第86話
愛菜之が飛び降りた後の話を始めるよ……あまり、面白い話じゃないけれどね。
こっちとしてはヒヤヒヤしたんだからさ。もうあんなこと、しないでね。いや、そんなことさせないからね。
分かった、急かさなくても始めるよ。
「愛菜之ちゃんッ!!」
「いや、イヤーッ!!」
叫ぶしかできなかった。一瞬にして姿を消した二人の姿。その下に広がるだろう、赤の景色に。愛娘の血か、はたまたボーイフレンドの血か。想像したくもない。
「なんてことを……!」
「救急車!!」
叫びながら、スマホを操作する。ガタガタと震える手と、頭に巡らない血の流れ。
スマホの液晶が歪んだようにすら見える。亀裂も気泡も入っていない、綺麗なガラスのフィルムなのに。
「お願い、お願い……!」
震える手がようやく、番号を押し終わる。3桁すら押せないひ弱な指先、あとはもう一つのボタンをタップするだけなのに。
「よしなさい、慌ただしくてみっともないわ」
「……ッ! アンタ、どのツラ下げて!?」
「救急車なら呼んだわ、さっさと携帯をしまいなさい。話は終わりじゃないの」
救急車がすでに呼ばれている、ひとまずの安心、そしてよぎる不安。嘘か真か? 人の命が関わっているとはいえ、この女が何をするかは分からない。
「アンタの孫が死にかけてんのよ!? 今すぐにでも降りて助けに……!」
「部下を向かわせたわ。気が動転してるあなたじゃ救命活動もままならないでしょう」
「……嘘だったらぶっ殺してやる」
「あの子たちが死ぬと困るの。利害の一致よ、これで満足?」
利害の一致……それなら、この女は手を抜かない。利害、利益、そういうものを求める時はとことん追い詰める。そうやって、この会社を大きくしていった女だから。
「話を始めるわ。この騒動が落ち着く前に、ね」
「……なにが狙い?」
「この会社のリセット、それだけよ」
この会社をリセット? 今まで私の両親が、二人で築いていった血潮を、リセット?
そんなの社長が、父が許すはずがない。父はこの会社を宝だと、命だとすら言っていた。
表情の固い父が、副社長……私の母に、重く口を開いた。
「……君は、また僕から奪うのか」
「奪うもなにも、二人のものでしょうに」
「だったら前もって話でもしてくれないか。君の行動は突飛でついていけないよ」
「話しておけば、拒否するでしょう」
「当然だ! この会社は君と僕で建てた、いわばもう一つの子供だ! それを君は……!」
「子供? 私は子供なんていらないわ。あなたがいればね」
二人の子供であるはずの、私の目の前で。母は、言い放った。子供なんていらないと。
今更、それを悲しいとも苦しいとも、悔しいとも思わない。私も家族を捨て、新たな家族を選んだ人間だから。そんな筋合い、無い。
「僕がいれば……? 君は僕を捨てたじゃあないか」
「捨てた? なんの話をしているのかしら。私はあなたを愛しているのだけれど」
「……理解できないよ。結婚して、会社を建てた途端に君は、僕を避けるようになったじゃないか」
「少々忙しくて……私としては、あなたとの時間がなくて辛かったわ」
「……君はどこまでが本当なんだ」
「全部本当よ、私は私。ここにいる私が全て本物」
二人の会話はよく分からない。私が生まれて、物心がつく前には会社は設立されていた。
仕事にのめり込む父、私への興味がない母。二人のことは、なんとも思っていない。今となっては、なにも。
その二人の関係すら、興味はない。不仲かどうかも知らなかった。
「僕はてっきり、君に愛想を尽かされたと思っていたのだがね」
「愛想を尽かす、ね。私のような愛想のない女を選んでおいてよく言うわ」
「……惚気てんじゃないよ。さっさと本題を話してよ、副社長さん」
嫌味を込めた言葉を、意にも介さず、「それもそうね」 と母は言う。
両親の、それも大嫌いな二人の惚気なんて興味ない。それどころか不快感すらある。
「あなたの夫……事故で死んだでしょう?」
「なによ、人の傷えぐって楽しい?」
「傷? バカね、あなたのそれは幻肢痛みたいなものよ」
幻肢痛? 意味がわからない、この女は何が言いたい。私の傷も涙も、時間も。全部が幻だなんて言いたいのだろうか。
失った重みも、失った世界を。奪ったくせに、笑うのか。
「入りなさい」
唐突に放たれた言葉、それと同時に騒つく胸。
扉の向こうにいるのは、なんだ。敵か、味方か?
わからない、この胸騒ぎも、血液の流れも。
「私はあなたを愛していると言ったわね……ずっと二人でいるためにも、犯罪者にはなってほしくないの」
「……なぜ、君が生きている」
「嘘っ……!」
そこにいたのは、死んだはずの人間。
愛娘を抱え、トラックに轢かれ、生涯を終えたはずの男。
─────私の夫が、扉を開けた。
「久しぶり」
「久しぶりじゃ、ないわよ……っ」
目の前の人間が、本当に夫か分からない。なのに、口からするりと言葉は出てくる。
愛して、愛された人が。死んだはずの人間が目の前に生きている。時を経ても変わらない雰囲気、あの時の傷が残った顔。
この人は、私の夫だ。
「どういうことだ……君は死んだはずだ」
「あなたが犯罪者になるのはごめんと言ったでしょう。生きていたと知ったらまた手を出す。だから死んだことにさせてもらったわ」
「なぜ、そんなことを……」
「あなたと一緒に人生を歩むためよ」
父はタバコに火をつけ、煙を吐く。顔をしかめながら、首を横に振りながら言った。
「意味がわからない。君は僕のことが……」
「好きよ。愛しているわ」
その先は言わせまいと、母は被せて言う。不仲だとばかり思っていたが、どうやら違うらしい。
その思いは、母の一方通行か。それとも……。
「……だとしたら、僕のしてきたことはなんだったんだ」
「そうね、そもそもあなたが何故こんなことをしてきたかが分からないわ」
「僕と君のように育ってほしくなかったんだ」
「……どういうことかしら?」
初めて母が疑問を浮かべた。両親のように育ってほしくなかった。……世間的に見れば、私の両親は立派な部類だ。自慢でもなく、客観的に見て。
だとすると、他の意味での発言。真意はまだ、読み取れない。
「嫁一人満足させられない、会社も君の手がなければここまで大きくはならなかった。だからこそ、僕が選んだ優秀な人間と添い遂げ、幸せな人生を歩んでほしかった」
「……なによ、それ」
今まで、そんな理由で私は。好きな人を失ったと思い、好きでもない仕事を選んでいたのか。
そんな、そんなの。
─────余計なお世話だ。
「そんな理由で私を束縛していたの? 私の夫を傷つけたの? 全部全部、余計なお世話よ……!」
「君のためだったんだ!」
「知らないわよ! 私のことも考えないで、迷惑なのよ! お父さんなんかっ、お父さんなんかだいっ……!」
嫌い。そう言おうとしたのに。
私の夫が、手で口を塞いできた。久しぶりに触れてもらえたと思ったら、口を塞ぐなんて。ロマンチックでもなんでもなくて、なんだか怒りも萎んでいく。
「ダメだよ、それ以上言っちゃあさ」
「でも……! あなたまで死にかけたのよ!?」
「いいんだよ、君といられたらいいんだ」
「このっ……お人好し!」
「そう言われるのも久しぶりだね」
そういって、からりと笑う夫にもムカついてくる。死ぬところだったのに、なんで笑っていられるの。
娘がどうなっているか分からない、死んでいたはずの夫が生きている。
私は、どうにかなりそうだった。
「……色々と話さないといけないわね。私とあなたと、これからについてね」
母がそういって踵を返す。これで話は終わりのはずだった。
「……じゃ、俺が今までしたことはなんだったんすか」
いつのまにか扉を開けて出てきていた、田之嶋表くんがいた。
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