2.いにしえの呪いと竜の巣の聖女

 相変わらず苦しそうに横たわる母さんの周りに、青白く光るモヤのようなものが沸き立ち、渦巻いた。

 おじいさんは母さんの横に立って、杖を掲げながらブツブツと何かをつぶやいている。

 僕はおじいさんの後ろで、固唾を呑んでそれを見守っていた。



 母さんの様子に変わったところはない。

 余計に苦しくなったりはしていないようだが、具合が良くなっているようにも見えなかった。

 青白いモヤは母さんの体中に緩やかに広がったが、一箇所だけ、それが近寄らない場所があった。

 母さんの左胸のあたりだ。

「ふむ。」

 おじいさんは呪文のようなものを一度止めてつぶやくと、今度は違う調子の呪文を唱えだした。

 モヤが空を流れていく雲のように動き、母さんの左胸を中心にしてぐるぐると回り始める。

 やがて、そのモヤがキラキラとした光を放ちながら、母さんの左胸に吸い込まれるように消えていった。


 そうしてモヤが完全に消えると、おじいさんがふう、とため息をついた。

「見てみなさい。」

 おじいさんに言われて、僕はおそるおそる母さんのそばに歩み寄った。


 母さんの襟元から、何かがはみ出ているように見えて、僕は息を飲んだ。

 近づいて襟を少し寄せると、母さんの左の胸元から、首の方へと侵略するように、青い線が何本も、木の根のように広がっていた。

「これは……」

「呪いを私の魔力で捉えたものです。この呪いはおそらく心の臓を絡め取るもの。しかしどうやらとても古い上強力だ……。私の魔力でその進行は遅くすることが出来ましたが、私では解くことは出来ないでしょう。」

「そんな!!」


 母さんの呼吸はさっきより落ち着いているように見えた。

 だが顔色は相変わらず悪い。

「このまま呪いが解けないと、母さんはどうなってしまうのですか?」

「この呪いが進めば、母君の心臓は弱り、やがてその動きを止めてしまいます。」

「そんな……」


 僕は足元がぐらりと揺れたような感じがして、気がつけば床に膝を着いていた。

 うまく呼吸が出来ない。

 そんな、どうして母さんがこんな目に!!


「一体どうして母さんが呪いを受けたのですか?一体誰が……助けられないのですか?何かできることは?他に、誰に聞けば……誰か、母さんを助けられる人は、どこかにいないのですか?」

 おじいさんにすがるように、僕は矢継ぎ早にいくつも質問を投げつけた。

 魔法や呪いのことなんて、ぼくはこれっぽっちも関わったことがなかった。

 涙の浮かんだ僕の目に、おじいさんの姿はぼんやりと歪んで見えた。


「呪いを受けた理由は、私にはわかりませぬが……心当たりは無いのですか?」

「ありません!僕たちはずっと森で暮らしていて、誰かの恨みを買うようなことなんてしていないはずです!」

「ふむ、古い呪いですからのう。誰かが直接かけたのではないかもしれませぬ。気づかぬうちに禁忌を犯したか、それとも彼女に流れる血にもともと掛けられていたものか……」


 禁忌?血?

 母さんが何かをしたっていうのか?

 最近、特に変わったことがあったようには感じなかった。

 母さんは一番近い村出身で、ごく普通の農家から来たひとだ。

 その誰も、魔法や呪術に関わった人がいたなんて聞いたことがない。


 思い当たることが全く無くて、僕は途方に暮れた。

 呆然と床を見つめることしか出来ない僕に、おじいさんがまた声を掛ける。

「これだけ古く強い呪いでは、普通の魔術師や呪術師では手に負えないでしょう……。僭越ながら、これでも長い時を生きて魔法の研究に明け暮れた身。私の見立てでは、王国付きの魔術師でもそう簡単には歯が立ちますまい。」


 僕はがっくりと力が抜けて、今にも床に崩れ落ちてしまいそうだった。


 どうしよう。

 どうすればいいんだ。

 母さん。

 やさしい母さん。

 母さんは、婆さんが亡くなってからはたった一人で僕を育ててくれた。

 僕が幼い頃にいなくなった父さんを、ずっと待っていた。

 二人っきりだったけど、僕は母さんとこの森で暮らすのが好きだった。

 母さんが死ぬ?

 こんなに急に?

 こんな訳のわからない理由で?


 そんなこと、絶対に嫌だ!




「一つ、可能性があるかもしれませぬ。」


 おじいさんの声に、僕ははっと上を向いた。

 何かに悩むような表情のおじいさんと目が合う。


「聖女の話を聞いたことがありますかな?」

「聖女?」

 聞き返して、僕は首を横に降った。

「この近くに、あらゆる傷を癒やし、穢れを浄化することのできる力を持った聖女が住んでいるらしいのですよ。」

「らしい?」

 確実性の低そうな話に、僕は眉根を寄せた。

 そんな話は聞いたこともない。


「聖女は歳を取らず、俗世を離れて身を隠してひっそりと生きているとのこと。随分と長い時間が経っているため、知っているものすらほとんどいないのです。私も若い頃に話を聞いただけで、会ったことはありませぬ。その場所にたどり着けるのは、選ばれたもののみなのです。」

「選ばれたもの……どうすれば、彼女に会えるのですか?」

「竜の巣を知っていますかな?」


 もちろん知っている。

 この森を越えて、魔物の住む深い森を更に越えたところにある、火を吹く竜が住むといわれている渓谷だ。


 強い魔力に満ちているそれらの土地と、人間の住む土地との境界線がこの森なのだ。


 僕の父さんは、その境界の番人として、この場所に腰を据えたのだと聞いている。


 そしてその役目は、しばらくの欠番の後、今は僕が果たしているのだ。

 父さんに比べたら、きっとまだまだ未熟だけれども。


「まさか、聖女はその竜の巣に?」

 僕の問に、おじいさんはゆっくりとうなずいた。

 僕は、再度の絶望を感じてうつむいた。




 竜の巣に行ったことがある人は、現在一人もいない。


 だれも帰ってこないからだ。


 竜にやられてしまうのか、それともその前に魔物にやられてしまうのかはわからない。

 しかし生きて帰って来たものがいないのだ。

 名を上げたい冒険者も、宝玉となる竜の身体の一部を欲して向かったものも、みな旅に出たきり帰ってこなかった。


 今ではみんなそれを知っているので、竜の巣に行こうなんて考える人もいない。


 伝説では、その昔魔王を倒した勇者が、竜すらも従えたと伝えられている。

 古代では、竜と人は何度も生存を掛けて戦ったとも。

 しかし魔力の満ちる土地が限られている現代では、竜はその決まった住処から出てこようとはしないのだ。


 それを、こちらから足を踏み入れなければいけないなんて……。



 だけど。




「……本当に、聖女はそんなところに住んでいるのですか。」

「間違いないでしょう。古い記述があるのです。聖女はその力で、竜すらも近寄らせないことができるのです。人間の世界から離れたかった彼女にとっては、竜の巣はうってつけでしょうな。」

「どうして彼女は人間の世界から離れようと?」

「力を持ちすぎたのです。彼女は、もはや人にはあらざる存在となってしまった。」

「彼女であれば、確実に母さんの呪いを解けるのですか。」

「彼女に癒せない傷も無ければ、解けない魔法も無いそうです。この呪いを解けるとしたら、彼女しかいない。もしいたとしても、母君が生きているうちには無理でしょう。」


 僕はおじいさんこら視線を外してまたうつむいた。

 それから顔を上げて母さんを見る。

 汗のにじむ顔は、真っ青なままだ。

 うめき声を上げて、顔をこちらに向けた。

 カサカサに乾いた唇まで、その色を失っている。



 このまま何もしなければ、母さんは死んでしまう。


 他に彼女を助けられる人もいない。


 本当にそうなのかを確かめるにも、そんなに時間に猶予があるとも思えなかった。


「どのくらいの時間がありますか。」

「私の魔力で進行を遅らせ続けても、もって数日……いえ、7日は持たせましょう。」

 おじいさんは少しだけ表情を緩めて言った。

「大変なときに私を迎え入れてくれたお礼です。私で良ければ、できる限りのことをいたしましょう。」

「あ、ありがとうございます!!」


 見ず知らずの僕たちに力を貸してくれるという老人に、僕は心からの感謝の言葉を伝えた。


 ◆◆◆


 翌日の朝、僕はできる限りの装備を整えて、母さんに出立の挨拶をした。


「母さん、行ってくるよ。」

 手を取って声をかけると、母さんは薄く目を開いた。

「母さんの呪いを解ける人を連れてくる。必ず連れてくるから、それまで頑張って。」

 母さんはしゃべることも出来ないのか、じっとこちらを見るだけで、その感情は読み取ることも出来なかった。

 もう既に、随分やつれてしまっているように見える。


「僕がいない間のことは、エミリーに頼むからね。心配しないで。」

 僕はまず、村に行って馬を拾うとともに、雑貨屋のエミリーに母さんのことを頼むつもりだった。

 きっと村の人達で交代で、母さんの看病をしてくれるはずだ。


 僕が母さんの手を離そうとしたとき、僕の手が弱く握られたような感覚がした。

 ハッとして母さんの顔を見ると、わずかに首を横に振るう。

「母さん……大丈夫だよ。すぐに戻ってくるから。」

 僕は母さんの額をそっとなでて、繋いだ手を一度力強く握ってから、ゆっくりと離した。


「おじいさん、どうか母さんのことを頼みます。」

「心得ましたとも。」


 僕は荷物を背負い、外套を掴んで表の扉を開くと、村を目指して駆け出したのだった。


 ◆◆◆




 少年がいなくなった部屋で、老人は一人、小さくくぐもった笑い声を漏らした。


「なんとまあ単純なことよ……」


 そう言った老人の姿が、白い霧に包まれた。


 そしてそれがかき消えると、そこにいたのは老人ではなく、背のぴんと立った一人の男だった。

 その口元には、冷たい笑みが浮かんでいる。


「これでようやく全てが終わる……」


 男は、寝台に横たわる女性にちらりと視線を落とした。


 女性は薄っすらと空けていた目を大きく見開いて、男を見た。

 声を出せない口が、僅かにはくはくと動く。


「ああ……そうか。お前は覚えているのか。」


 男は低く、楽しそうに言って、女性に向き直った。


「誇らしいだろう?は試練にふさわしいまでに育った。今まで手を出さなかったことに、感謝するんだな。」


 静かに言う男の言葉に、物言わぬ女性の目尻から一筋の涙が溢れる。

 それを気にもとめずに、男は宙を見上げて絞り出すように言った。


「やっと……やっとだ!ついにこれで果たされる!!」



 さめざめと泣く女性の寝室で、男の不穏な笑い声が響いた。

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