第5章
第33話 目覚め
電話を手に取って会話をするミハイルは、電話の相手に状況の報告を伝えている間中、愛想笑いを顔に浮かべていた。変に話をもつれさせたくないという彼の考えが自然と表情に現れた結果によるものである。
「ええ、散々文句は言われましたがとりあえず払いましたよ。あなたから急にこんな頼みが来るとは驚きでしたがね…彼らが私の元に来なかったらどうするつもりだったんです?」
「問題ない。こっちの知り合いに上手い事誘導してもらってるからな。何もなければ遅かれ早かれそっちに行ってたさ」
相手の男はかなり食い気味にミハイルに弁明した。ミハイルは相変わらず面倒くさい人だと、呆れながらも話に付き合い続ける。
「ネスト・ムーバーの取引が出来る業者を探していたましたから、少し時間はかかるでしょうがサフィライシティへ向かうのは間違いないでしょう。それより、一億ルゲンちゃんと返してくださいよ?安い金額じゃないんですから」
「あー、分かってる分かってる。振り込んでおくから確認しておいてくれ。じゃあな」
忙しいのか、或いは必要な情報だけ手に入れて満足だったのか、こちらの言いたいことを言い終える前に勝手に電話を切られた。
「相変わらず勝手な人だ」
ミハイルは疲れた様に少し眉間を指で抑えながら椅子に座って呟いた。ふと外を見れば、ビーブックシティの寂しげな夜景が広がっている。昨晩見たあの不思議な光の正体に関する憶測が頭の中を駆け巡っては消えて行ったが、結果がどうあれ街に邪魔者が居なくなったという事にだけには確信があった。
「…ここからが大変だな」
そう言いながらも、どのようにして復興させるか、そして自分の稼ぎを増やしていくのかを考えていく内に、ミハイルの顔は野心溢れる実業家としてのものへと変貌する。そうして施策にあれこれと思いを馳せながら、彼は静かにデスクワークへと戻って行った。
――――どこまで歩こうが、一寸先すら見えない闇がルーサーの目の前に広がっていた。仲間たちの姿が無いどころか、自分自身が一糸纏わぬ姿になっていた事に気づいたルーサーは、顔を赤くしながら周囲を見回す。
「皆…どこ行ったの?」
そんな風に呼んでみたが、当然誰からも返事は帰って来なかった。自分がなぜこのような状態でこんな場所にいるのかなど、てんで見当もつかず混乱に陥っていたルーサーだったが、背後の不審な物音に気付くと、不安に駆られながらもそろりと振り返る。先程までは無かったはずの素朴な木製のテーブルと二つの椅子、そしてその付近で何かをしている人影があった。液体が器に注がれる音が微かに聞こえてくる。人影は用が済んだらしく、テーブルから離れると片方の椅子に座った。
人型ではあるが指や耳など人間としての特徴は一切見受けられなかった。人間にとっては指先に該当するであろう部位に目を凝らすと、その肉体が幾本もの細い触手を束ねて作っているものであることが分かった。人影がこちらへ首を向ける。口…と思われる場所には髭の様に触手が数本垂れ下がり、窪んだ穴か何かと思っていた物が、白目の無い真っ黒な眼球であった事が分かると、ルーサーはたまらず逃げ出しそうになる。
「怖がらないで」
どこからか優しく、心地の良い声が耳に入ってきた。次第に警戒心が不安が薄れていったのか、ルーサーは大人しくテーブルを挟んだ向かい側の席に着く。座った瞬間に少し背筋や尻がヒヤリとした。
「今の君も、私もこの空間の中では精神…或いは魂のみの存在だ。だからこのような本来の姿を曝け出してしまっている。まあ、すぐに慣れるさ」
そんな声と共に、目の前の生命体が右腕を文字通り伸ばした。蔓の様に腕が伸び、腕の先端部分が細かく分裂していく。そして人の指の様に五つに枝分かれさせると、器用に操りながら赤褐色の茶で満たされたカップをルーサーの近くへ差し出した。気が付くと菓子が乗っている小皿まで置かれている事にルーサーは気づく。
チョコレートだった。半分に割られた板チョコが小皿にポツンと置かれており、器やテーブルのシンプルさもあってかどことなく質素であった。生命体は何を言うわけでもなくずっとこちらを見ていた。なぜだか分からないが食べろという威圧感を感じたルーサーは、恐る恐る一口チョコレートを齧った。ミルクの風味が強く、平凡だが安心感のある味が口に広がる。一方で茶は少々苦く、沢山飲む気にはならなかった。
「私がこの大地に来訪して初めて口にしたものだ…人間たちは食事というただの栄養補給をする行為にさえ、楽しさや快楽を織り込む…最初は驚いたが、今では病み付きになっているよ」
再び声が聞こえた。最早戸惑う事も無く、ルーサーは目の前にいる奇天烈な生命体と目を合わせる。
「あ、あなたは?」
「ターシテルド…そう呼んでくれて構わない」
その名を聞いた時、ルーサーは絶句した。かつて自身が読んだ大陸にまつわる神話…天から現れた暴虐な神の軍勢の中でたった一人反旗を翻し、人間達の窮地を救ったという英雄の名をなぜこの生命体が名乗っているのだろうかとルーサーは仰天する。
「あなたが、あの英雄ターシテルド?」
「英雄か…何だか照れるな」
何の感情も見受けられない顔面を持つ生命体だったが、その声から微かに高揚している事が分かった。
「もう長い間、一人だったものでね…誰かと話せるというのが嬉しいんだ。本題に移ろう…頭痛がしただろ?しかもかなり激しい。何かが起こったりしなかったかい?」
ターシテルドは穏やかな口調でそう続けた。彼の問いに対して、ルーサーには当然心当たりがあった。すぐに四本足の奇怪な生物が現れた事を彼に伝える。
「ハハ…フェンリルか。相変わらず忠義心の強いやつだ」
「知ってるんですか?」
「知っているも何も、アレは私が作り出した兵器だ。かつての戦い、君たちでいう所の神の軍勢に立ち向かうためにね。きっと他にもいくつかの声が聞こえて来ただろう?残る二体も目覚めようとしている。どうやら短い時間ではあるが君も彼らを従える力を持っているようだ」
含み笑いと共にターシテルドから語られる事実にルーサーは追い付くのが精一杯であった。そして長き沈黙の後、彼の語る話はエンフィールドの血縁者というだけである自身をノーマンが血眼になって捜し続けている理由と関係しているのではないだろうかという可能性に行き着く。
「理由は恐らく…ってどこへ行くんだい?」
「皆の所に戻らなきゃ…!どうやったら帰れるんです?」
ターシテルドが話を終える前にルーサーは席を立ち、急かすようにして彼に尋ねた。少し寂しさを感じてはいたものの、ターシテルドは肉体の意識が戻れば勝手に帰れると伝えた。暫くすると辺りに光が差し込み始め、ターシテルドの姿もボヤけていく。
「時間みたいだ…また会える時を楽しみにしているよ。まだ話せていないことが沢山あるからね…」
ターシテルドからの見送りの言葉を最後に目の前が真っ白に染まっていった。
気が付けばルーサーは、毛布にくるまってソファで横になっていた。ゆっくりと起き上がると、そこが見慣れない酒場である事が分かる。少し荒い寝息が聞こえ、振り向くと、椅子に座ったジーナが近くのテーブルに突っ伏して寝ているのが目に入った。
「坊主、起きたかい?」
カウンターからロバートが手招きをしながら小さい声で呼んでいた。倦怠感を引き摺りながらカウンターに腰かけると、サンドイッチを出して来た。マスタードとハムがたっぷり入っている。
「食いねえ」
「ありがとうございます…あの、ジーナは…」
「あの夜お前が倒れてから、すぐにここへ運び込んだんだ。それからあの子、ああやって俺と交代するまでの間、ず~っと近くで面倒見てたんだぜ?今朝になってようやく休めたってくらいさ」
そうやってロバートは微笑ましそうに見つめながら語る。一方で想定外の出来事だったとはいえ、ルーサーは周りに迷惑をかけてしまった自分を恥じた。そんな彼の心中を察したロバートは、慰めるように軽く彼の肩を叩く。
「気に病むなよ。それよりちゃんとお礼を言っとけ。他の奴らは用事が済んだら戻ってくるだろうから、ここで待ってると良い。じゃあ、色々と仕事があるから後でな!」
ロバートはそうやって労いながら店の外へ出て行った。することも無かったルーサーは、こっそりと寝ているジーナへ近づき様子を伺う。穏やかな寝顔で休んでいる彼女の顔には傷が所々残っていた。改めて自分の無力さを痛感していると、ジーナが目を開いた。
「ルーサー...えっ?」
そんな具合に寝ぼけていたジーナだったが、ハッとした様に体を起こし、ルーサーの肩を掴み揺さぶる。
「体の調子は?まだ頭痛が残ってる?他に変な所は?」
「大丈夫だから…ホントに」
「…なら…良かった」
我に返ったのか、ジーナは落ち着き払ったようにルーサーから離れる。ルーサーも何から話せばいいのか、それ以前に気を失っている間に目撃したあの不可解な光景について語るべきなのかが分からず、辺りは一気に静まり返った。
「ロバートさんが…サンドイッチくれたんだけど、食べる?」
そういったルーサーの誘いから気が付けば、二人並んでカウンターに座り黙々と食事を口に運んでいた。
「ごめんね、こんな事になっちゃって」
先に切り出したのはルーサーだった。
「気にしてない…前にも言ったけどあなたを守るのは――」
「自分がやらないといけない事だから、でしょ?」
彼女の話を遮り、ルーサーは以前彼女が言ってた事をそのまま復唱した。ルーサーの謝罪には足手まといになってしまっているという罪悪感と、自分が彼女達をとんでもない何かに巻き込んでしまっているのではないかという不安が込められていた。後者については確信も無い中で話したところで信用してもらえないのではないかという疑念もあり、伝える気にもなれない。そのうえ、相談をしようにも自然と距離を置かれてしまうせいで一言も喋ることが出来ずにいた。
ジーナもまた、いつもとは違うルーサーの雰囲気に気圧され、話題を切り出せずにいた。助けられてばかりで、自分じゃ何も出来ないもどかしさや悔しさからくるものだろうと勝手に決めつけていたのは、彼女自身の経験によるものであり、決して間違ってはいなかった。しかし、年長者や先輩として言葉を掛けるには自分が未熟すぎるのではないかという遠慮が自然と口を開く気にさせなかった。
「…でも、無事でよかった。きっと皆も喜ぶ」
自分だけではなく、全員がルーサーの身を案じていた事を伝えるために、ようやくジーナはそうやってルーサーに伝えた。
「迷惑をかけた事を後悔しているのなら、さっさと忘れた方が良いわよ。もう済んだ事なんだから…そうした方が気が楽になる。出来る事と出来ない事があるなんて分かってるんだから、誰も責めたりなんかしない」
迷った末にジーナはさらに付け加えた。過去に執着するよりも、これからの事を考えた方が良いという彼女なりの信条やレイチェルからの受け売りの様な言葉になってしまったが、彼女なりの気遣いであった。最も、今の自分が信条通りに暮らせているかは別であったが。
「ジーナって…前向きだよね。前向きっていうか前以外は何も見てないって感じだけど」
「そう?」
そんな会話をしている内に、二人の間にあったギクシャクした空気が少し薄れたような気がした。ジーナが少し笑うと、ルーサーもそれに釣られて軽く笑みを浮かべる。心残りは勿論あったが、少しだけ距離が近づいたと二人は感じた。
「ルーサー!起きたか!」
酒場の入り口からシモンとレイチェルが現れた。二人はルーサーが元気そうにしているのを見ると、急いで駆け寄り彼を囲う。レイチェルに至ってはいきなり彼を抱擁し無事を喜んだ。
「も~、いきなり倒れるもんだからどうなるかと思っちゃった!」
「うわぁ!ちょ、ちょっと…」
「オイオイ、やめてやれ。まともに話も出来ないだろ」
若干苦しそうにするルーサーを、はしゃいでいるレイチェルから引き離しつつシモンは言った。
「そういえば二人はどこに行ってたの?」
引き離されたルーサーは一息つくと、荷物を持っていた二人に尋ねた。
「ネスト・ムーバーがぶっ潰されたもんだからな。隣町にいるっていうディーラーの所へ行ってた。手痛い出費だったが、良い買い物が出来たぜ」
「全部ってわけじゃないけど、今まで使っていた車両を調べて使えそうな家具や道具を積もうと思ってる。二人とも手伝ってくれない?ぐっすり寝てた分、ちゃんと働いてもらうわよ」
シモンがいきさつを話しつつ、レイチェルが今後の予定について語った。そして二人を引っ張る様にして外に連れ出し、自分たちにとっての新しい住処へと案内していく。面倒くさそうにしていた二人だったが、すぐに気を取り直してシモン達の後について行った。
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