第64話
その日は何もせずに寝た。風呂も飯も、スマホを見たり荷物を出すのも億劫で、ベッドに倒れ込むようにして寝ていた。
何もしていないはずなのに、どっと疲れた。
夢を見ないで済んだのはありがたかった。それくらい、俺は深い眠りについた。あんなことがあったから、しょうがない。
苦渋の決断とはいえ、ここまで苦しいものとは思わなかった。言わなければ、言わないままならどれだけよかっただろう。
けれど、これも全て。
全ては、愛菜之のためだった。
「……」
早めに寝たからか、スマホのアラームが鳴る前に起きてしまった。スマホのアラームを消して、枕に顔を埋める。
朝の凍りついた空気を追い払うように、布団を深く被る。もう一眠りしようと思っていたのに、寒気というのは恐ろしいもので。
「はぁ……」
布団を蹴っ飛ばすように退けて、ベッドから降りる。頭をかきながらスマホを見て、トイレへと向かおうとした。
「は……?」
足首の鎖に気付いたのは、その時だった。
「おはよう、晴我くん」
昨日別れたはずの彼女が、目の前にいた。
部屋の隅でしゃがみ込んだ彼女は、顔をあげて俺を見つめる。そんな彼女の目元は泣きじゃくって腫れていた、寝ていないのかクマもできていた。
愛菜之はこういうことには敏感だと思っていた。少し太ったりしただけで気にするし、髪を少し切る時ですら俺に確認してくる。
たぶん、俺に嫌われることが嫌だから。
「朝ごはん作るね。用意するの、忘れてたから……」
フラリと立ち上がると、弱々しくドアノブに手をかける。手は小刻みに震えて、指先はかじかんでいるのが見てわかるほどだった。
そんな状態で、朝ごはんを用意しようとしている。倒れるのが先か、ぼーっとして
「愛菜之」
名前を呼ぶと、ピクリと手が跳ねる。
ゆっくりと振り向く彼女の顔は、なにかに取り憑かれているかのように、ひどくやつれていた。
それでも俺に呼ばれたことが嬉しいのか、いつもみたいにとびきりの笑顔を見せてくれる。
「なぁに?」
ただ止めるために名前を呼んだだけだ。その後のことなんて考えていない。
それでも、触れれば折れそうなほどに儚げな彼女を放ってはおけない。俺は、この子の元……恋人だから。
ゆっくり近づいて、愛菜之を抱きしめる。こんなの許されないけれど、言葉が見つからないからこうするしかなかった。
「……嬉しい」
顔は見えないけれど、その声色に含まれた感情に嘘はない。そう思えるほど、愛菜之の体が瞬間的に熱くなっていた。
久しぶり……といっても、半日くらいしか会っていない。なのに、それだけで心も身体も大きく荒んでしまっていた。
愛菜之のことを言えないな、と心の中で笑う。
「あったかいなぁ」
嬉しそうに呟き、しがみつく彼女が愛おしい。別れたばかりなのに、どうしてこんなに愛おしさが止まらないんだろう。
別れたくない、一緒にいたい、愛し合いたい。
欲望ばかりが胸の内をうずまく。この子のためなら、なんでもすると誓ったはずなのに。
「愛菜之」
「うん」
「……もう、これっきりにしよう」
また、こんなことを言わなくちゃいけないのか。また、苦しめないといけないのか。
運命なんてなんとも思っちゃいないし、あるかも分からない。あるとしたら、呪ってやろうとすら思える。
「愛菜之のためだから。だから、別れよう」
「……私のこと、好き?」
「好きだよ」
「なら、付き合ったままでいいでしょ? 私のためなんていいから、付き合お? 幸せなままでいよ?」
「……ダメだよ。別れないといけないんだ」
俺がいるから愛菜之は過去を振り切れない。俺は、愛菜之の母親と約束したんだ。
愛菜之を救う、愛菜之を助けるって。
「別れたくないよ、別れたくないよっ」
「別れるよ。何があっても」
「その足の枷、私しか外せないよ。別れないって言わないと外してあげない」
交換条件にしてはかなり重いものを出された。俺は生活がかかって、愛菜之には俺という存在がかかっている。
天秤にかけると、どちらに傾くかなんて一目瞭然だ。だが、愛菜之は何があっても諦めなさそうだ。
「お世話は任せて? ご飯もお風呂もお手洗いのお世話もするよ。晴我くんが私から離れないなら、解放してあげる」
冬の朝だというのに、頬に一筋の汗が流れる。
愛菜之の目には決意が宿っている。俺の付け焼き刃な口八丁じゃどうにもならなさそうだ。
「面倒な女に捕まっちゃったね」
「いや、最高の彼女だけど……」
「あっ、彼女って言った。付き合ってくれる?」
「無理だな……」
胸の中でコロコロと表情が変わる彼女を見ていると、さっきまでの様子が嘘みたいだ。けれど、その体は小刻みに震えている。
もしや、ずっと部屋の隅で俺を見ていたのか。だとしたら、指先の冷たさも震えも頷ける。
「とにかく別れよう」
「やだ」
「別れるんだ」
「やだっ」
物分かりが悪い、というより今までの愛菜之が物分かりが良すぎたというか。
分かってくれない愛菜之に焦ってしまう。ここで別れておかないと、俺はもう二度と別れようなんて言えない。
「俺は、愛菜之と別れたいんだよ」
「……っ」
そう言い切ると、愛菜之は顔を歪めた。
今にも泣き出しそうな、崩れそうな表情をしていた。
俺は酷いこと言ったんだと、改めて自覚してしまう。理解してしまわないようにしていたのに、まるで針を飲まされるように体の芯を痛みが貫く。
「……ねぇ、晴我くん。私ってね、すごくめんどくさい女なんだよ」
愛菜之はそういって、俺から離れる。
温もりがなくなり、彼女の匂いも遠くなってしまう。名残惜しくも愛おしい、彼女を感じるものが離れていく。
「これ、なんでしょうか」
なぞなぞでも出すような軽さで、彼女は着ていたジャージのポケットからカッターナイフを取り出す。
カチカチと刃が出ていく。暗がりでもぬらりと光る刃が、俺へと向かって伸びてくる。
「これはね、色んな悪いものを断ち切れるの。悪い女も、うざったい外の世界も」
伸びた刃が、ゆっくりと
その先には、愛菜之がいる。
「晴我くんは優しいから」
愛菜之の首に、刃が寄りそう。
引けば何もかもを切り裂いてしまうようなナイフ。恐ろしいのに綺麗とすら思える。それが、そのナイフの性能を表していた。
「こんな悪い女も、切れないでしょ?」
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