第46話

 うちの学校は自由というか放任主義なもんで、生徒用のテントはあるものの必ずそこで待機ってわけでもなかった。

 おかげさまで愛菜之が取っておいてくれた場所でゆっくりとできる。ちょうど日陰で、風通しもいい。

「お菓子持ってきたよ。食べる?」

「ん、ありがと。もらうよ」

 レモン味の塩タブレットを一つもらう。これ、結構好きです。食べすぎると舌が痺れるけどな。

 愛菜之が続けて水筒から冷えた麦茶をくれる。外だからできないけど、本当なら口移しで飲めたんだよなぁ。

 人もそんなに少ない場所で、周りにはちらほら人がいるくらい。どうやってこんな穴場を見つけたかは知らないが、毎度愛菜之のリサーチ力には頭が下がる。

「お母様、来たかったって残念がってたよ」

「息子に言え息子に」

 なんで愛菜之に愚痴ってんだ。俺に言っとけそういうことは。そんな家族間の話、愛菜之だってされたら困るだけだろ。

 なんて思っていたが、愛菜之は嬉しそうに笑っていた。

「お母様がこんなに気を許してくれてるんだって嬉しくなっちゃった。私、義理の娘としてうまくやれてるんだって」

 気が早くない? って思ったけど、愛菜之と母さんが仲良くしてるのは俺としても嬉しい。しゅうとめと義娘の仲は良いに限る。

 気が早いもなにも、結婚を誓い合って付き合ってるわけだから自覚を持たないとな。

「早く結婚したいね」

「俺も愛菜之を嫁ですって言ってみたいよ」

 なんて小っ恥ずかしいことを言ってみると、愛菜之はポンッと顔を赤くする。愛菜之百面相は未だ健在。

「……も、もう一回言って?」

「愛菜之は俺の嫁」

 ストレートに言ってみるとオタク臭が強くなった。でも事実ですしおすし。

 まぁ、愛菜之が喜んでるみたいだし良くね。さっきから熱中症を疑うくらい顔を真っ赤にしてにへにへ笑ってる。

「は、晴我くんのお嫁さん。お嫁さん……」

 ブツブツそんなことを言っては、嬉しそうに頬を緩めている。可愛いわこの子、さすが俺の嫁。マジで結婚したい。

「お嫁さんが出る種目はいつぐらいなんだ?」

「え、えっとね! 次の次……くらいかな?」

「じゃ、夫としてちゃんと見とくから」

「う、うん!」

 歯の浮くようなセリフもすらすら言える。成長したというか麻痺したというか。

 照れ隠しに愛菜之の頭をポムポム撫でると、真っ赤な顔を向けて嬉しそうに笑ってくれた。




「……ふあぁ」

 早めの移動をしておけってことで、二種目前から整列させられることになった。おかげで愛菜之とは離れ離れ、ぼっちの俺はやることなし。

 有人でもイジってあそぼうかと思ったけど、アイツはアイツで友達がいるらしくて仲良く談笑なんぞしていた。べ、別に嫉妬なんてしてないんだからね!

 とはいえ、なんだかんだ自覚する。やっぱり俺は異常というか、はみ出しモノであることを。

 彼女……愛菜之がいなければ、こういうことにはならなかったかもしれない。普通に友達ができて、友達と遊んで、友達と話して。

 数少ない友達……有人や表は他にも友達がいて、俺はその中の一人にすぎない。

 愛菜之と出会わなければ、もっと普通の人生だったかもしれない。こんなに身も心も縛られた生活はなかった。

 ……でも、俺は。

 もう愛菜之がいないと生きていけない。愛菜之と出会わなかった人生なんて考えたくもない。

 それくらい愛菜之が好きで大事で大切で。

 きっと、どう足掻いてもこの人生を迎えることになっていたんだと。

 そう、確信していた。




『次の種目は一年生女子によります、徒競走です……』

 ワンワンと耳に響くスピーカーの音声、他の人たちの、ましてや他学年の種目なんて学年別種目以外に興味はない。

 しかし、この種目には。唯一の俺の知り合いが出ていた。


「……はっやいのな」

 しなやかなふくらはぎの筋肉。それがバネのように身体を前へ前へと進める。

 ちみちみと体力作りに筋トレをやっているような俺のエセ筋肉とは違って、スポーツをやっている人の筋肉は使われている分、無駄が削られ芸術品のような美しさを持っていた。

 大して息も切らしていない裏愛が、悠々と一位の待機列に並ぶ。

 同組の女子は一応見せかけでは真剣に走っていたものの、半ば諦めているというか、アピールチャンスとでも思ってるのか、ヨチヨチなんて言葉がお似合いの走りをする人もいた。

 ベリーショートの髪がよく似合うアイツは、同じ部活の仲間らしき子とグータッチなんてしていた。……元気にやってるようで良かった。

 正直なところ、俺はもう裏愛とは関わり合いにはなれない。俺からコンタクトを取ろうとすることもないし、取ろうとしても愛菜之が止めるだろう。

 そして裏愛からのコンタクトも愛菜之が止める。そもそも裏愛からコンタクトが来ることはもうない。


 あの日、月がよく見えたあの夜。月明かりのせいでひどく儚げに見えた後輩との関係は。


 泡みたいに、消えてなくなったんだと。




「お疲れさん。愛菜之も足速いな」

 愛菜之が帰ってきた。去年と同じく、一位をとってきた愛菜之の頭を撫でてあげる。

 愛菜之は嬉しそうに笑うでもなく、恥ずかしがるでもなく、ただ無表情に俺の胸に体を預けた。

「愛菜之? 具合悪いのか?」

「……またあの女、見てた」

 裏愛のことだ。というより、裏愛以外に関わりのある子なんてそうそういない。愛菜之が整列してる時、俺のことを見て気づいたんだろう。

 また俺は、愛菜之を不安にさせてしまったらしい。いつまでたっても愛菜之に相応しくはなれないんだろうか。

「ごめん、元気にしてるか気になっただけでさ。深い意味はないんだ」

「……私、晴我くんの一番がいい」

 一番……もう愛菜之は、俺の中の一番になっている。何があっても浮かぶのは愛菜之だし、愛菜之の隣が一番落ち着くし、愛菜之と一緒にいるのが一番楽しい。

 そう伝えようとした。けれど、それより先に愛菜之がグッと抱きしめる力を強くする。

 ドクンッと胸が跳ねる。愛菜之の瞳には一切の光すらなかった。夜空のような黒い瞳。底なしの沼へ引きずり込まれるように、その瞳へ見入ってしまう。

 頬に伝う汗は暑さのせいか、愛菜之のせいか。

「私、やっぱりわがままだ。晴我くんが考えること全部、私じゃないと嫌になっちゃった」

 可愛らしいワガママとは裏腹に、目に込められる恨みも想いも、そこらのものとは質が違う。

 これだ、愛菜之のこれがひどく恐ろしくて、でも魅力的で。

「あの女を殺したい、すごく殺したい。でも、そんなことしたらもっとあの女が頭に残っちゃう」

 抱えている感情の矛盾、殺したい、殺しちゃいけない。愛菜之の言う通りで、きっと裏愛がいなくなれば尚のこと気にしてしまうだろう。

「わかんない、わかんない。私、晴我くんの一番がいい、一番になりたい……」

 そう言ってまた、俺の胸に顔をうずめた。

 側から見ればイチャイチャしてるようにも見えるだろうが、当人の俺たちにとってはイチャイチャなんてものじゃなかった。

 どうしたもんかと頭を撫でてやりながら空を仰ぐ。快晴の空に呑気なもんだと一人ごちても、空が俺たちの代わりに暗くなるわけでもない。

 そんな時に、正午の知らせの鐘は鳴った。

『これより、お昼の休憩に入ります。生徒の皆さんは……』

 助かった、といえば愛菜之に失礼だろうか。とはいえ、このままの状態じゃどうなるか分かったもんじゃないから助かったのは事実。

 愛菜之の肩を掴んで離す。砂嵐のような濁った瞳の彼女に、俺は困ったように笑いながらボソリと呟いた。

「お昼、食べよう」

 



 いつも使っている人のいない教室に忍び込む。本当は校内立ち入り禁止だが、愛菜之がなぜだか鍵を持っていた。

 二人とも無言で、鍵を開けた教室へ入っていく。

 その間も繋いだ手は離さなかった。愛菜之はその細い手で、俺の手を力いっぱい握りしめていた。

「愛菜之、ちょっと痛い……」

「……ご、ごめんなさい」

 俺にそう言われた瞬間、愛菜之はバッと手を離した。俺の手に痕が残るほど、強い力で握っていた。それほど彼女は心細かったんだろう。

「……あのさ、話がしたいんだけど」

「ッ!」

 愛菜之は分かりやすいほどに肩を跳ねさせる。

 なにを想像したか、弁当の入ったバッグを放り捨てて俺の前に跪く。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいッ」

「ま、愛菜之?」

「嫌わないで嫌わないで嫌わないで……」

 愛菜之は俺の足に縋りつき、うわごとのように繰り返す。勘違いさせてしまって申し訳ないが、別れ話をするつもりなんて微塵もなかった。

「愛菜之、別れ話とかじゃないから」

「……ほんと? 私、晴我くんのそばにいていい?」

「俺、愛菜之がいないと死ぬって言ってるだろ。もう愛菜之がいないと何も考えらんないくらいにさ」

 愛菜之の手を掴んで、ゆっくりと立たせる。

 手を繋いだまま、手近にあった席に座って、愛菜之を膝の上に乗せた。

「愛菜之のこと、大好きだってちゃんと伝えとかなきゃなって」

「……伝わってるよ、いっぱい好きって言ってくれてるでしょ」

「足りてないだろ」

 現に愛菜之は不安になっている。日頃伝えていても、それでも俺の愛情が足りてないんだ。

 それとは別に、俺が愛菜之に好きを伝えたいっていうのもある。こういう建前があれば、恥も外聞もなく好きを伝えられる。

「愛菜之のことめっちゃ好きだけどさ、伝わってないだろ?」

「伝わってる、伝わってるよ」

「本当かぁ?」

 愛菜之をぎゅっと抱きしめて、うなじに鼻をうずめる。匂いを嗅いで、愛菜之の体温を鼻先で感じる。

 体育祭のためにポニーテールにしているから、好きなようにうなじを堪能できる。

「いい匂いするよな」

「あ、汗臭いからダメ」

「いい匂いだぞ?」

 汗の匂いが少し混じっているとはいっても、なぜだか甘くていい匂いがする。

 好きな人の補正がかかってるのか、女の子っていい匂いがするからかは分からない。

「愛菜之の匂いも好きだし、体も好きだよ。顔だって可愛くて……」

 このままだと身体目当てのクソ男になるが、俺は外見以外も好きなんでね。それをちゃんと伝えとこう。

「それに、嫉妬する愛菜之も好きだ」

「……迷惑じゃない?」

「あー……こんなこと言うと性格悪いなーって思うだろうけどさ」

 愛菜之の髪を手櫛でとかしながら、少し笑って伝える。

「嫉妬されると嬉しい。そんなに好きなんだって実感してさ、めちゃくちゃ嬉しいよ」

「……ほんと?」

「本当。だからバンバン嫉妬していい。ていうか、俺は愛菜之がなにしてても可愛いって思っちゃうよ」

 愛菜之がご飯を食べてる時も、俺の隣で寝息を立てている時も、キスをした時も、嫉妬に狂って縋り付いても。

 なにもかも可愛くて、愛おしくてしょうがない。

「安心して嫉妬すればいい。そのたんびに愛菜之が一番好きだって伝えるから」

「じゃあ、いろんなものに嫉妬しちゃうかも」

「それでもいい。俺は愛菜之に好きっていうの好きだからな」

 そういって首筋にキスをする。愛菜之はくすぐったそうに体をもぞもぞと動かす。

 愛菜之は嫉妬深いが、その嫉妬深さすら愛おしい。というより、はなから嫉妬深いのを欠点とは思っていない。

「お弁当食べよう。なに作ってくれたんだ?」

「あっ、おかず寄っちゃったかも……」

 愛菜之が慌てて中を確認すると、落とした拍子にお弁当の中が寄ってしまっていた。とはいえ、愛情のたっぷり込められたお弁当は味が落ちるわけもなく。

 指で摘んで食べた唐揚げは、とても美味しかった。

「うっまいな……」

「あ、ダメだよ」

 行気が悪いって怒られるかと思ったが、愛菜之は卵焼きを咥えると、振り向いて口移しで食べさせてきた。

「食べる時は口移し。絶対だよ?」

「お、おす」

 いきなりで驚く俺と、嬉しそうに笑う愛菜之。


 少し歪になってしまったお弁当を、二人で時間をかけて食べていった。

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