第65話

観光を終えて、旅館に帰ってからが大変だった。

約束通り、俺は愛菜之に体のあちこちを舐められた。まるで、犬が飼い主にするように。

あんなとこやこんなことまで舐められて、俺は尊厳とか色んなものを失った、気がする。まぁ、俺は愛菜之に余す所なく色んなところを見られてるからなぁ……今更って話か。

あと、なんでも言うことを聞いてあげるっていう約束はまだ果たせていない。ていうか、愛菜之が何もお願いしてこなかった。忘れてるのかね?

俺としてはそっちの方がありがたいが……愛菜之のお願いなら、なんだかんだでなんでも聞いちゃうからなぁ。

まぁ、そんなツッコんだお願いはしてこないだろう。



なんてこともあったり、移動やら慣れない土地やら人混みやら、疲れる要素はいっぱいあったわけで。

俺は、それはもうぐっすりと寝ていた。

「ん、ンン……」

手首に感じる違和感。その違和感のせいなのか、寝苦しくて目が覚めてしまった。

寝ぼけ眼が捉えるのは、愛しの女の子の顔。

俺を見つめて心底幸せそうな表情をしている、可愛い女の子の顔だった。

「おはよう、晴我くん」

「おあよ……」

ぼやける視界をどうにかしようと、目を擦った。

───はずだった。

ガチャリ、と俺の手首から音がする。どこかで聞いたことがあるような、懐かしいような……。

そして今更になって俺は、手首にひんやりとした感触を感じた。

「……手が動かないんですけど」

音とか感触とかでようやく気付いた。昔にも愛菜之にされたアレだ。

「なんで手錠?」

「晴我くんが、いっぱい愛してほしいって言ってたから」

……言ってたけど、それと手錠になんの関係が。

そんな意思を込めて、愛菜之をじーっと見つめてみる。脈絡が無さすぎるんですよ、この手錠と愛してほしいってお願いと。

「私ね、晴我くんのことをぜーんぶ私のものにしたいってずっと思ってたの。だから、晴我くんが愛してほしいって、我慢しなくていいって言ってくれて嬉しいの」

そう言って、和やかな笑顔で、おはようのキスを頬にしてきた。

愛菜之は俺のことを全部欲しいらしい。彼女が言っている通り、俺の生活も何もかもを。

「してほしいことがあったらなんでも言ってね。ご飯食べたい? キスする? ハグ? えっちする?」

「飛躍しすぎぃ……」

なんでご飯にする? 私にする? 私にする? みたいな押し売りをしてくるの? 

愛菜之はそんなに安い子じゃないし、つかそんな押せ押せされたら流されちゃうからやめて。

「とりあえずトイレ行かせて。あと顔洗いたい」

「うん、わかった」

「じゃ、外してくれ」

「え?」

「え?」

俺と愛菜之の間に沈黙が走る。二人とも顔を見合わせて、何を言ってんだという表情をしていた。

いや、外さないとトイレも顔洗うのもできないでしょ? どういうことだ?

「手錠外してくんないとズボン下ろしたり、顔洗ったりできないんだけど……」

「私がしてあげるよ?」

「え?」

「え?」

いやいやいや、さすがにそんなマジの介護をされるつもりはないんですけど。

顔を洗ってもらうのはまだ百歩譲れるけど、トイレは絶対にダメだから。

「あの、さすがにトイレ手伝ってもらうのは汚いし恥ずかしいし、遠慮したいというか……」

「汚くないよ?」

常識的には汚いんです。あと倫理的にもダメだから。

そういうことをする時に、愛菜之は散々俺のを触ってはいたが、それでも……これ以上話すのはよそう。

「人としての尊厳っていうか……」

「尊厳とかなくても、私は晴我くんのこと大好きだよ?」

「ありがとう……」

いい子かよ。そう言っていただけると嬉しいです。

でもやっぱり、譲れないところはある! トイレくらいは一人でさせてくれ!

「頼むって、ほんと。限界近いからさ」

「うん。じゃあ、行こっか」

「行こっか、じゃなくてね? 手錠外して? トイレ済ませたらもう一回つけていいから」

「ダメ」

ここまで言っても愛菜之は、そう短く否定するだけだった。どうして、どうしてなのよ……。

ていうか、もうそろそろ本当に限界が近い。膀胱が俺の体に暴行してくる。

若干泣きそうになりながら、俺は愛菜之に頼み込む。

「もう無理なんだって。頼むよ」

「ここで出しちゃうのと、私に手伝われながらするの、どっちがいい?」

やめてって、そういう究極の二択。どっちに転んでも俺の死は確定してるじゃん。

俺は起きたばかりで布団の上にいる。布団を汚すわけにはいかない。ていうか、この年で漏らすとか絶対に無理。

つまり、これはもう選択肢は一つしかないようなものだった。

「……手伝って、ください」

項垂れ、諦め、そう言った。ああ、神様……お母さん、お父さん……。

真っ白に燃え尽きている俺とは対照的に、愛菜之はとても良い笑顔で、

「うん!」

心底幸せそうに、嬉しそうに笑っていた。




俺は人としての尊厳を捨てたぞ! ジョジョ!!

そんなわけで、どうにか用を足し、顔を洗ってうがいをした。恥じらいという感情をここまで憎んだことはない。

そして、待ちに待った朝食。朝食も部屋まで持って来てくれるらしい。

和食と洋食を選べるらしいが、朝は軽めの洋食にしておいた。

サンドイッチを運んできてくれた仲居さんにバレないように、必死に手錠を隠した。汗ダラッダラの挙動不審になってたと思うけど、たぶんバレてない。お願いだからバレてないで欲しい。


「じゃあ、食べさせてあげるね」

いつものごとく、あーんをしてくれる……そう思っていた。

愛菜之はおもむろにサンドイッチを口に含んだ。……あの、俺の分は?

そう思っていたのも束の間、愛菜之は整ったその顔を俺に近づけてくる。まるで、キスをする時みたいに。

何をしようとしてくるのか、全くわからなかった。あーんとは何も関係のない一連の行動に、ただただ困惑していた。

だが、愛菜之は言葉の通り、俺に朝食を食べさせようとしてくれていたのだ。


口移しで。


しっかりと口をつけて、愛菜之はサンドイッチを流し込んでくる。

手錠のせいで俺は拒むことはできない。逃げられもしない。……そもそも、拒むことも逃げることもするつもりがない。

抱いた感情は、嬉しさ。

俺は愛菜之に愛されているんだ。愛菜之は俺にこんなことをしてくれるまで、好いてくれているんだ。

こんなにも、愛菜之は俺を支配してくれているんだ。

気持ちも行動も愛菜之に縛り付けられ、抑えられ、支配されて。

そんな、そんな大きな幸せを感じていた。


「……美味しい?」

口を離した愛菜之は、そう聞いてきた。どこか不安そうな表情、俺に拒まれることを恐れている時に見せる、俺の心を刺す表情。

そんな不安を拭おうと、俺はこう言う。

「まだ、食べたい」

質問の答えにはなっていないが、愛菜之はそう言われて嬉しそうに顔を輝かせた。

可愛くサンドイッチを齧り、俺の頬を両手で包み込んで口と口を合わせる。

咀嚼されたサンドイッチがまた、流れ込んでくる。愛菜之の唾液に濡れたパン。まだ少し形を持っている卵。

さすが良いところのサンドイッチというか、とても美味しかった。

口を離した愛菜之は、今度は食事とは関係のないキスをしてきた。愛おしそうに、挨拶のような軽いキスを。

「喉、乾いてない? お水あるよ?」

「飲ませて」

そうお願いをすると、愛菜之はまた嬉しそうに笑顔を浮かべる。

愛菜之は、買ったばかりの夫婦湯呑みに入った水を口に含む。俺は、愛菜之が水を流し込みやすいように少し口を開ける。

そんな共同作業をしながら、少し長めの朝食をとった。

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