第87話

 私たちは、払わないといけない。

 巻き込んだ代償、犠牲への代償。私が払うべきでもないけれど、静観するしかできなかった私にも、責任ある。


「俺はなんだったんですか? 今までの時間は、今までの我慢は」

「君の会社に手助けをすると約束しただろう」

「今の話聞いてたら、俺のしてきたことは最初っから意味がなかったじゃないすか」

「……なにが望みなのかな?」

「だからッ! そういうところがさぁ、ホンットに気持ち悪いんだよ!」


 声を荒げる田之嶋くんに、私たちは驚いた。今まで笑った顔しか見てこなかった。それは私たちが半ば強制していたものかもしれないけれど、この子が本心をむき出しにしたのは初めてだった。


「何か渡しゃあ満足して、ハイそうですかってなるわけあるかよ!」

「僕にできることはそれくらいだ。頭を下げて欲しければいくらでも下げる。殴りたいなら殴ったっていい」

「違ぇよ! もうどうにもなんねぇんだよ!」


 歯をむき出しにして、声を荒げ、突き刺すように視線を向ける。

 それでも父は、なにも言わない。ただ、静かに見つめるだけだった。


「好きな人も友達も! 自分の気持ちとは違う! 好きじゃない人に好きだって言って、友達に嫌われて! その上、全部無駄な時間だった? 笑い話にもなんねェんだよ!」

「……申し訳ないと思っている」

「てめえの気持ちなんざ知らねぇ! 俺は! 俺は、なんだったんだよ……」


 崩れ落ちていく田之嶋くんに、かけるものは見つからない。

 私は知らないし、分からない。この子がどれだけのものを犠牲にしたかも、なにを失ったかも。

 声をかけることも、慰めることも逆撫でするだけ。沈黙が答えとも言えない、不可視の世界。


 私たちは巻き込んでしまった。無関係のものを、善良なものを。

 その代償は、いったいなんだろう。


「……お兄ぃ、もういいよ」


 声がした。扉の方から、女の子の声が。

 娘の声でもない、部下の誰かでもない。この声は、誰のもの。


「……なんで、裏愛がここにいんだよ」

「呼ばれたの、副社長に」


 相変わらずの無表情をたたえる母に目を向けると、眉の一つも動かしていなかった。ただ、こうなることを見越して呼んだのだとすれば。

 どれだけ人の心を踏み潰し続けているんだ、この女は。


「アタシね、知ってたンだ。お兄ぃが、アタシたちのために何してたか」

「……んだよ、なんで知ってんだよ」

「社長にね、言われたンだ。お兄ぃが何してるか、協力してくンないかって」

「は……? なんで妹まで巻き込んでんだよ、このクソ野郎」


 静かな視線が揺らぐ。今まで貫いていた視線が、初めて揺らいでいた。

 裏愛ちゃんは、表くんのもとへ歩いていく。しゃがみ込んで、表くんを抱きしめていた。


「お兄ぃが頑張ってくれてたの、知ってたよ」

「なんにもしてねぇよ……」

「知ってる、全部全部知ってる。お兄ぃがみんなのために頑張ってたの、知ってる」

「知らなくていいんだよ……」

「知りたかったンだ。お兄ぃだけ頑張ってるの、イヤだったから」


 妹に抱きしめられた照れ隠しか、それとも知られていたことの絶望か。

 分からないことだらけで、触れられない聖域。

 表くんの気持ちは、今どうなっているのか。


「アタシもね、晴我先輩と付き合えたら、お兄ぃを自由にしてくれるって言われたんだ」

「……やっぱクソ野郎だな」

「ううン、アタシのはついで。本当に晴我先輩のこと好きだったし付き合えたら、お兄ぃも解放されるから得だなってくらいだった」

「んだよ、それ……」

「でもね、フラれた。愛菜之先輩にも邪魔されてばっかだったし、脈なしだったしさ」


 言葉につれて、裏愛ちゃんは涙を流していた。失恋の涙か、兄を助けられなかったことへの涙か、怒りからの涙か。


「もう頑張らなくていいンだよ。もう、戻ろうよ。全部忘れて、帰ろう」

「……ダメだ、コイツらに今までのツケぇ払わせないと」

「アタシ、お兄ぃの辛さも分かんないけどさ。もう、関わるのやめたほうがいい」


 それが一番だと、私ですら思う。これからも巻き込まない保証はない。だとするなら、もうここで縁を切ったほうがいい。


「帰ろ? 今日はアタシがさ、カレー作るから」

「お前、料理したことあったっけな……」

「あるよ、アタシだってそれくらいなら作れるし」

「そっか、そうなんだな……」


 裏愛ちゃんに肩を貸してもらいながら、表くんは立ち上がる。二人で扉へと歩き、軋む扉を開いた。


「これ以上、誰かを巻き込むなよ」

「……善処する」


 忠告を投げ、二人は扉を出ていった。




「……取り返しのつかないこと、したわね」

「したさ、そうするしかなかった」

「私たちの間違いよ」

「いいや、君は関係ない」

「あるわ、夫婦だもの」

「……そうか、そうだね」


 母はいたって普通に、父は苦虫でも噛み潰したように。

 下らない夫婦の下らない策略に巻き込まれた者への、贖罪を考えていくことになる。私もその内だ。娘という血縁からは、どうしても逃げられないし、逃げるつもりもない。

 ここから、ここからだ。


「……それと、愛菜之は軽傷みたいよ。良かったわね」

「……良くはないわよ」


 ひとまず、その報告を聞けて安心した。この高さから飛び降りて、軽傷だったのは奇跡だと思う。

 けれど、その後に聞いたことには胸がざわついた。




「けれどボーイフレンドの……宇和神だったかしら。あの子、重傷みたいよ」



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