第80話

 とりあえず、さっきの部屋に戻ってきた。血だらけのハンカチに関しては、愛菜之が袋に入れてしまっていた。すごく嬉しそうにしてたから、なにも言えずじまいで、どうすればいいか分からない。


「えへへ……」


 さっきから袋に入ったハンカチを眺めている。鼻血が乾いていて汚いと自分でも感じるが、愛菜之からしたらそうじゃないらしい。

 宝物でも見つめるように、愛菜之はハンカチを眺めていた。どういう感情でいればいいんだ、俺は。


「それ、ちゃんと洗うんだぞ」

「ダメだよ! ちゃんと保管するよ!」

「ええ……?」


 保管ってなんなの……。愛菜之の部屋に冷凍庫あったけど、まさかあれに入れたりしてないよな? 保存って言っても、そんなに本格的なやつじゃないよな? ていうか、なんで部屋に冷凍庫なんかあるんだ? 怖くて中も見れなかったぞ。

 

「何に使うんだよ」

「見たり嗅いだりしゃぶ……」

「わかった、ありがとう。捨てようね」

「絶対にやだ」


 お願いだから捨てて欲しい。そんなことに使いなさんな。冗談抜きで病気になりそうだから、愛菜之の部屋に入って全部捨てとこうかな……。

 大事そうに持っているから、なんだかハンカチに嫉妬してきた。俺だって、宝物みたいに扱われたいもんだ。


「そんなのより本体が目の前にいるぞ」

「触ったり嗅いだりしていいんだ?」

「いくらでもどうぞ」

「やったぁ」


 軽く了承すれば、愛菜之はぴょんと席から離れて俺に引っ付きはじめる。頬擦りしたり、横からギュッと抱きしめてきたり、俺の手を取って、自分の頬に当てたり。

 修学旅行の件から、愛菜之は前よりもスキンシップが増えた気がする。きっとまだ、俺が拒絶したことを気にしているんだろう。


「愛菜之」

「んへ……?」


 手を恋人繋ぎにして、できるだけ優しくキスをする。愛菜之は嬉しそうに顔をゆるませて、キスを受け入れていた。


「これ好き……」

「でも、ここらへんで我慢な」

「やだ、もっとしよ?」

「いつ誰が来るか分かんないだろ?」


 忘れかけているが、俺たちは職場体験という名目でここに来ているんだ。それらしいことをさせてもらってはいないが、だからといってイチャついたりはできない。

 あと、単純にバレたら怖い。ただでさえ許婚がどうとかいう話が出てきているのに、ここで悪手を出したくない。


「バレないならいいの?」

「バレないなら、な。そんなやり方、あればいいけどさ」

「じゃあ、ちょっと待ってね」


 そういって愛菜之は俺から離れ、ドアの前に立つ。ドアノブにガチャガチャと鍵を差し込み、カチリと音を立てさせた。


「はい、鍵かけたよ」

「なぁ、いつどこで鍵を手に入れた?」

「お母さんが借してくれたよ」


 愛菜之母かよ、それなら納得だな! あの人なら、なんだってしでかしそうだな。娘への理解がありすぎるのも困りもんだよ。

 だいたい、なんで内鍵付いてるんだよ。こういうもんなのか? そもそも、鍵をホイホイ借すな。


「ねねっ、イチャイチャしよ?」

「……あんまり過激なのはダメだぞ」

「はーい」


 そう軽い返事をしながら、愛菜之は待ちきれないというようにキスをしてきた。数回、軽いキスをしてから、俺の顔を見つめる。

 俺の両頬に手を添えて、すりすりと擦ってくる。手のひらの温かさに、頬が緩んでいきそうだ。


「鼻血、もう大丈夫?」

「大丈夫だよ。先に仕掛けた俺が悪いしな」

「晴我くんは悪くないよ。何もかも、全部全部私たち以外のものが悪いんだよ」

「世界は敵かよ」


 俺がそんな軽口をいうと、愛菜之は真剣な表情で手に力を込める。

 整った顔に真剣に見つめられると、まるでこっちは怒られているんじゃないかとすら錯覚してしまう。


「そうだよ。私たち以外のもの、全部敵だよ」

「そんなことないだろ」

「晴我くんを傷つけるものは全部敵だよ。私は何があっても許さないから」

「そこまで考えなくても……ぐもっ」


 なだめようとする俺の頬をギュムッと挟み込んで、タコみたいな顔にさせられた。恥ずかしいったらありゃしないから、はやく解放してほしい。


「なにがなんでも、晴我くんを守るよ。私以外のもの、近づけさせたりしない」

「そりゃあ、うれひいな……」

「だからね、晴我くんが私以外のものに近づかないように……私以外のことを、考えられないようにしてあげる」


 愛菜之は俺の顔から手を離し、腕を伸ばして俺を抱きしめる。俺の頭は愛菜之の胸に挟まれて、視界も真っ暗だ。

 愛菜之はそのまま、俺の片方の耳を塞いだ。もう片方の耳は、愛菜之の胸の真ん中に押しつけられていた。


「……聞こえる?」


 トクントクンと脈打つ音が、俺の頭の中でこだましていた。早くもなく遅くもない、単調で面白みもないリズムが、やけに心地いい。


「私の心臓の音、どう? 好き?」


 好きもなにも、ずっと聴いていたいくらいだ。愛菜之の胸に挟まれて、愛菜之の温もりを感じて、愛菜之の音に支配されて。

 こんなに幸せなこと、他にない。


「こうしてるとね。私の心臓が、晴我くんのために動いてるみたいで幸せなんだ。私を生かすためじゃなくて、晴我くんに聴いてもらうために動いてるみたいで、すごく幸せなの」


 愛菜之の心臓が、俺のために動く。俺を安心させるために、俺に聴かせるために。

 トクントクンと響く音が、ひどく愛おしい。この音がずっとと続いて、耳鳴りのように張り付いていて欲しいと思うくらいに。


「私、誰かの許婚になるためでも、誰かの会社を継ぐために生まれたわけでもない」

 

 脈の音に乗る、愛おしい声。

 顔は見えないけれど、手の温かさが教えてくれるような気がした。

 目を瞑って、身を委ねる。愛菜之もそれが分かったのか、ギュッと優しく力を込めてくれた。


「私、晴我くんのために生まれたの。生きて、何かを成し遂げたり、何もない普通の人生を送るためじゃない。晴我くんと一緒に歩んで、老いて、死ぬために生まれてきたの」


 人生を捧げると、捧げるために生まれてきたと。この子は言ってくれる。

 何も持たない俺を、何かができる俺を。好いて、愛し、死ぬことを選んでくれる。

 嬉しい、嬉しくて涙が出そうだ。感情の出口がおかしくなりそうなほどに、幸せだ。


「だから、そのためならなんでもするよ。世界を敵にしたって、全部払いのけて、私たち二人で幸せになるの」

「……ぶはっ。そりゃ無理だって」


 顔を出して、軽く否定すると愛菜之は顔を強張らせていた。愛菜之としては否定されるとは思っていなかったのか、修学旅行の件が引きずっているのか。どっちにしても、こんな表情は見たくない。


「ごめんなさい! 私、また独りよがりなこと言って……」

「違う違う。愛菜之に言われたこと、全部嬉しかったよ」

「じゃあ、どうして無理なの……?」


 愛菜之はまだ怯えているように、瞳を揺らしていた。俺の言葉で安心するかも分からないが、少なくとも不安を減らしてあげることはできる。

 自分でもらしくないことを言うぞと、自虐しながら口を開いた。

 

「……将来的に、増えるかもしんないじゃん」

「……ふぇ?」


 そういってみれば、愛菜之はしばらくポカンとしていた。ようやく意味を理解したころには、耳まで真っ赤にしていた。

 

「こ、子供!? 確かにいっぱい作りたいなって思ってるけど……あっ! 今のはそのっ!」

「分かってるから落ち着いて。俺も変なこと言った自覚あるから」

「変じゃないよ! 将来は結婚して、男の子と女の子一人ずつ……双子でも可愛いかな? ワンちゃんも飼う? でも、晴我くんとの時間が減ったら嫌だし……」


 愛菜之は勝手に、俺を置いて人生設計を立てていく。子供二人に犬まで飼うなら、俺の甲斐性がかなり試される気がするんだけど、今から間に合う保険ってありますか?


「落ち着けって。まずは許婚だとか会社のことを片付けてからだろ」

「消そう! 今すぐ全部!」


 二進数みたいな考え方やめてね? デッドオアアライブにもほどがあるだろ。穏便に過ごそうよ、平和が一番だろ。

 愛菜之はヒートアップしたまま、うんうん考え込んでしまった。変なこと言ったのがまずかったかな……とはいえ、危ない思考から抜け出せたから結果的に良いとも言える。


「愛菜之」

「……ハッ! な、なぁに?」

「さっき言ってくれたこと、全部嬉しかった」


 愛菜之が言ってくれた言葉の全てに、血が躍りそうなほどだった。愛菜之が俺ために生きて、俺のために死ぬ。

 だから、俺も。俺も全てを出したい。


「俺も愛菜之のために生きたい。どんな人生でもいいから、愛菜之と死にたい」

「……晴我、くん」

「俺と死んでください……なんて、物騒だけどさ。そのくらい、好きだから」

「……うん、絶対に晴我くんと一緒に死ぬ。誰にも邪魔させずに、二人で死のうね」


 なかなかに物騒で、なんとも縁起の悪い契り。言葉だけが重くて暗い、二人の表情は明るい。

 刻々と迫るタイムリミット。それでも二人の気持ちを知れたのなら、何物にも代え難い力になる。


 分かれる時は、死ぬ時だけ。その時だけだ。

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