3年生編

第1話

 ちゃんと今日も、目を覚ました。

 目が覚めて横を見れば、寝ぼけ眼に恋人の姿があった。それだけじゃなくて、俺の身体にしがみつくように腕を伸ばしていた。


 以前は俺が起きると、笑顔でおはようと言ってくれた。そんな彼女も疲れが溜まっていたのか、最近は俺が起きた後に起きてくる。


「……おはよ、愛菜之」

「んん……」


 俺が上半身を起こすと、愛菜之はイヤイヤと言うように手を離さない。寝てるのか起きているのか分からないが、こうして甘えてくれるのも嬉しい。

 お返しのようにギュッと抱きしめ返すと、愛菜之は満足そうな顔でスヤスヤとまた寝息をたてていた。


 ……朝飯、作ろうかと思ってたんだけどな。




「おはよ」

「……おはよう、ございます」

「なんで敬語?」

「また寝坊しちゃったから……」


 愛菜之は申し訳なさそうに、俺の胸に顔を押し付けていた。見ないでくれとでも言いたげだったが、俺は久しぶりに見るもんだから、ずっと見ていたい。


「ゆっくり眠れたか?」

「おかげさまで……」

「良かったよ」


 そう優しくいっても、愛菜之は俺の胸から顔を離さない。別に怒ったりしていないし、俺より先に起きろなんて無茶苦茶を言っているわけでもないのに、愛菜之からしたら大ミス案件らしい。


「ご飯、作るね」

「俺が作るよ」

「病み上がりなのに無理しちゃダメだよ」

「俺が愛菜之に作ってあげたいんだよ、ダメか?」


 そういってみれば、愛菜之は嬉しそうにモゾモゾと腕の中で動き出した。いつも愛菜之にしてもらってることを、今は俺からたくさんしてあげたい。


「トーストと、ハムエッグと……コーヒーは飲むか?」

「うん」

「口移し?」

「してほしいな」


 くぐもった声が俺の胸を撫でる。最後にお互い、ギュッと抱きしめあってベッドから出た。

 過ごしやすい季節になっていた。俺の眠っている間は、寒いくらいだったのに。それくらいの時間を俺は寝ていて、愛菜之はそれだけの時間を待っていてくれた。


 俺にできることは、愛菜之に報いるためには、どんなことをすればいいんだろう。愛菜之はきっと、生きていてくれるだけで嬉しいなんて言うかもしれない。

 けれど、俺は返したい。愛菜之が待ってくれていた分だけの幸せを。




「……今日もこんなに幸せでいいの?」

「いいんだよ」


 愛菜之は不安そうな、それでも幸せそうな複雑な顔をしていた。幸せが続くとなんだか怖くなる気持ちは分かる。

 俺は死にかけたから、しばらくは不幸な目には合わなそうだな。文字通り落ちるとこまで落ちたんだから、あとは上がっていくだけだ。


「こんなことぐらいなら、いくらでもするからさ」

「こんなことじゃないよ。こんなに幸せなのも、他にないもん」

「そっか……」


 一回死にかけたからか、こういう普通のことさえも大きな幸せに感じている。とはいえ、この先ずっと生きていけば、そんな価値観も薄れていくんだろうけれど。

 当の俺は、死にかけたからって悟りをひらくわけでもなく、単純に愛菜之といることが幸せだと再確認しただけだ。顔がイケメンになるわけでもないし、大人になるわけでもない。


「……傷、残ってるね」


 愛菜之が俺の髪の毛を手で退けて、額のあたりを見てくる。お医者さんに説明された時には、後遺症だったり傷が残るとは言われたが……こんなに心配そうな顔をさせると、なんだか申し訳なくなる、


「傷が残るくらいで良かったよ。後遺症も今んところはないって言われたしさ」

「……私のせいだ」

「名誉の負傷ってやつだよ」


 愛菜之のせいじゃない、強いて言うなら愛菜之の祖父母のすれ違いから始まったことだ。

 それを言ったとしても、愛菜之はまた自分のせいだと落ち込んでしまう。俺にできることは、愛菜之のせいじゃないと元気な姿を見せるだけだ。


「好きな人を守れて傷つくんなら、幸せだね」

「……ほんと?」

「本当だよ。なんなら、俺の方が謝らなきゃだ」

「どうして?」

「愛菜之は俺たちの関係を守るために飛び降りたんだろ? そんなの思いつかないし、しようとも思わないよ。今があるのは愛菜之のおかげだ」


 俺だけが飛び込んで、死にかけとけばそれで良かった。愛菜之が初めに気づいて、初めに実行した。

 だから愛菜之まで、怪我をしてしまった。もっと俺がしっかりしてさえいれば……。


「暗い顔してる」


 愛菜之が俺の顔を包み込むように、手を添える。

 優しいような、どこか悲しんでいるような瞳に、母親に怒られているような子供の心境になってしまう。


「良くないこと考えてる顔してる。私のこと心配してくれるのは嬉しいけど、自分のことをいじめちゃダメだよ」

「……なんでもお見通しだな」

「ううん、なんでもじゃないよ。晴我くんが私を庇うところまでは予想できなかったもん」


 愛菜之はそういって、俺の顔を胸へと押し当てる。そのまま頭を抱きしめて、優しく撫でてくれる。

 こうされると、何もかもがどうでもよくなって、目を閉じてしまいたくなる。何も考えずに、幸せを受け入れて寝てしまいたくなる。


「ごめん、心配かけて」

「無事でいてくれたから、なんだっていいよ。晴我くんが生きてさえいてくれるなら、なんでもいいの」


 この言葉だけで、どれだけ救われるだろう。綺麗な声と優しい心にラッピングされた言葉の贈り物。それが砂糖のように甘くじわりと溶けていく。

 

「生きててくれてありがとう。ずっとずっと大好きだよ」

「俺も好きだよ」

「大好きじゃないの?」

「大好き、ていうか愛してる」


 そういって見れば、愛菜之は嬉しそうな顔で俺の額にキスをしてきた。久しぶりに感じる柔らかな感触に、胸がトクンと軽く跳ねる。

 

「もっと好きって言ってほしいな」

「何回でも言うよ。その代わり、キスもしてくれよ?」

「好きな時に好きなだけしてあげる。いっぱいしたくて、うずうずしてたんだよ」


 愛菜之はそういって、俺の額どころか鼻の頭、そして唇にしてきた。

 愛菜之は満足そうな顔で、俺の顔を見つめる。と思えば、また軽いキスをしてくる。


「これからも、この幸せが続くといいね」

「これからも続くようにするつもりだよ」

「ずっと?」

「ずっとだよ、俺だって愛菜之とこういうことしたかったんだ」


 入院中は少し動くだけでも辛かった。動けば痛みが襲いかかり、俺の回復を拒むように巻きついてきた。

 愛菜之はそれをもどかしそうに見ていた。代わりになれれば、なんて考えていたに違いない。好きな子にこの痛みを変わってほしくはないけれど。


「あの時、目を覚ましたのも愛菜之とこうするためだったんだからさ」

「ほんと? 私とこういうことしたかったの?」

「そうだよ。だからあの時も、今日も目を覚ましたんだ」


 今日も目を覚ましたのは、愛菜之と会うために。愛菜之と一緒に生きていくために。

 朝起きるのも、夜寝るのが惜しくなるのも、愛菜之のおかげだ。


「晴我くんのくれる言葉、全部嬉しい」

「そう言われると照れる」

「嬉しい、すっごく嬉しい。全部全部、宝物だよ」


 そういってくれる愛菜之が、俺にとっての宝物で。

 この普通の日常が、どれだけ大切なものだったかを教えてくれる愛菜之を、この先もずっと愛し続けたい。


「今日はどうしよっか? またゴロゴロしちゃう? それとも、お外でデートしよっか?」


 どっちも魅力的で、どっちもしたいくらいだ。こんなもどかしさすらも愛おしくて、たまらなくて。

 生きていることの幸せを、二度も教えてくれた恋人は。


「愛菜之」

「なぁに?」

「愛してるよ」

「ふぇっ!?」


 これから先の人生を、幸せなものだとも教えてくれた。

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