第65話
別れを切り出せばどうなるかは分かっていた。きっと良くないことが起こると。
それでも、愛菜之のためだから。そう自分に言い聞かせていた。なのに、目の前にあるこの光景は。
いったい、どうすればいいんだ。
『私ってワガママなんだよ』
いつか愛菜之に言われた言葉を思い出す。なるほど、確かにワガママだ。俺と別れたくないからって、自分の命を引き合いに出されるなんて思いもしなかった。
少なくとも、愛菜之を傷つけるとは分かっていた。心に身体に、癒えぬ傷をつけるかもしれないと覚悟していた。それが傷つけるどころか、命一つさえ奪いかねないことになるなんて。
「愛菜之、それ降ろして」
「ダメだよ、付き合うって言ってくれないとダメ」
ダメなんて軽く言うが、鏡を見せて説教してやりたい。
今、どんなに恐ろしい格好になっているか。命を扱う人間の怖さ、なんて言うのだろうか。
そこに握られている命は、愛菜之のもの。なのに、まるで俺が首根っこを掴まれている気分だ。
「なんでもする、だからそれだけはやめてくれ」
「なんでも? じゃあ付き合うって言って」
「それだけはできないな」
アレをして、じゃあこうして、それはダメ。
繰り返す意味のない問答。それでも、なにもしないよりはマシだ。
とにかく、愛菜之が間違いを犯さないように。悲劇を起こさないように。
「キスでもハグでもなんでも。俺にできることならするから」
「ダメだよ。それもしてもらうけど、付き合うって言ってくれなきゃ」
してほしいんだ、なんてどこかで安堵する。まだ愛菜之は、俺のことを好きだって知れて安心していた。
けれど、だからこそ別れないといけない。過去を思い出してしまう原因の中で、一番大きいのはたぶん、俺だから。
「愛菜之のためを思ってのことなんだ。だから、頼む」
「私のことを思うなら、付き合うって言って? じゃないと死んじゃうよ」
心臓がドクンと跳ねる。死ぬ、なんて言葉でしっかりとリアクションを取ってしまった俺に、愛菜之は嬉しそうに笑っていた。
「私が死んじゃうの、嫌なんだ?」
「嫌に決まってるだろ、愛菜之のこと好きなんだぞ」
「えへへ……」
ニヤニヤ笑っている姿も、手元のナイフさえなければどんなに可愛かっただろう。
とはいえ、今までのやり取りのおかげか、愛菜之の心持ちは少し安定している。今なら少し、攻めっ気のある行動をしてもいいかもしれない。
「愛菜之を傷つけたくない。だからほら、それをこっちに……」
そういって歩み寄ると、愛菜之は顔を強張らせた。
まるで俺を拒否するように。そんなこと、今まで初めてだった。
「言ってもらうまでは、なにがなんでも離さないから」
拒否される側の気持ちを少し知れた、気がする。
かなり心が重い、こんなの何度も経験したくはない。そう思うくらいだ。
こんなことを何度も愛菜之に突きつけていたのか? そう思うと、自分が悪魔にでも見えてくる。
また振り出しに戻ってしまった。このままじゃ、どうやったって上手くいかない。
俺一人じゃ何にもできやしない。あの頃と同じだ、中学生の頃と、全く同じだ。
救っちゃいない、愛菜之の勘違いだ。あの頃、ただ自分勝手にかけた言葉が愛菜之に絡みついているだけだ。
今と昔に挟まれて、苛まれて。俺は、どうすればいいんだ。
「……私ね、晴我くんがどうして悩んでるか分かんないだ」
俺を見かねてか、愛菜之は優しくそう言ってくる。いつだってこの子は、俺が悩んでいれば優しく声をかけてくる。
「前……愛菜兎の時も、一人でどうにかしようってしてたでしょ? ホントは、頼って欲しかったんだ」
あの時だって、俺一人でどうにかできたわけでもない。愛菜之が支えてくれたから、愛菜之がいたから頑張ろうと思えた。
「私が力になれるか分かんない。でも、晴我くんのためならなんでもするよ。好きだから、愛してるから」
愛菜之の手が震える。涙が頬を伝う。
泣きながら笑う彼女は、どこまでも眩しい。
「二人でなら、どうにかできるよ……? だからお願い。別れるなんて、言わないで……」
そういって、彼女の顔から雫が流れ落ちていく。
俺はいつだって彼女を泣かしてしまう、傷つけてしまう。
泣かしに泣かして、傷つけて。それでも好きで、離れたくない。
「……散々、別れるって言ったけどさ」
俺はどこまでも弱くて、醜い。なんにもできやしない。
こんな俺じゃ愛菜之の隣は釣り合わない。天秤にかければ、俺はどこかへ飛んでいくほど軽い男かもしれない。
「愛菜之と別れたくない」
「……!」
愛菜之がいないと、なんにもできやしない。
けれど、愛菜之がいれば。なんだってできる、なんだってやれる。
俺には、愛菜之が必要だ。
「愛菜之のこと、助けなきゃなのに。でも付き合いたい、好きでどうかなりそうだよ」
「うんっ……!」
「結婚だってしたい、この先ずっと一緒にいたい」
「うん、うん……!」
愛菜之の手から、ナイフが離れる。代わりに、俺の手を握ってもらう。
たった一日離れただけなのに、やけに久しぶりな気がしてしまう。柔らかくて、細くて、温かい。
「もう一回、付き合んぐっ」
「〜っ!」
言い切るまでに口を塞がれた。俺よりよっぽどイケメンなことをしてくるから敵わない。
久しぶりにしたキスは、いつもより甘くて、ずっとしていたいくらいだった。
「最後まで言わせてよ」
「好き、ずっとずーっと大好き! 好き好き!」
好き好き攻撃でまた口を塞がれた。お互いに離す気がないから、また長いキスになってしまった。
匂いも感触も、何もかもが愛おしい。そうだ、これが足りなかったと体が喜んでいる。
「えへへ、仲直り記念のえっちしよ? ねっ?」
「待って、昨日風呂入り忘れてる……」
やばい、匂いとか気になってきた。こんなんで愛菜之とキスだのハグだのしてたのか。申し訳なくすらなってきた。
愛菜之から離れようとしても、愛菜之は離そうとはしてくれない。
「晴我くんの匂い……」
「待って、絶対ダメ。離れて」
「やだよ〜」
こりゃ困ったと鼻の下を伸ばしていると、愛菜之はハッと何かに気づいて俺から離れる。
そんなに臭うかと不安になっていると、愛菜之は顔を赤くしながら手を袖で隠していた。
「わ、私も昨日入ってない……」
……仲良くお風呂に入ったあと。
しっかり、『仲直り』をした。
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