第47話

 口移しで物を食べることが絶対になってしまった。

 前はポテチとか軽いものは自分で食べてたし、飲み物を飲むとかは自分でしていたのに。

「愛菜之、喉乾いた」

「じゃっ、物陰行こっか」

 嬉々として物陰に移動する愛菜之の後ろをついていきながら息を吐く。夏の暑苦しい空気に溶けて消えた息の行方は知らぬまま。

 俺の視線も、ぼやっと愛菜之を追いかけるだけだった。

「どうしたの? またあの女?」

「ボーッてしてただけね……」

「そうなの? 邪魔ならいつでも消すからね?」

 ツイートを消す感覚で人を消すって言うのやめない? そのイー◯ン・マスクならぬ甘いマスクから飛び出る残酷な言葉をしまいなさい。

「愛菜之にゾッコンだから消す必要もないかなぁ」

「えへへ、嬉しっ」

 朗らかに笑う彼女は、思い出したようにクピクピと水筒の中身を口に含む。

 そしてそのまま、俺に顔を向けてきた。

「んふふっ」

「いただきます」

 口を合わせて口の中の液体をもらう。よく冷えていた水筒の中身は麦茶だったようで、愛菜之の体温と唾液のおかげでちょうどいい温度になっていた。

 物陰にいるとはいえ、完璧な死角とはいえない。時間もかけてられないので、大した量でもない麦茶を飲み干していく。

 最後にお互いがお互いの口端を舐め取って、この儀式のような水分補給を終えた。

「美味し?」

「オアシスの水くらい美味かった」

「よくわかんないや」

 そういってクスクス笑う彼女からパッと離れて、なんにもしてませんよーなんて空気を出しておく。万が一目撃者がいても見間違いだと思っていて欲しい。愛菜之が消しに来るかもしれんからな。

「外じゃイチャイチャできないね」

「十分じゃないか?」

 本当は十分じゃないけどな。家じゃこんなもんで済ましてないからな。

 そんな嘘はバレバレというか、愛菜之も俺の気持ちを察してくれていた。『外では』 十分だってことを。

「十分、だね」

 可愛らしい笑顔を浮かべ、絡めたお互いの手の人差し指をもっと強く、絡め合わせた。


「終わっだー……」

 暑い中で外に待機させる意味はなんなんだ。せめてどっかに扇風機くらいは置いといてくれ。業務用のでっかいやつ。だいたい運動部が占領してるやつ。

「お疲れ様。帰ったらアイスあるよ」

「……一応聞くけど、口移し?」

「しないの?」

 マジ? みたいな目で見られてもね。してくれるのか確認を取っただけなんだけど。

 俺だって口移ししてもらわないと困るってくらい、もう虜になってるんだから。

「してほしいから聞いただけ」

「してほしい、の?」

「してほしい」

 素直に言ってみれば、愛菜之はにへっと顔を緩ませる。こんなに可愛い彼女にしてほしくないなんて贅沢なこと言うやついるのか?

 そんなわけで、口移しは必ずすることになりましたとさ。めでたし、めでたし。

「口で溶かしてほぐして、いっーぱい食べさせてあげるね」

 そんなこと言われて煽られたりしたら、俺はそれしか考えられない腑抜けにされてしまう。

 愛菜之の唇へと視線が釘付けになる。桜色のぷるっとした、弾力がありそうで、触れてみれば包み込むようにふんわりとしている。

「そんなに見られると恥ずかしいな」

 頬をほんのりと赤く染めながら、どこか嬉しそうに笑う。そんな愛菜之を見ていると、尚更その可愛い口が気になる。

 キスをするたびにうねる舌の感触、温かくてぬめりとしているのに、不快感はなくてむしろ快感すら感じるような。

「……キス、する?」

 あまりに見つめすぎていたからか、愛菜之がそんなことを言い出す。幸い、ここらは人通りも少ない路地だったのでキスをしてもいいんだが……。

「しない」

「そ、そっか……」

 途端にシュンとしだす愛菜之。別にしたくないってわけじゃなくてだなぁ。ちょーっと俺に拒否されるだけでこんなになるんだから、可愛いったらありゃせんわな。

「我慢した分だけ最初のキスが嬉しくなるだろ?」

「……何回しても嬉しいもん」

「そりゃそうか」

 だからって、ここでしたらその気になりかねない。俺だって理性無限の聖人君子じゃないんだぞ。

 そういうわけで、ここは我慢。さっさと帰ってコトにしゃれ込みましょうやぁ……。

「一回だけ、一回だけしよ?」

「……」

 結局、三回した。




「ねっ、あれが例の先輩?」

 そういって、ビニールシートに座り込んでいる先輩を指さす。

 あたしの好きな人だ。あの夏、あんなことがあったのに、まだ好きでいる。

 我ながらあたしってバカだなって思う。またあんな目にあうかもしれないのに、先輩にあんな顔させたのに。

 それでも、好きって気持ちがまだ収まらない。

 義務感もあるかもしれない、先輩を取り戻したい気持ちがあるかもしれない。でも、あたしはいつからこんなに。

 先輩を、本気で好きになってしまったんだろう。




「……こん前の試合、勝ったのか?」

「は?」

 突然話しかけられれば、誰だってこんな対応になるもんだと思う。しかも初対面の、誰かも分からない冴えない男子に。

 その時は、先輩だなんて知らなかった。

「アンタ、誰?」

「二年の宇和神晴我」

「先輩かよ」

「てことは一年か? じゃあ敬え敬え」

 軽い口調でそう言って、ひらひらと手を振る。こんなのでも歳が一個違えば敬語を使わないといけないから、面倒ったらありゃしない。

「アンタのこと、敬えるほど知ってないンすけど」

「こっちが一方的に見てたからな」

「……え、無理なンすけど。ストーカーとか? 見るからにモテなさそうだし」

「けっこう心にくるからやめて」

 普通に気持ち悪かった。なに、一方的に見てたって。あたし、こんなのタイプじゃないし。ていうか恋愛とか考えられる余裕ない。

 あたしの恋人は当分、バスケだけだから。

「で、こん前の試合は?」

「負けましたけど」

「そか、まぁてきとうに頑張れよ」

 明後日の方を見ながら、先輩はそう呟く。まるで気のない応援に、私は元気付けられるどころか怒りすら覚えた。

「適当ってなんすか? バカにしてンなら殴りますよ?」

「お前、日頃から頑張ってるだろ。だから適当に、だ」

「はぁ?」

 日頃からって……どういうことだろう。あたしは別に普段から何かしてるってわけでもないのに。

 心当たりがないまま、先輩を睨む。先輩は苦笑いしながら、あたしに言った。

「お前だけだったろ、真面目に練習してんの」

 ……初めてだった。周りの人たちだって気づいてる人はいたかもしれない。けれど、そう言ってくれたのは。

 面と向かって、頑張ってるって言ってくれたのは、先輩だけだった。


 それから、何日も何ヶ月も経って。

「先輩、試合見に来るんすか?」

「や、見には行かないが……」

「そっすか」

 正直、来て欲しいなって思う。それくらい、この時は先輩のことが気に入ってた。

 この頃から、後輩らしい可愛げなんてなかったと思う。まるで男友達みたいな接し方だったし、後輩にしちゃ生意気すぎるような振る舞いだったと思う。

「なンすか、あたしの試合には興味ないってことすか」

「そういうわけじゃない」

 先輩は嘘を言ってない。実際、試合があるたびに結果を聞いてくれた。

 確かに試合を見に来てくれるのは友達だとか、家族だとかが普通で。学校の先輩、しかも異性のなんて、変な誤解を生みかねない。

 実際、あたしのお兄ちゃんが来ただけで彼氏なんか連れてきてる、なんて変なやっかみをされたりした。

「ま、期待しててくださいよ。頑張りますンで」

「ほどほどにしとけよ。普段から頑張ってんだから」

「ほどほどじゃダメなンすよ」

 あたしはもっと頑張りたい。期待してくれる人のために、この人のために。

 もっとやれる、頑張れる。けど、ちょっとだけ頑張るための栄養をください。

「……先輩って好きな人います?」

「なに急に。いるけど」

 あっさりと教えてくれた。あたしはかなり勇気を出して聞いたのに、先輩はなにか怪しむみたいな顔してる。

「またからかいの材料にでもすんのか? ご勘弁ご勘弁」

「気になるから聞いただけっすよ。こっちだって年頃の乙女なンですけど」

「あら、そうですか」

 先輩はジトっとした目であたしを見て、あたしはそれを睨んで。

 すごく楽しくて、青春ってこういうことなのかなって。そんなクサイこと考えたりして、本当に楽しかった。

 こんな関係がバスケ部の人にバレなくて良かったって思う。最後までバレなかったのは奇跡かもしれないけど、部活のみんなはあたしに興味なかったのかもしれない。

「で、その好きな人って誰すか?」

 また勇気を出して、聞いた。クラスの誰か? 知らない人? それとも、他校の人?

 それとも、あたし?

 淡い期待、自覚していない胸の弾み。

 不思議と息がしづらくて、頰が熱くて。


「ずっと前に付き合おうって約束した人」


 全部、瞬きの間に冷めてしまうなんて。

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