第84話
愛菜之と別れるか、俺の両親が生きがいを失うか。
天秤にかけても、どちらに釣り合うものじゃない。これは俺の人生じゃない、人の人生までかけてしまっている。
「答えはすぐに出ないだろうから、今日の終業までに教えてくれるかな。あまり、こんなことに時間をかけたくはないんでね」
社長からしてみれば、俺の人生も俺の両親の人生も、こんなこと程度のもの。本当にこの人は、自分と自分の周りしか知らないし、知りたくもないんだ。
どうすればいい、どうすれば父さんと母さんに迷惑をかけないで済む。もう迷惑をかけたくない、もうあんなことを言われたくない。
「決断力のない男は嫌われてしまうよ。まぁ、決断したとして、君たちには必ず別れてもらうがね」
「……私たちは別れたりしません」
「愛菜之ちゃんまで物分かりの悪いことを言うね。まったく、悪い彼氏の影響かな?」
「晴我くんを侮辱しないでください……!」
「そんなに怒らないでおくれ。僕は愛菜之ちゃんが心配なだけさ」
その心配とは、愛菜之が血縁だからか。それとも、自身のレールに従うか否か。
どちらにしても、愛菜之を心配していることに嘘はなかった。
「それにね、愛菜之ちゃん。もし別れなかったとして……」
社長はいたって和やかな顔つきでいた。孫に見せる、穏やかで幸せそうな顔を。
だというのに、拭えない恐怖。それは、吐かれた言葉も同様だった。
「晴我くんが、君のお父さんのようになってしまってもいいのかな?」
「……!」
「あんなことをもう一度経験したいのかい? また君は、可哀想な目にあってしまう。また、可哀想な子になってしまう。そうならないために、お爺ちゃんは頑張っているというのに」
「はっ、はッ……!」
愛菜之の息が荒くなる。冷や汗をかき、制服の裾をギュッと掴んでいた。
体育祭の時に見た、愛菜之の姿に似ていた。あの時は、知らないことばかりで分からなかった。
けれど今なら分かる。心の傷に触れられ、そこを抉られているんだと。
「愛菜之に話しかけるな……!」
「君との話はもう終わっているよ。早く仕事に戻ったらどうだ?」
「そんなのどうでもいい! 娘にまで手を出すな!」
「手を出すなんて……そんな野蛮なことはしないさ。僕はただ、お話しているだけだよ」
人を嘲るような言葉に、愛菜之母はギリリと歯軋りをする。憎しみと悔しさを込めた、歪な音がしていた。
……俺にできることは何もない。どうすればいいか分からない。誰か教えてくれ、このピンチを切り抜ける方法を。
俺の命を捨ててもいい。だから、だから─────。
─────友達に、あんなひどいことを言ったのは初めてだった。
とはいえ、本当に友達だったかも怪しい。指示がなければ、宇和神とは関わり合いにはなっていなかっただろうから。
職場見学なんて体のいい言い訳で、呼ばれたのは宇和神と愛菜之の関係を破るための準備が整ったからだろう。社長も人が悪い、二人の仲が良くなって、幸せの真っ只中でそれを引きちぎるなんて。
それがあの人のやり方だ。絶望させて、意志を失ってしまったところを囲む。
やることがヤクザみたいだ、なんて言ったら、あの社長は口八丁で否定してくるだろうけれど。
用意された控室で、スマホをいじりながら考え事をするのにも飽きてきた。
というより、ずっとさっきのことが頭に巡っている。仲がいいと言える友達を失って、好きかどうかも分からない婚約者に殺されそうになる。
こんなドラマみたいな経験、したくもなかった。
「はぁ……」
トボトボと、廊下を歩いていく。自分の歩幅はこんなに小さいもんだったかと、いつもの調子じゃないのが現れていくのが悔しい。
ため息なんか吐くなんてガラでもない。一人になっても、弱さを出さないと決めていたのに。
家族のために、俺ができることならする。好きなことをさせてくれた、幸せをくれた家族のために。お父さん、お母さん、妹のためにも……。
「そんな顔じゃあ、会社なんて継げるもんじゃないわね」
声がして、顔を上げた。チクショウが……まだ話があるっていうのかよ。
笑顔を作って、腹に力を入れる。俺にあるのは、もうこんな作り笑顔しかない。
「そんな顔ってなんすか! 俺はいつもこんな顔っすよ!」
「仕事っていうのは嫌なことの連続よ。そのいつもの仮面だって、すぐに剥がれるでしょうね」
嫌味を言いにきたのか、この人は。思ったより暇なんだな、副社長っていうのも。
今まで誤魔化しつづけて生きてきた。今さらこんな嫌味で、剥がれたりもしない。
「それで、どうしたんですか? いつもは仕事で忙しいって、顔合わせることないじゃないすか」
「顔を合わせる必要が出てきたのよ」
「そりゃまた、なんでですか?」
社長とは何度も顔を合わせて話してきたが、副社長とは話したことはおろか、顔を合わせることも数える程度しかない。
そもそもこの人は男を嫌っている節がある。社長とすら、会話を好んでしようとはしない。
「ここが好機だから、よ。わかったらさっさと着いてらっしゃい」
「了解です」
「了解は目下の者に使う言葉だけれど?」
「承りました」
「また一つ、賢くなってよかったわね」
こんなんじゃ、会話したがる人なんていないだろうよ。
「答えは今日まで待つ……とは言ったものの、これで逃げられたりでもしたら誰かの二の舞だ。……そうだな、今すぐ決断してもらおうか」
社長の言葉が、耳から喉奥へと抉り通っていく。言葉は時に刃物になり得るというが、ここまで鋭いとは聞いていない。
俺は、どうすればいい。逃げることもままならない、選ぶこともできない。できるのは、ただ呼吸と思考と祈りだけ。
あまりに情けない、醜態というには足りすぎてしまう。今まで、たいした努力もしていないから、今ここでツケが回ってきたんだ。
「さて、答えてくれ。こんななりでも、社長だから忙しいんでね」
「俺は……」
言葉を出してみたものの、喉が絞られているように声が出ない。出そうとしても、口が開くだけ。まるで餌を待つ鯉のようだ。
頼む、思いついてくれ。この場をどうにかする必勝法を、切り抜ける大逆転を。
俺の頭は、なんの答えも出せない。生まれた時から付き合ってきた身体は、俺に正直であり続けた。
「……答えが聞こえないが、別れるということでいいかな?」
「……俺は!」
俺は、俺は、俺は。
─────俺は、どうすればいい。
「……答えないで」
愛菜之の一言が、まるで爆発音のようにでも俺の身体を叩く。
地獄に垂らされた、一本の糸。これは天国への切符か、はたまた幻影か。
振り返ると、愛菜之がいつもの笑顔を俺に向けていた。いつもの笑顔、なのに。
裏に張りつく思惑が、俺にはどうにも危険に思えてならなかった。
「晴我くん」
愛菜之が踵を返し、走り出す。
いつだって、俺の先を歩む。追いつこうとすると、それに気づいて歩みを止めてくれる。
けれど、今回だけは。今回だけは、止まってくれそうにもない。
「 」
口の動きしかわからなかった。けれどそれで、十分だった。愛菜之が何を考えていたかも、何をしようとしていたかも。
「愛菜之!」
「まさかっ……!」
愛菜之母の声か、社長の声か。こんな時に聞こえるのが、この二人の声なんてやってられない。
俺も全力で走り出す。走りに自信があったのに、スタートが遅れた分の距離が縮まらない。
フェンスもない屋上、吹き抜ける少し強い風。
第三の選択肢にしては、残酷で苦しいものだった。
「愛菜之ッ!!」
ようやく追いついた。そんな頃には、もう空を駆けていた。
こんなことを考えつくなんて、やっぱり愛菜之はすごい……というよりは、イカれてる。命をかけてもいいなんて言っといて、こんなことも思い付かない俺は本当の間抜けだったんだ。
「晴我くん!?」
声を上げる愛菜之を見つめる。瞳は大きくて、まつ毛が長い。やっぱり美人なんだなって、少し誇らしくなる。
頭の中に巡るのは、君との思い出だけだった。
家族も、友達も、記憶の映画館ではキャストにも選ばれない。
腕の中にいる温かくて、細い身体。何度も抱きしめて、感じて、触れ合った身体。
もう、触れられないのか。
「愛菜之」
きっと最後を飾る言葉っていうのは、呪いにもなりかねない。頑張れとか、幸せになれとか、忘れろとか、何もかもが重荷になりそうだ。
だから、この言葉で。
「愛してる」
─────明滅、赤、黒。
目まぐるしく変わる視界は、やけに綺麗だった。
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