うつしみへ

蒼川社

うつしみへ

視界が晴れると、不思議な空間に立っていた。驚くことはなかった。

まず目につくのは、いくつもせりあがる大小さまざまな白い壁。それらはまるでカンバスのよう。様々な色のペンキで勢いに任せるように塗りたくられているものもあれば、幾何学的でされど不規則に塗り分けられたものもある。赤ん坊か、人ではない、意思のない生き物がカンバスに向かったのではないか、と思ってしまう。また、壁だけではない。形を持つはずなのにはっきりと輪郭をとらえられないようなオブジェが、まばらに立ち上がっている。ところどころに置かれた立方体や球形の物体は、その不定形のオブジェを望むように影に隠れていた。そんなアート群は目が眩むような真っ白の空間の中で佇んでおり、その空間にはっきりとした境界は見当たらない。視覚的には無限に広がっているようだが、なぜだか窮屈で落ち着かない感覚だった。見渡す限り、明らかな超常。俺はここを形容する言葉を持たず、この景色から、このアートから、何かの意図や思いを理解することを拒んだ。ただひたすらに、不気味であるという感情を抱いた。

目を逸らした先に、刷毛を持った女はいた。俺に背を向ける形で、壁に殴り描いたペンキの塊をじっくりと眺めている。女のそばには丸い洋風のテーブルが地面から生えていた。椅子は二つある。逃げ場を求めるように俺がその片方に腰掛けると、女はようやく俺の存在に気がついて首を回す。そして待ってましたといわんばかりに軽い足取りで、湯気を放つコーヒーカップをどこからともなく差し出してきた。

「最近はどう?」

 熱々のコーヒーを一口含んで、そして代わりに口からこぼれ落ちるように、俺は初対面の彼女にそう尋ねた。

「結構良好。意外だったかな」

 女は俺と向かい合う椅子に座ると、さっぱりした口調で返事をした。自分の分のコーヒーには口をつけなかった。

「ああ、意外だ、けど、なんか安心した」

「そっか。ありがとう」

 あまり会話は弾まない。それはそうだ、何せ彼女とは初めて会ったのだから。しかし、俺は女が、何者であるかを認知していた。態度を見るに、彼女もおそらく同じであろう。女は、俺の友人――宇随或人(うずいあると)――の「彼女」だ。宇随に彼女がいるという話は今まで本人からも噂としても聞いたことはなかったが、女に初めて出会ったその瞬間に、絶対の確信を持った。

「貴女は芸術家?」

「まあそういうことになるかな」

「変わったアートだね」

「ふふ、よく言われるよ」

 女は余裕を含んだ微笑で俺の評価に答えた。「変わった」という表現は非常に便利だ。理解できない、己の常識の範疇外であるものを当たり障りなく形容できる。俺には女の思考がどうなっているのか想像もつかなかった。

「君たちには居心地の悪い場所かもしれないね」

 俺の考えていることを覗き見て先回りしたかのような言葉。しかし、女に不満や反論を抱いている様子はなく、むしろ誇らしげに感じさえする。

「まあ、それでもよかったら、折角だしゆっくりしていってよ」

 女はそう言って席を立ち、再びペンキの壁へとその刷毛を振るう。俺はその背中に不思議と親しいものを感じながら、再び香りの強いコーヒーに口をつけた。その後のことはよく覚えていない。俺の記憶は、ここで霧散するように途切れている。



 夢は記憶の整理、毎日見ているが、起きた時にはすでに忘れているのだと聞いたことがある。普段夢の内容なんてほとんど忘れてしまって、よく夢の内容を語る友人をうらやましく思うこともあった。しかし俺がこの時見た夢は珍しくおおむね記憶に残っていたと思う。ペンをとっている今思い出してみても無茶苦茶で、あまり良い気分なものではなかったが。

「宇随、お前に彼女っていたっけ。アーティスティックで、こう、さばさばした感じの」

 不思議な夢を見た次の日、大学院の講義が一緒の宇随と教室で合流した時に、とりあえず訊いてみた。彼にはさぞかし何の脈絡もないように聞こえたことだろう。怪訝に眉間にしわを寄せる顔が言わずとも物語っていた。

「いや、いないけど。なにその妙な指定」

「うーん、いや、何でもないや。忘れて」

「気になるなあ」

 そうは言ったが宇随はそれ以上言及してこなかった。彼とは大学からのそこまで長くない付き合いだが、それでも人の話に踏み込んでくるようなことはしないと俺はよく知っていた。

 大学という場所は良くも悪くも様々な面で余裕が生まれる。そのためこれまでの学校と比べて、みな本当の性格のような部分がしばしば垣間見えて面白い。講義には必ず遅れない真面目な者、テストのときのみひょっこり顔を出して普段はゆるゆると過ごしている者。バイトをたくさんこなしては仲間を連れて旅行に出かける者、サークルなどの趣味活動に一身を注ぐ者。世の中を楽しんでいる者、そして憂いている者。多種多様な側面を持つコミュニティがあり、そこで多くの人と出会い、そして多くの価値観と出会う。

 もれなく俺も、余裕の中でじっくり考える時間が与えられた。「俺はこの大学でどう過ごしていくべきなのか」。世界が広がる感覚、という言葉はよく聞く。それを経験したかった俺は、大学から自分の興味を持ったことに何でも挑戦してみた。執筆活動も大学から始めたことであり、これが意外と実生活において重宝した。ものを書くということは部屋の整理をすることに似ている。頭の中のことを実際に書き出してみることでようやく現実に定着し自分の言葉にできることも少なくない。現に今、こうして役に立っているのだ。

ほかにも趣味でテニスをするようにもなったし、友人とドライブにもよく行った。サークルもいくつか掛け持ち、積極的にイベントごとに参加することで、できるだけ多くの人と関わるようにしてきた。長続きしなかったものもあったし、大学院に進学した今でも続けているものもある。コミュニティ内で波長が合って固い結束が生まれたこともあったし、価値観や主張の違いで諍いが生じることももちろんあった。結果として、この四年間で得られた経験は膨大なものであり、胸を張って充実していたと言える。ただ、「世界が広がる」ような驚きまでは感じられなかった、と思う。もしかしたら、俺はこの言葉に大きすぎる期待を抱いていたのかもしれない。

 一度大学を卒業して、多くの知り合い友人が就職して大学を離れていった。サークルにも顔を出しづらくなった。だんだんとコミュニティが狭くなっていくのを痛感するが、かえって自分のペースの生活ができていることに不満を感じることはなかった。今までの生活の反動だろうか、波の立たない一般的な生活を送りたいと思うようになってきたのだ。恐れを知らず、とりあえず何にでも手を出していた学部時代にはこんな生活に落ち着くとは考えられなかっただろう。

「最近はどう?」

 いつものとりとめのない会話。自分は何もないんだけど、という余計な言葉を付け足そうとしてやめた。宇随は「うーん」と小さく喉を鳴らし、天井を眺めた。

「別に……普通かなあ」

 仰ぎ見たまま、宇随はそう答えた。以前も彼に同じことを訊いて、そして同じ答えが返ってきていた。学部時代もそうだった。宇随はずっと「普通」の生活を送っているのだった。

「そっかあ」

「あ、こないだ近くにできたアイスクリームの専門店に行ってきたわ。結構うまかった」

「いつの間にかできてたんだ。知らなかった」

「うん、こんな感じで」

 宇随はスマホのカメラロールを表示して俺の目の前でスライドさせてみた。商店街の狭い一角に入っている、テレビで見たことがある看板を提げた店の写真。開店祝いの花の写真。冷ケースにずらりと並んだアイスクリームボックスの写真。三つ乗せしたコーンアイスの写真。真ん中はバニラアイスで、その上にはカラフルなチップが混ざっている青緑色のアイスが乗っている。

「これが一番人気のミント系の味で」

 そして一番下は青地に赤のブレンドアイス。ともにとても彩度が高い色をしており、一種のまがまがしさをも感じてしまう。濃い青色は食欲を減衰させるという話だったような気がするが、あえてこの色を選ぶところは逆に称賛してもいいかもしれない。

「これがなんか新発売の味らしい」

「想像できないんだけど、どんな味だった?」

「これが、なんというか名状しがたいんだよね」

「本当に人気なのか……?」

「まあ意外といける感じ? お前も食べてみたらいいよ」

 講義開始時刻を少し過ぎて、教室に講師が入ってきたところで宇随は巻きでこの話をしめくくった。大学院の講義は、学部のときとは違って多少サボり気味でも単位は降ってくるようなものばかりだ。しかもこの講義は、数合わせで取ってみた専門とは何ら関係のない科目。講師の話は右耳から入って左耳へと流れていく。

 俺は視界の端で近くに座る宇随を一瞥した。彼は左手で頬杖をついて、ぼおっと無表情で板書を眺めている。その右手にはスマホが緩く握られていた。

 宇随或人は風貌も喋りも本当に「普通」の大学生であった。俺と同じサークルに所属していたことから知り合いとなり、それなりにサークル内のイベントに参加していたことから徐々に親交が深くなっていった。そんな彼の唯一の特徴といえば、世の流行や情報に気づくのが早いことであろう。J―POPのヒットチャートは一通りカラオケで歌っていたし、有名な監督や俳優の最新映画は早いうちに視聴を済ませている。メジャーなアニメやゲーム、漫画の話も通じる。先ほどのアイスクリーム屋のこともそうだ。人気なものにはとりあえず手を付けているという印象、悪く言えばミーハー、量産型である。しかしだからこそ友人は多く、狭くなったコミュニティの中では彼のような存在は俺にとってありがたいものであった。

講義終わりにそのアイスクリーム屋の場所を尋ねたところ、宇随は快く教えてくれた。礼を言って別れると、彼はイヤホンを付けて自分の研究棟へと歩いていった。きっとあのイヤホンからは、ラジオのランキングのようなプレイリストが流れているのだろう。



 夢はなかなか記憶に残らない。ましてや夢の続きを見られることなんてそうそうないだろう。

「やあ、また会ったね」

 ああ、そういえば前にもこの世界を見たことがあった。少しの月日が経ち、忘れそうになっていた時に、俺は再びこの場所に戻ってきた。しかし、なんだかうす暗くて狭い。地平線が近くなったような閉塞感が肌を伝う。よく辺りを見渡すと、ペンキの壁は数を減らし、輪郭のないオブジェは「ただの立体」のようになってしまっている。はっきり言って、「異常」だった。元々あった、ちょっとした気味の悪さの漂う超常感とは違う、明らかな危険を孕んだ「異常」。

 テーブルと椅子はまだ残っていた。女は刷毛を置いて、そこにすでに座っていた。俺は操られるように、向かいの空いた席に腰を下ろした。女は満足げに頷く。

「コーヒーは用意できてないんだ、ごめんね」

 壊れかけの世界とは違い、女は変わらなかった。さっぱりとしていて、余裕を持った口調には、この「異常」さえものともしないような強い芯が通っていた。俺は彼女のことをじっと見つめた。表情も変わらない。やはり女の思考を読みとることは俺にはできなかった。

「貴女は、宇随のどこが良いと思ったんだ?」

 いつ途切れるかもわからない世界に、御託はいらなかった。ずっと訊きたいと思っていたことを単刀直入に伝える。女はピクリと眉を動かし、呆気にとられた顔でしばらくフリーズしていた。

「宇随は確かに良いやつだと思う。けど、なんというか、自分がない感じがするんだ。たまにだけど、恐ろしく感じる」

 宇随は皆が好きなことを浅く広く、何でも嗜んでいた。しかしその反面、何かに打ち込んでいるところを見たことがなかった。あまりにも完璧な「普通」であった。逆に何にも関心を持つことができていないのではないかと思えてしまうほどに。

「どこが。どこが良いか」

 反芻するように呟いて、女は自分の手のひらを覗き込む。ペンキが混ざり合ってこびりついた手だった。

「私に持っていないものをたくさん持っているから、かな」

 ぽろっと、女は下を向いたまま呟いた。雰囲気が変わった気がした。

 俺は理解ができなかった。宇随をけなすつもりはないが、少なくとも彼女には宇随よりも「持っているもの」があるように感じていた。何かに打ち込める情熱。凡人には理解できないような才。

 ぐらぐらと、地面が揺れた。埃が舞い、この空間がさらに小さくなっている。

「彼はすごい。誰よりも世間を知っている。誰よりも『普通』を知っている。それだけがそれだけですごい。私には『普通』を手にできなかったから、この世界にいるんだ」

 あふれ出る感情を、そのまま言葉に紡いだかのような口調。俺の言葉を挟ませずに矢継ぎ早に続ける。

「私のアートは『普通』じゃない。一部の人は共有してくれるかもしれないけど、多くの人には理解されない」

 何もなかった白い空にひびが入り、彼女のアート群は近づいてくる地平線に吸い込まれるようにこの世界からはがされていく。しかし女は気にも留めず、そして俺も今はこの世界から逃げる気にはなれなかった。

「結局のところ、残酷だけど、多くの人と共有することが人間の世界で生きることなんだと思う」

 女の思いを受け止められるかは、今の俺にはわからなかった。

「『普通』は初めは誰も持っていない。程度は違うけど、皆努力して『普通』を手に入れるんだ。みんなが一緒に創り上げた共有の努力の結晶で、だからこそ生きていく上での通行許可証になるもの、それが『普通』なんだ」

 いつの間にか伏せていた顔を上げ、彼女は俺の目をしっかりと見据える。その瞳にはしかめ面の俺が映されているのだろう。彼女は純粋に、宇随に対して尊敬の念を抱いているのだと、そのまなざしが語っていた。

「私は諦めちゃってた。小さなもので良いから自分の世界を作って、いつか理解してくれる人だけを待ってそこに閉じこもってたの。でも、だからこそ人間の世界で精一杯生きようと人一倍努力している宇随君が格好良く見えた。理解できるとかできないとか、そういう過程を吹っ飛ばす何かがあったんだ」

 どこからか致命的な音がして、一気に世界が暗転した。遠のく意識の中、最後にぎりぎり聞こえた言葉が脳裏に反響していた。

「貴方はどうなりたい?」



「彼女ができた?」

 久しぶりに会った宇随にご報告された。あまりの唐突さに思わず裏返った声が出る。

「うん、なんか成り行きで」

「そっか。『おめでとう』? って言えば良いのかな。それとも『がんばれ』?」

「はは、ありがとう、頑張るよ」

 もう遊べる時間はあまりないのだけど、と付け足すように言いながら宇随は恥ずかしそうに後頭部を掻く。友人が多いのだから相手ができてもおかしくなかったのだが、なぜか俺にとって意外性があった。一人が好きそうに見えていたのかもしれない。

「ちなみにどんな人? 写真ある?」

「あるよ」

 宇随はポケットからスマホを開いてみせた。待ち受けはプリセットの壁紙のままだった。カメラロールを開くと、上のほうは女性がどこかに写った写真で一杯になっていた。

「へえ、やるじゃん」

「そんなことないよ」

 俺の茶化しに宇随は謙遜してみせるが、照れを隠せないでいた。改めて、俺は写真に写った宇随の彼女に目線を移した。ポニーテールが似合う女の子は本物、と誰かが言っていた気がするが、なるほど「普通」な宇随とは釣り合わないのではと思えるほどの美人である。

 ふと、夢の中で会った「宇随の彼女」と比べようとした。しかし、顔も声も、片鱗たりとも思い出すことができなかった。覚えているのは彼女の変わったアートと、交わした言葉の内容のみ。あんなにも強烈なものだったはずなのに、夢というのはやはり儚いものだと実感する。

 俺はどうなりたいのか。

 答えは出ない。だんだんと変わっていくコミュニティに、早くなっていく時間。「その中で俺は、どう過ごしていくべきなのか」、大学に入ってすぐの時にも与えられた問いに、俺は再び直面していた。

 俺は模索を続ける。多分この模索も、常に変容し続ける人間の世界を生きていく上での重要な過程なのだから。きっと答えは一つに定まることはないし、これからも何度も考え続けることになるのだろう。だからこそ、夢の中で出会ったこの不思議な経験――恐らくは、自己問答――をいつでも振り返られるように、俺は器から零れ落ちる水のような記憶が残っているうちにこれを書き留めておく。

 ――ああ、本当に、よかった。ありがとう。



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