革命の『アガートラー』

囚人の肥溜め-バベル-

囚人の肥溜め-バベル-①

 勇者が魔王ヘルドールに敗北して百年。


 世界は希望を失い、魔王ヘルドール率いる魔族に敵対した種族は隷属と成り果てた――そんな時代が続いている。


 隷属が日々味わうのは苦悶と苦痛だけ。生きるのすら地獄でしかないほどに酷い時代さ。


 ――この世界は肥溜めだ。


 ものが腐ったのとも違う、ゴミと汗と皮脂と排泄物が入り混じり、めちゃくちゃな反応を起こした酷い臭いの塊。


 勇者なんて囃し立てられた奴が魔王に戦いを挑んだのが、そもそもの間違いだったんだろう。


 ……俺が産まれたのはそんな肥溜めの中ってわけさ。


 オーク族と呼ばれる豚面の魔物が治める町で、俺は『アガート』と呼ばれる血にまみれた娯楽に従事させられている隷属だ。


『アガート』――つまり、武器で相手と命のやり取りをする賭け事の駒は『アガートラー』と呼ばれ、十五歳を越えた隷属から適当に選ばれている。


 俺が選ばれたのは六年前、二十二歳のときだった。


 どうせ死んだって次の奴を連れてくればいいんだ、扱いは酷いもんさ。


 赤茶色をした煉瓦造りの建物が『アガート』の戦場、兼、何人いるかわからない俺たち『アガートラー』の牢獄だ。


 重く分厚い鉄の扉で閉ざされているカビ臭い部屋には椅子もベッドもない。頭すら通らない小さな窓からの微かな光は時間を知るのに役立つ程度。


 排泄用の穴が部屋の一画にあるが格子が嵌められているだけで、雨の日には酷い臭いが上ってくる。


 俺は扉の向かいの壁に背中を預け、片膝を立てて座っていた。


 髪はばさばさ、髭も伸び放題……汗と垢と汚れにまみれた髭面の二十八歳――それが俺ってわけさ。


 二十二歳まではほかの人と一緒に小さな部屋に――ここよりは広いけどな――ぎゅうぎゅうに押し込まれて、身を寄せ合って眠ったもんだ。


 そこで語り部と呼ばれる爺さんから百年前の出来事について学んだし、もし『アガートラー』に選ばれてもなんとかなるようにと、オークどもの目を盗んで戦い方も教わった。


 ……俺が生き残ってこられたのはその教えと、いまも『自分』があるおかげだろう。


「オイ。『アガート』だ! ズタズタにしろ!」


 そこで分厚い扉に備え付けられた覗き窓が開いた。


 顔を覗かせたオークに、俺は黙って頷いてみせる。


 こいつらの話す言葉は『オーク語』だ。生まれたときから聞かされていりゃ『人語』と『オーク語』の両方を使えるようになるってもんさ。


 いつか絶対にその首を刎ねてやるからな、この×○△※が! ……と、心のなか、両方の言葉で何度も悪態をついてきたが……そう。これが『自分』ってことなんだ。


 隷属の大半は二十歳を迎える前に自分をなくし、ただ呼吸するだけの人形となるか、心を壊して廃棄されちまう。


 そこを乗り越えても、反抗心を剥き出しにして処刑される奴は少なくない。


 オークへの反抗心をひた隠しにしながら日々を生きる俺みたいな奴が、一番長生きするってわけさ。


「今日の相手は『ゴブリンの巣』から来た! 派手にやれ!」


 不愉快な金切り声で告げるこいつらオークは、反抗的な態度を取ればたちまち手にした武器を振るい、一瞬で狩られることすらある。


 緑と茶を混ぜたような薄い色の体毛で俺よりも頭ふたつ分は大きく、オーク族の上位種であるハイオークともなれば、それよりもさらにでかい。


 俺は再び頷いてみせ、覗き窓が閉まってから鼻を鳴らした。


 正直なところ、反吐が出るってもんさ。オークなんかに媚びる自分にもな。


 けど、仕方ないだろ。死にたくないんだから。


 オークが『ゴブリンの巣』と呼ぶのはゴブリン族が治める隣町――規模や距離なんてわかるはずもない――のことで、つまり今日の相手はゴブリンどもの町から連れてこられた隷属――俺と同じ駒だ。


 ――どうやって丸め込むかな。ゴブリンどもの国から来たなら、そこを突くか。


 ほかの隷属と顔を合わせられるのは『アガート』の時間だけ。


 俺は相手の血を派手に流させて立ち回り、できうるかぎり命を奪わずにオークどもを満足させる術を磨いてきた。


 おかげで俺の出る『アガート』は金――自分じゃ触ったことすらないけどな――が動く。


 あいつらオークは○△※×だから、真っ赤な血に興奮するってわけさ。褒美だとかいって食事が増えたりするくらいには、な。


 ただ、相手の命を奪うことを心底楽しんでいるようなやばい『アガートラー』が交ざっていることもある。


 今日も俺は、生き残りを賭けて戦場に出た。


******


 なんだ、あいつは?


 最初の感想がそれさ。


 頭から足の先まで、全身を白銀の鎧で覆った騎士――騎士なんて語り部の爺さんから聞いただけだが――が、そこにいたからだ。


 白い巨大な岩を丸くくり抜いて敷いたのが『アガート』の戦場だ。走り回れるほど広いその岩を底として、すり鉢状の観客席がぐるりと聳え立っている。


 頭上には太陽が輝き、オークは勿論ゴブリンやリザードといった魔族が野次を飛ばしていた。


「ずいぶんな装備だな。ゴブリンどもは羽振りがいいのかい?」


 戦場の真ん中、開始の合図を待ちながら話しかけると、騎士はがちゃりと鎧を鳴らして腕を組んだ。


「見たところ、あんた線が細い。鎧なんて着て戦ったらすぐバテちまうぞ」


 言ってはみたものの、鎧なんて着ていられたら困るのは俺。


 オークは血を流す戦いを楽しみにしてるんだしな……。


 俺は顔には出さず、頭のなかでため息をついた。


 くそ、今日は『やばい奴』に当たったかもしれない。


「『アガート』始まる! 鎧、ゴブリン族の『アガートラー』!」


 司会オークの説明が始まると、騎士はゆっくりと腰から両手剣を引き抜いた。


 対して俺の防具は胸元を覆う心臓を守るだけの革鎧のみ。


 武器は右手に長剣、左手に短剣の二本。


 どう考えても分が悪い――。


「オーク族の『アガートラー』!」


 轟く不快な声。俺は息を吐くと、長剣を前、短剣を後ろに、左足を引いて構えた。


 とりあえず、まずは様子見といこう。


 魔族どもの期待の感情が膨れ上がり、ほんの一瞬、静寂が訪れる。


「――ヤレ!」


 司会オークの宣言と、俺と騎士が踏み切るのは同時。


 思いのほか素早い動きで騎士が迫りくるのを、俺は迷わず受け止めた。


 ギィンッ!


 両手剣のほうが威力はあるかもしれない。


 それでも、そんな鎧で俺の速さに勝てると思ったら大間違いってもんさ!


 俺は即座に剣の刃を寝かせて両手剣に滑らせ、がっちりと騎士に密着した。


 ギリギリと鬩ぎ合う最中、俺は兜の隙間から覗く眼に、真っ向から視線を重ねる。


「おい。その兜で聞こえんのか?」


「!」


「聞こえてそうだな。あんた、人の命を取るのが好きか」


「――ッ、なにを!」


 兜越し、怒りのこもるくぐもった声に、俺はほくそ笑んだ。


「いい反応だ。一旦離れて右から打つぞ」


「⁉」


 いいぞ。こいつは『殺したくない』奴だ。それなら、やりようはいくらでもある。


 俺は宣言通り、斬り払うふりをして距離を取ると、着地と同時に再び踏み切り、右から長剣を繰り出した。


 ガッ!


 騎士はそれを両手剣で受け止める。


 オークどもが不快な音を立てて喜ぶのが聞こえた。


「やるな! ……で、提案だ。命を出さずとも、派手な戦闘と血があればオークどもは満足するってわけさ。俺の話に乗んないか?」


「……提案の内容を」


 くぐもった声が聞こえる。


 俺はしめしめと唇を湿らせ、囁いた。


「次は左からだ」


 剣を弾かれたように見せかけ、俺はひょいと下がる。


 しかし、騎士が俺を追うように踏み込んできたため、思わず目を瞠った。


 振り抜かれる剣は、俺の左からだ!


「うぉっ⁉」


 ギンッ!


 俺は右手の長剣と左手の短剣を交差させ、受け止める。


 手のひらにびりびりと震動が伝わり、思わずハッと笑いがこぼれた。


 やってくれるな!


「貴公からの攻撃だけでは、戦ってるように見えませんから」


 兜の下、冷めた蒼の瞳が煌めく。


「わかってるじゃないか。いいさ、聞け。俺はオークの『アガートラー』として負けるわけにはいかない。ゴブリンどもの国から来た『アガートラー』が相手なんだ、わかるだろ。そこでだ。悪いが、ちょっとだけその腕、傷付けさせてくれ」


「腕?」


 俺は小さく笑みを浮かべる。


 兜すらない髭面の野郎――つまり俺を見て、騎士殿がなにを思うのかには興味があった。


 胡散臭いと取られれば、交渉は決裂するかもしれない。それなら、余裕があるように見せるのは絶大な効果となるってわけさ。


「そう。皮膚の表面を少し裂けば血が派手に出る。痛みはあるが、致命傷にはならない――少し見えてるその二の腕、そこでどうだ? ……本当は額がいいんだけどな」


「それで、血を流したらどうなるというのです」


「それで終いさ。オークどもが血で興奮すれば乱闘が始まる。司会オークは『俺の勝ち』を宣言しておかないと『乱闘で試合が見られなかった。宣言していないだろう、金返せ』ってな文句が入っちまうから、そこで終わりにする必要があるんだ。そら、突きいくぞ!」


 俺は剣を受ける腕を緩め、その力を利用して自身の剣を軸に回転し、騎士の剣を跳び越えた。


 騎士が距離を取ったところで、俺は一気に突きを繰り出す。


 三度剣が交わると、騎士は言った。


「それなら革命の波に乗るなんてどうです、『アガートラー』。流れるのは魔族の血で十分でしょう」


「は?」


 瞬間、騎士は俺を力いっぱい押し退けて、両手剣を掲げた。


『革命は我とあり!』


「……なっ⁉」


 そのときのことを、どう表現しようか。


 鼓膜から腹の底までを震わせる、轟く雄叫び。


 それが闘技場のあちこちから降り注ぎ、同時に魔族どもの悲鳴が響き渡った。


「なん、だ⁉」


 客席からはオークやゴブリン、そしてどこから現れたのか甲冑の騎士たちがこぼれ落ちるように溢れてくる。


 金属が擦れる音とともに俺の隣に立つと、騎士は混乱のなかで優雅に兜を脱ぎさった。


「さあ、革命の始まりです」


 風に流れる、豊かな艶を保った美しい銀の長髪。


 まるで語り部の爺さんから聞いた、お伽話。


 線が細いとは思ったが、これは反則だろう。


 俺は目を見開いて呆然と……『彼女』に向かって呟いた。


「あんた……何者だ?」


「私は『アルヴィア』。革命を指揮している星のひとりです」


******


 なにが起きているかなんてさっぱりだ。


 ひとつ確実なのは、どうも人間による『革命戦争』が起こり、オーク族の町はその戦禍に巻き込まれたってこと。


 騎士たちが雄叫びとともに次々と魔族を屠り、あたりは獣臭と血の臭いがない交ぜになっていた。


 女性騎士は外にも多くの仲間がいると言う。


 俺は女性騎士と一緒に、彼女の仲間とやらと合流すべく、まず階段を上った。


 その先は地下二階。俺たちがいたのは地下三階で、『アガート』の闘技場は大きな穴の中に作られていたってわけさ。


 途中、ほかの『アガートラー』たちの牢屋も開けてやることにした。


 見知った顔もいくつかあったが、仲よくお喋りしている暇はない。


 燃え上がる炎に迂回を余儀なくされた先で、俺は女性騎士を素早く誘導して脇道に隠し、ほかの『アガートラー』と視線を交わした。


 オークの上位種、ハイオークがやって来るのが見えたからだ。


 正直なところ、自分の強さがどれほどなのか俺にはわからない。慎重になるべきだ。


「あれがハイオークですか」


 女性騎士は銀の髪を整えながらそう呟くと、両手剣を脇に構える。


 俺は慌ててそれを押し止め、『頼むからいまは隠れてろ』と囁いて、彼女の兜をふんだくった。


 そして持っていた剣を鞘に収め、血に濡れたオークの剣を拾い、左手に兜を持って飛び出す。


「仕留めた。残兵、あっちにもいる。俺、こっち追う」


 兜を揺らしながらオーク語で話しかけてやると、大きな戦斧を構えたハイオークは相手が俺だと気付き、醜悪な笑みを浮かべて豚面の鼻をひくつかせた。


「『アガートラー』、よくやった。もっと、やれ」


 ……これだけ馬鹿な奴が自分を痛めつけ、押さえ付けていたかと思うとクソみたいな気持ちになるな。


 けれどその瞬間。


 小さな影がハイオークに飛び掛かった。


「うあぁッ!」


 それは『アガートラー』のひとり。おそらくは一番若い、十五歳を越えたばかりの少年である。


 自分は戦えると思ったのか、脅えがそうさせたのか。


「ぬ!」


 馬鹿でも、そこまであからさまな攻撃には本能が呼応するのだろう。


 ハイオークはそちらに向け、大きく斧を振りかぶった。


 ――ち、馬鹿が!


 俺はハイオークに兜を投げ付けて前に飛び出すと、戦斧を迎え撃つ。


 兜が直撃し怯んだにも関わらず、ハイオークの一撃は膝を折るほどの衝撃だった。


 受け止めた長剣の刃が欠けたのがわかり、俺は腕の力を緩めまいと呻く。


「お前、邪魔した。敵か」


 ハイオークはグヘヘと笑い、肥溜めそのもののような息を吐きかけてくる。


 俺は視界の端で震えている少年に怒鳴った。


「邪魔だ!」


「……ひっ」


 後退するのを見守る余裕はない。


 ハイオークが再び斧を振り上げる瞬間、俺は無我夢中でその懐に踏み込み、下から長剣を突き上げた。


「フグゥッ」


 ハイオークが短く息を吐き――崩れ落ちる。


 顎の下から突き刺さった剣に血が伝い、命がこぼれ落ちていく。


 どうっと倒れた巨体を見下ろし、俺は息を呑んだ。


 ――動かない。


 ハイオークは、動かない。


 ……やった……のか? ハイオークを……この手で!


「ハッ! ざまぁみろ、この○×△※!」


 俺は初めてそう口にして叫んで、鼻息荒く振り返った。


 しかしそこには、冷ややかな目をした女性騎士が。


「……私の兜を投げ付けるとは酷いことを」


「う……お、それは、悪かった」


 ひやりと冷たい手で撫でられたように急激に冷静さを取り戻した俺が言うと、彼女はがちゃりと腕を組んで優雅に笑う。


「しかし、少年を救うためだったのは賞賛に値します」


 向けられた笑みはいままで見てきたどの女性よりも華がある。


 確かにこれは星だと言えるだろうが……あまり嬉しくはない。


「別に、邪魔だっただけだ」


 命がいらないなら、邪魔にならない場所で勝手にやってくれって話さ。


 鼻を鳴らしてみせると、女性騎士はなにを思ったのか、ふふっと目を細める。


「ち。……早く行くぞ」


 俺は泣きそうな顔をしている少年――ハイオークに斬り掛かった奴だ――の額にでこぴんを喰らわせてから、再び外を目指した。


******


 熱気と、噴煙と、舞い散る火の粉。


 轟く鬨の声と、オークどもの雄叫び。


「なんだこりゃあ……」


 俺は呆然と……その景色を見下ろした。


 俺たちがいたのは『アガート』の行われるレンガ造りの巨大な建物だが――そこは小高い丘の上だった。


 緩やかな斜面沿いに石造りの建物がずらりと並び、ずっと遠くまで町並みが続いている。


 ……その町並みはいたるところで炎と黒煙を噴き上げ……さながら思い描いたことのある地獄のようだった。


 町に出たことは生まれてこのかた一度もない。


 だから、この景色が初めて目にするオーク族の町であり、正直なところ度肝を抜かれもする。


「これが……町」


 一緒に出てきた『アガートラー』たちも俺と同じく呆然とその景色を眺め、力なく立ち尽くしちまうってもんさ。


「アルヴィア様! オーク兵、壊滅しました。この町は間もなく征圧されます」


 そこに、転げるように――正しい表現なのかはわからないが――甲冑が走ってきた。


「わかりました。一般民は」


 女性騎士が優雅に頷くと、甲冑は戸惑ったような声を上げる。


「可能なかぎり捕虜としておりますが……奴ら一般民というか、その……すべてが兵士のようで」


「ハッ、オークに一般民? 馬鹿か」


 俺は思わず口にした。


 アルヴィアという女性騎士が眉をひそめる。


 甲冑は俺の無礼な物言いが気に食わなかったらしく、がちゃりと音を立てて身構えた。


 髪も髭も伸び放題の汚らしい男がそこにいるんだ、まあ当然か。


 町から上がる炎が表面に映るのか、ときおり赤い光が躍る甲冑を適当に眺めて、俺は続けた。


「奴らは全員兵士だ。雄も雌もない。なにせ生まれた瞬間から武器を持って、俺たち隷属を痛めつける術を学ぶんだぜ」


「アルヴィア様、こいつは……?」


「囚われていた者たちです。『アガートラー』、貴公の名を聞いていませんでしたね」


 アルヴィアは俺を庇うように一歩前に出ると、美しい銀の髪を火の粉の舞う風に流しながら落ち着いた声で言った。


 俺はふんと鼻を鳴らし、腕を組む。


「本気で言ってるのか? ……名前なんてないさ。俺たちは隷属――ここにいるのは全員、ただの『アガートラー』だ」


 その言葉に、アルヴィアだけでなく甲冑も息を呑んだのがわかる。


 俺はひとりで納得した。


 ……そうか。こいつらには名前があるのか。


 どこだって隷属に名前なんか付けない――そう思っていたが。いや、もしかしたらこいつら、隷属として生きてきたことはないのか?


 とりあえず俺は組んだ腕をほどき、肩をすくめてみせた。


「……で、アルヴィア? 俺たちはどうしたらいい?」


******


 革命軍の拠点は、町の外に展開されていた。


 その中で簡易風呂――俺にしてみれば立派なもんさ――に入り、垢を落として髭を剃り、従者とやらに髪も切ってもらった。


 服も上等なものが手渡され――ほかの革命軍の奴らも着ているものだ――着替える。


 ここまで綺麗になるってのは、生まれてこのかた初めてかもしれない。


 さらには、熱々の食事まで提供されちまうってな好待遇。


 噛み応えのありそうな見たこともないほど大きなパンに、肉の塊。ごろごろとした具がこれでもかと入ったスープ。


 味のある水に、甘い菓子――菓子というものも初めて口にしたが、こりゃあ美味い。


 ほかにも数え切れないほどの手厚い待遇に満足していると、俺たち『アガートラー』が囲む焚き火のそばへアルヴィアがきょろきょろしながらやってきた。


「よおアルヴィア。これだけ施しを受けたんだ、俺たちはお前に仕えればいいってことか?」


 上機嫌で話しかけると、彼女はなぜか訝しげな顔をする。


 銀の髪は頭の後ろに高く結い上げられていたが、やはり艶めいていて綺麗だ。


「……なんだよ、変な顔して。あー、さては俺たち『アガートラー』の呼び名に困って――」


「『アガートラー』⁉ 貴公、私と剣を交えた者……ですか⁉」


 ぎょっとして被せてきたアルヴィアに、今度は俺が顔をしかめる。


 しかし、少し考えて俺はすぐに頷いた。


 なるほどな。汚い格好だったんだ、すっかり綺麗になっちまって見分けがつかなかったってところだろうさ!


「ああ。すっかり汚れを落とさせてもらった」


「……確かにその声は……こ、こほん。失礼しました、『アガートラー』たち。お話をしたく、捜しておりました。改めまして、私はこの革命を率いる星のひとり、アルヴィアと申します」


 アルヴィアは左膝を乾いた土に突くと、右手を胸に当て、頭を垂れる。


 どうやらこれから身の振り方について説明がなされるのだと判断し、俺は周りの『アガートラー』に目配せをした。


 この待遇をこの先も確約してくれるなら、仕えるのも悪くはないってもんだろう。


 ほかの『アガートラー』も満更でもなさそうなんで、俺は先立って言葉にした。


「あんたに仕えるのは悪くなさそうだ。待遇はこれを維持してくれるんだろう?」


 するとアルヴィアはきょとんとした顔をして、立ち上がりながら瞬きをしてみせる。


 よく見れば歳は二十前半ってところか。


 こんな若い女性が率いる革命軍が、どうやって魔族をねじ伏せていくのかには興味がある。


 しかし、そこで返された言葉は、俺に衝撃を与えた。


「……私たち革命軍は、魔族からの解放を望んでいるだけです。ここにいる者たちは皆、誰かに仕えているわけではありませんよ」


 ――なんだって? ここにいる全員が?


 俺は思わずぐるりと周りを見回した。


 薪を運ぶ者、食事を準備して提供する者、風呂を警護する者。


 武器や防具を磨く者、雑談をする者。


「あれが全部……自分の意思でそうしているってのか?」


「はい。町寄りに張られているテントにはもっと多くの騎士たちがいます。彼らも、自ら望み戦う者たちです。そして――私も」


 アルヴィアはそう言って、俺たちをぐるりと見渡した。


「ここは解放されました。あなた方は自由です。……私はご一緒できませんが、私たち人族がエルフ族と協力して築いた町があるので、希望する者はそこに向かうことを勧めます。難民として迎え入れてくれるでしょう」


「……解放ね」


 俺は反芻して、考える。


 草と土の世界が町の外にあるってことも、空がこんなに広いってことも、狭い狭い『アガート』の戦場からはわからなかった。


 ――でもな。自由なんて言われても、俺は隷属以外の生き方なんて知らないのが現実だ。


 ちらりと横目で窺えば、ほかの『アガートラー』たちに同じ懸念があることがわかる。


 さらには、連れてこられたらしいほかの隷属たち――老若男女、すべての奴らだ――が、俺たちと同じように不安そうな光を瞳に宿していた。


 つまりだ。簡単な疑問だよ。このあと、どうやって生きればいい?


「……おいアルヴィア。その町とやらに行って、俺たちはなにをするんだ?」


「なに……とは?」


 怪訝そうなアルヴィアに、俺は大袈裟な動作で肩をすくめてみせる。


「言葉通り『なに』だよ。わからないのさ、俺たち隷属には。その自由ってやつが――な」


 瞬間、アルヴィアは驚いた顔をした。


「ご、ごめんなさい……。まずは役所で難民として受け入れるための手続きをして……次は斡旋所で仕事を探してもらうことに……」


「役所ってのは?」


「民としてのあらゆる手続きを行う場所です。書類を書いて、あとは働いて生活を……」


「――そうか。アルヴィア、お前たちは『解放』のあとのことに責任を持たないってことなんだな」


「え?」


「隷属に課せられていた仕事は人それぞれだ。大半は体も心もボロボロ。語り部の爺さんから聞いた話じゃ、生きるのには金が必要なんだろう? その金すら、俺たちは触れたことがない。しかも書類だ? 文字の読み書きもできないのにか? そんな状態の俺たちに、その町はどれだけの支援を約束してくれる?」


「それは……」


 アルヴィアはごくりと喉を鳴らす。


「俺たち隷属は身を寄せ合って生きてきた。オークどもの臭い飯を食べ、ある者は炉で鉱石を溶かし、ある者は汚物の掃除をし、ある者は見世物として命がけの戦闘を課せられる――そんな肥溜めで、さ。……それを解放ってのはありがたい話だろう。でも、突然こんな世界に放り出されたらどうなる。正直、なにを食えばいいかすらわからないってもんさ!」


 アルヴィアは眉間に皺を寄せ、困惑した表情のまま固まった。


「……ハッ。率いる者が聞いて呆れるな」


 思わず言い放った俺に、アルヴィアはがちゃりと鎧を鳴らして身動ぎ、俯いた。


 ――おそらくここで話をしても埒が明かないが、要求は通るかもしれない。


 俺は息を吸って、立ち上がる。


 なにも一生面倒見ろって話じゃないんだよ。せめてひとりで立つまでの補助はないのか? ってことさ。


「アルヴィア。要求がふたつある。ひとつ、ひとり立ちできるまででいい。隷属たちを守ってやってほしい。ふたつ、俺をあんたのそばに置け。革命軍を率いる――なんだったか、星? なんだろ。それくらい叶えられるだろうさ」


 アルヴィアはそこで、はっと顔を上げた。


 柔らかそうな薔薇色の唇が、ぱくぱくとなにかを言いかけては止まる。


 俺はそれを見るともなしに見ながら、心の中、自分の欲が膨れ上がっていくのに身を任せていた。


 魔族とやらが蔓延る悪臭を放つ世界。それを歩くのに、解放軍ってのは役に立つはずだ。


 憎いオーク――その上位種であるハイオークに剣を突き立てた瞬間に確かに感じた高揚は、そうは経験できないだろう。


 それをまた味わうのに、解放軍を率いる女性騎士の近くにいられるとなれば、特等席ってもんさ。


 アルヴィアは口籠もりながら言った。


「そのような物言いは、世間の女性が困ります」


「……なんだ? 要求はするなってことか?」


「そうではありません! 貴公のその容姿です! 私は貴公のように綺麗な顔の男性を見たことがありません!」


「き、綺麗な――顔?」


 俺は思わず反芻して、自分の頬を擦った。


 いつもそこにあった髭はすっかり消え去り、重かった髪も短くなって軽い。


 確かに垢も汚れもすっかり落としたが、しかし綺麗とはなんだ。


「そうです。それをそばに置けなんて……いえ、他意はないとわかっていますが――」


「お、おう……」


 アルヴィアはキッと目を細めると、ぴしゃりと言い放つ。


「貴公の要求を呑む代わりに、二度とその言葉を使ってはなりません! 貴公の常識は、一から鍛え直す必要があると判断しました。いいですね!」


「……」


 そんなんでいいのかと思わなくもないが、アルヴィアがそう言うんだからいいんだろうさ。


 綺麗なんて無縁だった俺からすれば、顔を褒められたところで――褒められたんだよな、たぶん――まったく嬉しくないが。


 ……こうして俺は、アルヴィアの右腕であり、盾であり、剣となった。


 向かうのは革命の名の下に生まれる戦場。


 魔族をこの手で屠り、あの高揚感をまた味わう――そのために。

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