第38話

 もう、どれだけこうしてるだろう。

 部屋に戻った俺たちは、一言だって喋らなかった。

 電気すらつけないまま、壁に背を預けて座り、居間で抱きしめあっていた。というより、俺が後ろから愛菜之を抱きしめて離さなかった。

 暗い部屋のなか、壁にかけられている少し古ぼけた時計だけが音を鳴らしていた。


 腕の中に愛菜之がいることが嬉しくて嬉しくて、幸せで幸せで。

 愛菜之の柔らかさや、温かさが、愛菜之がここにいてくれることを実感させてくれる。

 でも、それでも胸に疼く不安は止まらなくて。

 胸の内側をかきむしって、止めてやりたいくらいだ。

 もっと、もっともっと愛菜之を感じないと。

 そう思うと、愛菜之を抱きしめる腕に自然と力が籠る。後ろから抱きしめた愛菜之のうなじに鼻を埋めて匂いを嗅いで、手で愛菜之の体をまさぐり、ずっと触っていた。

 それでも愛菜之は嫌な様子も見せず、時折りくすぐったそうに身をよじるだけだった。

「……」

 言葉が出てこない。俺はなにを言えばいい。

 ごめんとか、大丈夫か、とか。そんな言葉でいいのか。

 どんな声をかければ、愛菜之は俺から離れないでくれる。

 胸をざわつかせる不安。想像する最悪。

 その度、離さないように腕に力がこもっていく。こんなんじゃ、ぐずる子供と変わらない。子供でいいから、愛菜之を離したくない。

「愛菜之っ……」

 ようやく出た言葉は、情けないくらい震えた声だった。すがるような声、不安を乗せた頼りない音。

 愛菜之は、失望するだろうか。弱さを見せるのも嫌われそうで、また不安が襲ってくる。

 押しつぶされて、粉々になりそうな、そんな時だった。


「月、綺麗だね」

 聴き慣れた声に、カーテンを開けっぱなしだった窓の方を見やる。

 うっすらと輝きを放つ月が、俺たちを照らしていた。

「死んでもいいくらい、綺麗」

 どこかで聞いたフレーズに、思わず笑んでいた。

 ああ、本当に嬉しいことばっかり言ってくれる。死んでもいいくらいなのは、俺の方なのに。

「……難しくて分かんないよな、それ」

「難しいなんて言うってことは、意味も知ってるんでしょ?」

 顔が見えないのに、愛菜之が笑っているのがわかる。そうだ、愛菜之はいつもこうやって俺を幸せにしてくれている。

 勝手に思い込んで不幸になっているのは、俺だけだ。

「俺、死んでもいいくらい愛菜之が好きだよ」

「そんなこと言われたら、死んでもいいくらい嬉しくなっちゃうな」

 そう言って、俺の腕から抜け出した。

 振り向き、不安そうな顔を浮かべる俺を見て微笑む。

「そんな顔しないで?」

 立ち上がり、しゅるりと上着を脱ぎ、肌着も脱ぐ。

 可愛い装飾が施された、白い下着が露わになる。

「晴我くんはなにも悪くないよ」

 ドクンと心臓の音が大きく聞こえた。

 俺が、不安になっている原因すら掌握している。その上で、俺の不安を拭おうとしている。その事実にまた、この子への愛おしさが強くなる。

 愛菜之は足を上げて、ハーフパンツを脱ぐ。

 上と揃えられた、白い下着が露わになった。

「殴られたのだって、私のせい」

 月明かりに照らされる彼女の下着姿。どれだけ見たことか、どれだけ見惚れたことか。

「私、晴我くんから離れたりしないよ」

 プチン、と音がした。

 瞬間、はらりと愛菜之のブラジャーが外れる。

 大きな胸、傷一つない、白く綺麗な身体。

「晴我くんのこと、大好きだもん」

 膝をつき、俺の両頬に手を添える。

 顔を近づけたと思えば、そのまま軽くキスをしてきた。

「見て?」

 そういって、俺に自分の右手を見せてくる。

 ホワイトデーにあげた、俺の気持ち。指輪をつけていた。

「これ、見るたびに私は晴我くんのものなんだって嬉しくなっちゃうの」

 そういって目を閉じ、指輪に愛おしそうなキスをする。

 まるで俺がされたみたいで、心臓が跳ねる。

 しかし愛菜之は、指輪を外して机に置いた。

 不安そうな……たぶん、今すぐにでも泣き出しそうな顔をしているだろう俺を見て、愛菜之はまた微笑んだ。

「汚しちゃダメだから、ね?」

 そういって、絡みつくように抱きついてくる。

 俺の手を取り、自分の胸へと運んでいく。

「この身体は、晴我くんのものだよ」

 そういって、今度は俺のシャツの中に手を突っ込む。

 脇腹を優しく撫でられ、くすぐったさにも似た心地よさを感じる。

「傷つけられちゃってごめんなさい」

 そういって、ギュッと力を込めて抱きしめてくる。

 ……微かに、愛菜之の身体が震えていた。

 まるで、怒られるのを怖がる子供のように。

「晴我くんのものなのに、勝手に傷つけられてごめんなさい」

 愛菜之も、怖がっていた。

 俺のものを勝手に傷つけてしまったと、俺に嫌われると。

 そんなことないのに、俺が愛菜之を嫌うなんてありえないのに。

 俺も愛菜之を抱きしめる。震える身体が、だんだんと落ち着いていく。

「愛菜之が好きだ」

 そういうと、震えはおさまった。けれど、こんな言葉だけじゃきっと伝えられきれない。いつだって愛菜之に救われてばかりで、今だってまた救われた。

 自分の不安すらも差し置いて、俺の不安を拭ってくれた。

「愛菜之がいないと死ぬ。もう俺、愛菜之がいないと無理だよ」

 愛菜之の身体がぶるりと震えた。まるで俺の言葉に呼応しているように。俺の胸に埋めていた顔を上げると、愛菜之はその蕩けた顔を近づけた。

 また軽いキス。答えというよりは、自分がしたくてしているような、そんなキス。

「だいすき、だいすきぃ……」

 大きな瞳から、大きな粒の涙を流す愛菜之が軽いキスを何度もしてきた。

 目の前にいるのは大人びた身体をしている女性なのに、まるで夢が叶って喜んでいる子供みたいだった。

 キスをしているうちに、愛菜之の口の端から血が流れた。口の傷がまた開いてしまったんだろうか。

 愛菜之の血。真紅の液体は、月明かりに照らされて妖しく照っていた。

 唾液と混ざったそれにキスをして舌先で救う。鉄の味がして、でもなんだか甘いような。

 口の端の血を舐めとり、顔を話す。当の愛菜之は、ぼっーとした顔で俺を見つめていた。

「晴我くんが、私の血、飲んでる」

 片言で喋る愛菜之を見つめていると、愛菜之は涙で濡れた顔をまた近づけた。

「嬉しい、嬉しい嬉しい嬉しい」

 愛菜之は俺の頬に手を添えて、愛おしそうに優しく撫でる。

 愛菜之の大きい瞳が、ギラギラと輝きを放っている。それは月明かりにも勝るような輝きで、俺はその輝きに魅入られていた。

「愛してます」

 それは誓いのような、宣言のような。

 指切りのように、微笑ましい約束のようで。


 けれどこの先、破ることもないくらい強い御呪いだった。

 

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