第63話
その後、どうやって過ごしたかはあまりよく覚えていない。お互いに言葉を交わすことすら怖がっていたかもしれない。
今となっては、もう分からない。彼女の考えていることも、思う気持ちすらも。
帰りの新幹線ですら、隣に座ることが怖かった。世界から逃げるように目を瞑って、イヤホンを深く耳に挿して、夢の中で浮かんでいた。
『俺なら離れない』
輪郭をもたない自分の声。目の前の景色すらあやふやなのに、懐かしさを感じる。
ああ、これは夢だ。俺が逃げたかったものなのに、それでも追いかけてくるのか。
『俺のためだけ、なんてダメか?』
恥ずかしいセリフだと、自嘲気味に笑う。B級映画でも、もっとマシなセリフを思いつくだろう。
こんなことを言うんじゃなかった。こんなことを言ってしまったから、愛菜之を縛り付ける羽目になった。
人の弱みにつけ込んで、一人の人生を縛って。俺には荷が重い、俺には相応しくない。
慰めのつもりだった、軽い気持ちだった。
そんな言い訳じゃどうにもならないほどの呪い。あるいは枷。
それに縛られ続ける、笑顔の愛菜之。
「……ッ!」
目を見開く。目の前には新幹線の席があるだけだった。
ガヤガヤと騒がしい車内の声が、イヤホンを貫通する。ため息を薄く吐きながら、スマホの音量ボタンをガチガチと乱暴に連打する。
音漏れしたって構わない。今はここから逃げられるならなんでもいい。
『ねぇお願い、一緒にいて……』
いつも聴いていたはずの曲が、いやに耳をつんざく。好きな曲だったはずなのに、今は煩わしさすら感じる。
眠ったところで、結局はまたあの夢を見る。けれど、その場しのぎの逃げ場でいい。
もう、何もかもが嫌だった。
駅に着くと、その場で解散となった。みんな、この後の予定を話しながら楽しそうに帰っていく。カラオケに誘われたりもしたけど、愛菜之がいるからと適当に断った。
駅の端に立つ愛菜之のほうを見やると、不安そうに俺を見つめていた。
今の俺に、愛菜之の隣に立つ資格はない。今の、ではなく今までだってそうだけれど。
「宇和神、なにしてんだ」
「宇和神くんもカラオケ行くの?」
修学旅行中に同じ班だった二人が話しかけてくる。二人もカラオケに誘われたらしい、誰も先生の指示通りにまっすぐ帰るつもりはないらしい。
「いや、行かない」
「そっか。二人は帰ってお家デートだもんね」
俺と愛菜之がセットとして扱われている。いつものことだが、今は胸が苦しくなるだけだ。
愛菜之のほうをチラリと見やると、それに気づいたのか、ビクッと肩を跳ねさせる。
そんな俺たちを見ながら、意外そうな顔で聞いてくる。
「喧嘩でもしたの?」
「そんなんじゃないよ。ほら、二人とも行かないと他のやつら待ってるぞ」
同じクラスのヤツらがこっちを見て手を振っている。こんなところで、二人の時間を奪うのも悪い。
二人とも、ヒラヒラと手を振りながら離れていく。俺も行けばよかったかも、なんて後悔が少しよぎる。
ほとんどの生徒が消え、残るは先生たちと俺と愛菜之。一緒に帰るなんて約束もしていないから、このまま帰ったっていい。
けれど、そんな不安そうな顔をされると帰るに帰れない。
「……送るよ」
一言、そう伝えるだけで嬉しそうな顔をする。
ああ、可愛らしくて愛おしい。けれど、今はそれが体に毒だった。
帰り道、一言も発さない。というよりは分からなかった。なにを言えばいいのか、なにを伝えればいいのか。
手も繋がない、腕に抱きつかれない、それだけなのに遠く感じる。今までの触れ合いで築いてきたものは、こんなに脆く大切なものだったのか。
「道、違うよ……」
ポツリと呟くような言い方に、遠慮していることが窺える。彼女のほうを見るのが怖い、その表情になにを浮かべているかも分からない。
いつもはどんな顔をしていた、どんな手の形をしていた、どんな温かさをしていた。
……もう、分からない。
「俺は俺の家に帰る。愛菜之は、愛菜之の家に帰るんだ」
「二人のお家があるよ。二人だけの、お家が……」
「もうやめよう」
言葉を遮る。空に輝く月が綺麗で、なんだかムカつく。
口を開いて、声を出すだけなのに。それだけなのに、やけに重く感じる。
「あの時の約束に、縛られるのはやめよう」
「……思い、出したの?」
「あれは気の迷いだよ。愛菜之が考えているくらい、俺は気持ちを込めちゃいなかった」
愛菜之の言葉には返さず、つらつらと言葉を続ける。
あの時の約束。お互い、高校で再会しようという約束。
まさかここまで手を伸ばしてくるとは思わなかった。どこかで忘れ去られて、お互いの道を行くんだと思っていた。
それくらい、軽い気持ちだった。
「うそ、嘘だよ。だってこの高校に来てくれた。私に告白してくれたよ」
「……それも気の迷いだよ。あの時は愛菜之のこと、思い出してなかったから」
この高校に来たのだって、気まぐれだ。そうに違いない。
あの時、すぐに思い出していられれば。こんなことにはならなかった。この子の人生を狂わせることにはならなかった。
「じゃ、じゃあ私のこと好きなんだよね? 約束は抜きにしても、好きでいてくれてるんだよね?」
「好きだよ」
「じゃ、じゃあ!」
「だから、もうやめよう」
好きな子が幸せになってほしい。過去に縛られることなく、未来に期待して、今を楽しんで欲しい。
そのために、俺という過去が邪魔しちゃいけない。
「俺に縛られるにはもったいないよ。やっぱり、俺じゃ釣り合わない」
「……何言ってるの? 釣り合うとか、どうでもっ……」
「ごめん。今まで散々、世話になったけど」
謝ってばかりだ、それだけのことをした。
二度も言いたくない。こんなこと、言うたびに吐き気が込み上げてくる。
「別れよう。俺たちは、別れなきゃダメだ」
「……やだ、やだよ。恋人らしいこと、いっぱいしたよ。婚約もしたよ、死ぬまで一緒って約束したよ」
「うん、それでも別れよう」
「やだっ!」
悲鳴のような声が、耳を貫く。その声に込められたものが、どれだけ彼女を縛っていたかを表していた。
それでも、俺たちは別れないといけない。愛菜之が過去から抜け出せるように。
愛菜之のお父さんの、悲劇から抜け出せるように。
「今までありがとう、それとごめん」
「やだ、やだっ!」
「楽しかった、幸せだった」
「やだ、ずっと一緒! だったじゃないもん!」
泣きじゃくる愛菜之を抱きしめることも叶わない。自分の好きな子を自分の意思で泣かせるなんて、飛んだ生き地獄だ。
それでも、愛菜之があの地獄に囚われ続けるよりはマシだ。
「約束、守れなくてごめん」
「約束なんて知らない! すき、晴我くんが好き! だから、行かないで……!」
子供のように泣く彼女の顔を、辛そうに喘ぐ彼女の姿を。
ついに見ることは、できなかった。
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