第83話
昼休みの時間も終わった。あっという間に感じるような、長かったような。
愛菜之も俺も、なにも話せなかった。何を話せばいいのか分からなかった、というのが正しいのかもしれない。
「……弁当、美味かったよ」
「うん、嬉しい」
「毎日でも食べたい」
「うん、毎日作るよ」
小手先の言葉でも、愛菜之は嬉しそうに、嬉しい言葉を返してくれる。特別なことじゃない今この時が、どれだけ特別なことなのか。
─────これから先、決まる。
程なくして、扉がノックされた。入ってきたのは、愛菜之母だった。
右手には、黒塗りのファイルのようなものを持っていた。それがどれだけ重要なものなのか、まだわからない。
「さて、行こうか」
簡素な言葉、秘めた覚悟。その目に宿るのは、一体なんなのだろう。
分からないことだらけ、不安に染まる心中。それでも、進む他ない。
エレベーターで上がっていく。行き先はいつもと同じ、社長室……ではなかった。
エレベーターが止まった後、俺たちは愛菜之母へと着いていく。階段を上がり、寂れたドアを開けると、風の吹き抜く屋上。そして、社長が立っていた。
「こんなところに呼び出さないで欲しいね。老体には冬の風は堪えるんだ」
「手短に話すから大丈夫。なんなら、缶コーヒーでも奢ったげようか?」
「親孝行とは驚いたね。僕のは微糖で頼むよ」
軽口を叩き合う二人を見ていると、いたって普通の親子にしか見えない。しかし、この二人の間にある
「それで、その手のものが今回の用件のものかな?」
「そっ。話が早くて助かるよ」
「何十年と働いているんだから分かるさ。それで、それは何かな」
「あんたが私の夫を殺した証拠。これ、撒き散らしていい?」
手順もなにもなく、本題から本題への急激なステップに目を回しそうだ。愛菜之母はなんともない顔をしてファイルを突き出し、そして社長もけろりとした表情だった。
「はて、僕は人を殺したことがない。それに、お年寄りに席を譲るほどの人徳者だけれどね」
「よく言うよ。私が操縦しきれないってなったら、電源元をぶち抜くようなことしてさ」
「そんな酷いことしないさ。この歳でも機械には少し詳しいから、ちゃんと電源ボタンを押すよ」
「へぇ、認めるんだ?」
今の問答で、社長は確かに認めるような発言をしたことになる。とはいえ、こんなにあっさり認めるのか? この人なら、のらりくらりと避けてなかったことにしそうなものだが……。
「ようやく娘が成長したから、認めてあげないとね。まぁ、それをばら撒いたところでなんともならないがね」
「ありとあらゆるところに出すよ? それでもいいんだ?」
「そうして成功すればの話だがね」
未だ余裕の社長に、さすがに俺たちも訝しむ。この余裕はどこからくる? 窮地に立たされる人間の雰囲気じゃない。
何を考えている、何を企んでいる?
「それを出したところで、信じてもらえるのか? 信じてもらえたところで、僕の力に勝てるのか? 金も権力も、今の君には何もない。どこの馬の骨とも知らない男と結婚し、僕たちの名前を捨てた君に何がある?」
「……火のないところに煙は立たないでしょう。殺人に賄賂、これだけの燃料があれば、あんたでも終わる」
「まさか、たったそれだけの根拠で僕の時間を取ったのか? 多少は成長したと思ったが、勘違いもいいところだったようだ」
「私にも私の力がある! 親の知らないところで子供は成長するもんよ……!」
「してないから困ってるんだがねぇ」
愛菜之母の言葉に、社長は肩をすくめていた。追い詰めるはずが、子供の駄々をあやされているような、そんな力量の差を見せられている。
社長の発言から、証拠は確かなもののはずだ。まだ中身は見せていないにも関わらず、それでも認めるほど……。
─────なんで、中身を見せていないのに認めるんだ?
「……なんで中身を見ていないのに、証拠は確かだと言えるんですか」
「誰かに見られても困らないし、そのファイルの中身は娘に見つけてもらうために用意したものだ。実のところ、ようやく見つけたのかと、ため息が出そうなほどだよ」
「なっ……」
俺の質問に、あっさりと返す社長。そして、言葉を失う愛菜之母。
どこまでも上手に立つ社長。どこまでも後手に回される愛菜之母。
突きつけたナイフは、おもちゃでしかなかった。
「その証拠とやらが、君にとっての希望だったかもしれんが……こっちにとっては、クリスマスプレゼントみたいなものさ。君が欲しいものを事前に用意して渡して、喜ばせるためのね」
「……そんなことして、何になるっていうの」
「さぁ、単に我が子の笑顔が見たかっただけじゃないか」
「どこまで人をバカにすれば……!」
憎しみに歪む、愛菜之母の顔。それとは対照的に、社長はのんびりとした手つきでスーツのポケットをいじっていた。
取り出したのはタバコの箱。一本を咥えると、慣れた手つきで火をつけていた。
「これで分かったろう。君は僕の敷いたレールに乗っているにすぎない。そしてそこから外れたりしなければ、君は幸せな人生を送れたということを」
「どこが幸せなのよ……! 愛してる人も失って、その上、嫌いな家族と過ごす日々が……!」
「君がジタバタするから、その愛してる人とやらと出会って、失う羽目になった。全ては君の行いのせいだよ」
紫煙を燻らせる社長は、トントンと灰を落とす。灰は、風に揺られて消えていく。
成り行きを見守る俺たちは、なにもできない。なにをすればいいか分からない。
「さて、宇和神くん。欲しいものは見つかったかな?」
「……俺は、愛菜之と別れたりしません」
「聞き分けが悪いね。最近の若い子っていうのは、みんなそうなのかい?」
肩をすくめ、またタバコを咥える。煙が流れて消えていく数瞬の間が、永遠に感じられた。
愛菜之母の作戦がうまくいかなかったら、俺たちはどうする。なにも考えていなかったわけじゃない、思いつかなかった。それじゃあ、なにも変わらない。
「なにがあっても別れたりはしません。俺は愛菜之と婚約もしています」
「ままごとでもしてるのかい? その歳じゃ、まだ現実的じゃあないね」
「あなたにとってはそうかもしれないですが、俺たちは本気です」
「そうかい、じゃあこっちも手を打とう」
面倒そうにタバコを地面へ、グリグリと押し付ける。携帯灰皿に吸い殻を入れると、俺を見つめながら口を開いた。
「君、両親はどんな仕事をしているのかな?」
「……普通のサラリーマンだったと思いますけど」
唐突にされる、俺の両親の話。あまりに唐突で、だからこそ肚の内に巡る不安。
胃が裏返りそうな、そんな鈍痛が響く。不安はきっと、現実へとなってしまう。そんな予感が頭に鳴り響く。
「君の両親は仕事熱心のようだね。歳の割には地位は高い。大したものだよ、見習いたいね」
「あんた、まさか宇和神くんの……!」
「静かにしてくれるか、僕は宇和神くんと話しているんだ」
愛菜之母の上げる声に、まるで親が言いつけるような制止をかける。愛菜之母が声を上げた、ということが、予感の裏打ちをしているようで恐ろしさすら感じていた。
「君の両親が勤めている会社はね、僕の会社とも関係があるんだ」
次の言葉なんて、予想できる。聞きたくなんてない、それでも耳を塞ぐなんて、逃げ出すなんて、できるわけがない。
誰か、助けてくれ。最後の最後に出た思いは、情けない祈り。
「愛菜之ちゃんと別れなさい。さもなければ、君の両親は誇りを失うことになる」
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