その作戦とやらはどんな内容だ?」


 布を下ろして奥へと踏み入ると、アルヴィアは難しい顔でテーブル代わりの木箱に視線を落とした。


 小さなテントにはその木箱以外に寝袋だけしかない。


 お世辞にも綺麗とは言い難いが、俺がいた牢獄に比べたら風通しは十二分にいいってもんさ。


 あの鼻が曲がるような臭いも固く冷たい湿った壁もここにはないんだからな。


 黙って待っているとアルヴィアは木箱の上にあった二枚の紙を右手で乱暴に掴んで俺に翳した。


「斥候をゴブリン族の城に侵入させゴブリン王を暗殺する作戦です……! しかもオーク族のアガートラーとして潜り込むつもりだと――有り得ません。アガートに潜り込む作戦は綿密な計画と準備があったからできたこと。――ゴブリンたちは少数であれば己の命をなにより優先するような魔物ですが、集まれば数を過信し突き進む愚か者です。混乱させればいいとしても……危険すぎます……!」


 俺はその紙切れをしげしげと眺めてからすっかり髭がなくなった顎を擦った。


 一枚はなにが書いてあるのかさっぱりだが――こっちはわかるな。わかるんだが……こりゃなんだ?


「なになに。『ゴブリン、狩る、こいつアガート、願いをきけば』?」


「え……?」


 瞬間、肩を怒らせていたアルヴィアはきょとんと目を瞬いた。


 何度読んでもそう書いてあるんだから仕方ないって話さ。そうだろ?


「なんだこりゃ? さっぱり意味がわからないが」


「あ、アガートラー……貴公、これが読めるのですか?」


 アルヴィアは己の手が掴んでいる紙を自分のほうに向け、俺と紙のあいだに何度も視線を巡らせる。


 ……はーん。なるほど。


 それを見て俺は『自分が読めることの意味』を悟った。


「そういうことか。これはオークのクソどもの文字ってことだな? つまりそっちのが『人族』の文字か――なんて書いてある?」


 聞くと、アルヴィアは慌てたように紙切れに目を向けた。


「え? あ、はい。オークからの書簡と見せかけた偽装文書を持ち潜入。その後は速やかに城へと向かい王を暗殺せよ。潜入後の援軍は望めないために細心の注意を払って任務に当たるようにと。地図も手配済みのようですが、さすがに携帯させはしないようです」


「……」


 命を賭けた汗と血と汚泥まみれの娯楽。


 思い出したアガートの戦場にはいつもゴミのように魔族どもがひしめいていた。


 いつ自分が死ぬかもわからないあの場所では常に緊張と偽りと痛みが共存し、恐怖が場を支配する。


 あの戦場に助けもなく放り込まれて恐怖に抗い、抜け出して王を暗殺とはよく言ったもんさ。


 アルヴィアのように内部から合図を送って、潜ませていたほかの兵を一気に突入させるならまだしも、だ。


「それを考えたのはバリスか。――潜入するのは誰だ?」


 自分でも驚くほど冷めた声がこぼれ落ちた。


「――それが、その……」


 言い淀むアルヴィアに俺は舌打ちして踵を返す。


 その反応は答え以外のなんでもない。


「あ、アガートラー……」


「――行くのはあの子供のアガートラーか。ちっ、使い物にならないってあれほど教えてやったってのに。星ってのはそこまで馬鹿なのか? それともただの『囮』に使うってのか? ――ハッ、笑えねぇ冗談だ」


 結局、俺たちは『隷属』のままってことさ。


 ……いや、自分で志願したんならそれは『自由』とやらか?


 俺はテントの入口を跳ね上げ、人が行き交うあいだをすり抜けてバリスを追った。


 アルヴィアが俺を止めようとした気がするが知ったこっちゃない。


 ――まだそう遠くへは行っていないはずだ。


 俺がこの三日で初めてバリスを見たのが今日ってことは、まだ行っていない方向に斥候のテントがあるんだろう。


 駆け抜ける俺にかまう奴はひとりもいない。


 ここではそれぞれが自分のやりたいこと、やるべきことを自分の意志でやっているんだと――そう思う。


 だけどな。それが無謀だとわかって退くこと、逃げること、とにかく生き抜くことを考えられる奴はどれほどだ?


 考えていると目当ての背中はすぐに見つかった。


「おいバリス」


 一気に距離を詰めて右手でその左肩を掴むと、振り向きざまに撥ね除けられる。


 銀の髪がぱっと揺れ、冷めた蒼色の瞳が怒りに燃え上がった。


「――お前如きが軽々しく俺に触るな」


「ゴブリンの巣に子供を送るそうじゃないか。その役、俺に代えろよ」


「なに?」


「あいつじゃ潜入してから抜け出すなんて無理だって言ってるんだよ。それになんだ? あのオーク語は。めちゃくちゃな文だってこともわからないんだろ?」


「ほう。お前あの文が読めるのか? クク、似合いの特技だな」


「あーはいはい。『このクソが、肥溜めで○×△※しちまえ』」


 オーク語で悪態をついてやって、俺はふんと鼻を鳴らした。


 バリスは一瞬眉をひそめたが、悪口だってのは理解できたらしい。


 みるみるうちに顔を赤くする。


 そう、その調子だ。盛大に怒ってくれてかまわない。


「はーん。悪口だってのは通じるんだな。あんたには似合いの特技だ・・・・・・・


「お前――痛めつけられたいのか⁉」


「よしきた! 受けて立つ! あんたらのやり方じゃ模擬戦ってのがあるんだろう? 俺が勝ったらゴブリンの巣に俺を送れ」


 まったくもって扱いやすいってもんさ。


 俺は目を瞠るバリスに向けてにやりと笑ってやった。


 ――しかし。


 バリスは顔を真っ赤にしたままとんでもないことを言いやがったんだ。


「その言葉、後悔するがいい。さっさと甲冑を着てこい。斥候の陣地で待っているぞ!」


 おい、待て。――甲冑?


「いやいやいや。俺は別に甲冑なんて着なくていいぞ。いますぐやろう」


「その手には乗らん。鎧を着ていないものを再起不能にしてはこの俺の名折れ――それを狙っているんだろう?」


「いやお前馬鹿か? 俺は――」


「話しても無駄だ」


 バリスはさっさと踵を返し、ガシャガシャと甲冑を鳴らしながら去っていく。


 周りの奴らが俺を見ているのはわかるが、それどころじゃない。


 甲冑で戦えって、おい、そりゃ不利ってもんさ。


「アガートラー!」


 そこで後ろから声を掛けられ、俺は渋面で振り返る。


「バリスに喧嘩を売るのはどうかと思いますが……貴公の心意気は賞賛に値します!」


 やはりというか……アルヴィアがきらきらと冷めた蒼色の瞳を輝かせ、胸元で両手を合わせていた。


「ったくどいつもこいつも面倒臭いな……そんなんじゃない。魔族を屠るのに失敗されたら困るんだよ。それなら最初から俺が行けば早い。なによりこの手であいつらを○△※×できるならそりゃあ望みもするってもんさ」


「その汚い言葉遣いについては追々考えるとして……アガートラー。バリスは歴とした星のひとり。その腕はかなりのものです。まだ甲冑に慣れていないのは致命的かと」


 アルヴィアは俺の応えなんて聞いちゃいなかった。


 急に真顔になってさらっと言ったと思えば口元に手を当てて考え込む始末だ。


 つーかな、わかってんだよそんなことは。


「だから俺は甲冑なんて着ないぞアルヴィア」


「そうもいきません。甲冑なしではバリスは戦ってくれないでしょう。こんな無謀な作戦を阻止するために貴公には勝ってもらわなければなりませんから……どうにか策を講じないと」


「簡単に脱げるんならまだしも――クソ。俺が着てた服と防具はどこだ? それでいい。バリスには俺が話をつける」


 アガートラーの装備は心臓を守るだけの革鎧と二本の武器。


 それだけで十分だ。


 しかしアルヴィアは申し訳なさそうな顔で首を振る。


 豊かな艶を保った銀の髪が動きに合わせ日の光を散らして揺れた。


「実はその、あの革鎧やほかの方々の服は……処分を……」


「あ? 捨てただって?」


「……ったんです」


「なんだって?」


「臭かったんです! ……鼻が曲がるほどに!」


 拳を握り締めて吐き出したアルヴィアは、まるで声にしてはいけないことを言ってしまったかのような絶望の表情で項垂れる。


 俺はその勢いに気圧されて一歩身を引いた。


「……あ、あぁ。そりゃ臭うだろうな――洗った覚えがない」


「わかっているのです、それすら許されぬ身であったこと。ですからもっと真っ当な服や装備を貴公たちには着ていただきたくて……」


「お、おう……」


「……甲冑とてそうです。やはり身を守るには防具は必須。……ですから……」


「わ、悪かったよ――つってもな、あんだけ全身囲まれちまうと動きにくいってもんさ。拘束されてるみたいで……。あとはあの武器! 両手剣の経験は殆どない――」


「! 拘束されて……⁉ そんな、私はなんてことを! アガートラー、さぞ不安な思いをされたのですね⁉」


 弾かれたように身を乗り出した女騎士はなにを思ったか俺の右手をギュッと両手で掴む。


 ……こいつ、また適当な解釈しやがったな?


 俺は呆れて左手で眉間に寄った皺を伸ばす。


「おい待て。落ち着け。なにも拘束された過去があるってわけじゃない。あと放せ」


「いいのです、そのような気遣いなど!」


 言い切ってからアルヴィアはじっと俺を見詰め、手を上下にぶんぶんと振った。


「人との触れ合いにも慣れていない……そのような悲しい現実を私は知るよしもありませんでした。ならば私が力になりましょう! 鎧のことは任せてください。さあ、こちらです!」


「は? おいっ……どこに……!」


 アルヴィアは俺の手を掴んだまま踵を返すと、ずんずんと進んでいく。


 好奇の視線が突き刺さるが――知るか。俺のせいじゃない。


 クソ。そんな目で俺を見るなって話さ!


「おいアルヴィア!」


「なんですか」


「仲良く手を繋いで歩くような間柄があるってのは俺でも知ってるぞ。誤解されて困るのはお前だ。放せ!」


「!」


 するとアルヴィアはビタリと足を止め――根っこでも下ろしたかと思うほどだ――錆びた扉のようなぎこちない動きでこちらを振り向いた。


「な、な、なにを……!」


「ハッ、お前のほうがよっぽど慣れてない」


 真っ当に生きていた奴らでもそんなもんなのか。


 まぁ俺にだってそんな偉そうなことを言える経験なんか皆無だけどな。


「そ、それはっ、わ、私だって好きで慣れていないわけでは……!」


 ぶん投げる勢いで解放された手を握ったり開いたりする俺に、アルヴィアは盛大に不満そうな声で言った。


「そりゃそうか。革命軍とやらを率いる星――忙しいんだろうさ」


 適当に応えると、彼女はむっと唇を尖らせる。


「星は理由にはできません。――ただ恐いのです。そのような相手ができたとして、この革命が終わるそのときに私が生きているとは限らないのですから」


「なんだそりゃ。死にそうになったら死ぬ気で逃げればいい。生き抜くためならなんでもする。俺はそうやって生きてきた。死ぬかもしれない先の話なんか考えてたら本当に死ぬぞ」


 そのときのアルヴィアは一瞬だけ目を瞠り……困ったように微笑んだ。


「……アガートラー、貴公はもしかしたら本当の『自由』を知っているのかもしれませんね」


「は?」


 アルヴィアはそれ以上なにも言わず、根っこみたいな足を地面から引き抜いて再び歩き出す。


 本当の自由ね。


 自分は自由ではない――そう聞こえたな。


 まあ俺の知ったこっちゃない。


 俺はアルヴィアのあとに続いて踏み出した。


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