第79話
「晴我くん、大丈夫? 晴我くん!?」
「……あ、ああっ。大丈夫だよ」
呆然としていた。友達だと思っていたやつが、俺のことはただ言われたから付き合ってやっていただけだと。心の底から、嫌いなんだと。
あの目と、声。およそ友達に向けるものじゃあない。
「痛くない? ううん、痛いよね。ごめんね、ごめんね」
「なんで愛菜之が謝るんだよ」
「私、動けなかった。晴我くんの友達だからって、油断してた」
「……もう、友達でもなんでもないよ」
口にして、その事実が重くのしかかる。友達だと思っていたのに、もうアイツは、友達でもなんでもない。もはや、敵ですらある。
膝をついたままの俺に、愛菜之はぎゅっと優しく抱きしめてくれる。鼻血が制服につかないか心配になるけれど、愛菜之の温かさがやけに胸に広がって離れられない。
「……あの男、許さない。晴我くんにひどいことするやつらは、絶対に殺してやる」
殺意を宿した濁った瞳。それとは裏腹に、優しい手つき。血だらけのハンカチを預かりながら、愛菜之の肩を叩く。
「そんな奴ら、殺そうとしないでいいよ」
「でも、晴我くんのことを……!」
「いいんだよ。誰になんて言われても、愛菜之と一緒にいられるならそれでいい」
友達だと思っていた人に、嫌いだと面と向かって言われても。恋人の祖父に、無能だのなんだと言われても。
俺には、愛菜之がいる。愛菜之がいてくれる。
「……私、許婚なんて知らなかった。会社を継ぐとか、そんな話も知らなかった」
「分かってるよ」
「晴我くんがいてくれるなら、私もどうだっていいの。周りのことも、家族のことだってどうでもいい」
どんなに嬉しい言葉だろう。自分のことを、何よりも大切にしてくれる人からの言葉。
負う傷が増えても、優しく包み込んでくれる人がいるから、まだ立ち上がれる。
「……やっぱり俺、愛菜之がいないとダメだな」
おもむろに立ち上がる俺を、心配そうに愛菜之は見つめる。ハンカチを離すと、鼻血はもう止まっていた。
「愛菜之」
「う、うん……」
「絶対に結婚するから」
「……!」
「愛菜之に許婚がいるって聞いて、めちゃくちゃ焦ったよ。そのくらい、愛菜之が好きで。もう離れるなんて想像したくもな……んぶっ!?」
俺の長い告白が始まると思いきや、愛菜之が唇を重ねて止めてきた。
開けてよ、とでも言いたげに舌を唇へ押し当ててくる。今、こんな場所でキスをしてるだけでも危ないのに、舌なんか入れたらとんでもない。
「ぷはっ、舌出して?」
「ダメだって! ここ社長室だぞ!?」
「嬉しくなるこというからだもん! チューしよ? ね? ねーえー?」
「帰ったら! 帰ったらたくさんするって!」
そういうと、愛菜之はようやく離れてくれた。
しめしめと言った感じで満足気な顔をしている。帰宅後の予定まで縛りつけられるなんて、嬉しいったらありゃしない。
「……とりあえず、どうするか考えなきゃだろ」
「お祖父様、消そうかな?」
さっきのイチャつきで元気が出たからか、また物騒なことを言い出した。正直、消してくれた方がありがたいと思ってしまったのは内緒にしておこう。許婚だとか愛菜之のトラウマとか、色々と恨むための理由が多い。
なにより、お祖父様とやらを消したところで、愛菜之のトラウマが消えるわけじゃない。
「それはダメ。他の方法を考えよう」
「そっか……。そういえば、お母さんが何か考えてたみたいだけど、何も聞かされてないね」
「ああ、そういえばそうだな……」
愛菜之母がどうにかするとは言っていたな。確かにあの人ならどうにでもしてしまえそうな気がする。
結局のところ、俺たちがあれこれ模索したって仕方がない。こういう時は、大人しくするに限るか。
「一旦、さっきの部屋に戻るか。ここにいてもしょうがないしな」
「うん、そうだね」
職場見学でこんなことになるとは思わなかった。とりあえず、血に汚れたハンカチを折りたたんで、部屋を出ようとした時だった。
「あっ、ハンカチちょうだい?」
「え? いや、洗って返すよ」
「晴我くんの血がついたから保存しないと」
「え?」
「え?」
お互いの声と共に、部屋に静寂が走る。愛菜之はキョトンとした顔で、俺は混乱した顔で。
平常運転なのはいいことなのか、悪いことなのやら。俺たちらしいといえば俺たちらしいが。
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