第57話

「それで、話って?」

イスに向かい合って座り、テーブルには紅茶が湯気を立てている。

愛菜之が淹れてくれた紅茶だ。いつ飲んだっておいしくて、俺の心を落ち着かせてくれる。

一口飲んで、喉を潤した。これなら話せる。大丈夫だ。

「俺と愛菜之の関係、認めてほしい」

「……いや、認めるも何も。もう認めてるよ?」

確かに母さんは俺と愛菜之が付き合っていることを良く思ってくれてはいる。けれど、俺が言いたいのはそういうことじゃない。

「母さん、頼んでたろ。付き合ってやってくれって」

「……なんで知ってるの?」

少し驚いたような顔で俺と愛菜之を交互に見る。恐らく、愛菜之が俺に言ったんじゃないかとでも思っているんだろう。

「それは……ごめんだけど、この際置いといてほしい。それで、その言葉を撤回してほしい」

「え?」

そんなことを言われるとは思ってもいなかったのか、更に驚いた顔で目をぱちぱちとさせている。

「俺は、愛菜之と対等な関係で付き合ってるんだよ。だから母さんが付き合ってやってくれなんて頼んだりしたら、対等じゃなくなる」

「お母さん、そんなつもりは……」

分かってる。母さんは純粋に、俺のことを、俺たちのことを思ってそう言ったんだと。

でも俺は思ってしまった。余計なお世話だと。いらない言葉を出すなと。

「母さん。俺、まぁまぁ頑張ったんだよ」

唐突に語り出す俺に、困惑したままの表情で話を聞く。

「母さんが仕事を大切にしてて、熱中してて、それで俺は邪魔しないようにって、あんまりわがままとか言わないようにしたんだよ」

あんまりわがままを言ったことがない、というが、多分あの時のことがあってから一度も言ったことはないと思う。

極力母さんの邪魔にならないように、存在を消すように生きてきた。

どうか、その努力を認めてほしい。

「それでもさ、母さんは俺のことがまだ信用できない? 俺がなんかやらかしたりとか、俺が愛菜之と付き合うのが不安だったりする?」

「……」

母さんは黙ったまま、何かを考え込んでいた。

まだ認めてもらえないのか。そんな不安が心を煽る。母さんは紅茶を一口飲んで咳払いをすると、居住まいを正した。まるで言葉をまとめるための時間を稼ぐように。

「ごめん。晴我がそんなふうに考えてるなんて思わなかった」

申し訳なさそうにそう言って、俺を見つめる。その先の言葉をゆっくりと俺と愛菜之は待つ。

「でも愛菜之ちゃんにお願いしたことは、なかったことにはできない」

「なんで……」

すんなりと撤回してくれるもんだと、どこかで思っていた。なにかの冗談だろうと。だけど、母さんは本当に撤回する気はないようだった。

「まだ俺は頼りないの? 何がダメなんだよ。教えてくれよ」

「別に晴我がダメなわけじゃないよ」

「じゃあ、だったら!」

「心配なの」

その一言に、息を飲んだ。

だって、だってそんなこと言うわけないだろ。

「なにが心配だよ」

その言葉は絶対に嘘だ。

「心配だったら今の今までほったらかしにするわけないだろ」

「それは……ごめんね」

「いや、ごめんねってさ……」

俺の母親は、こんなことしか言えないのかと。そんな失望を覚えてしまうほどだった。

大人っていうのは、なんでもできて、納得する理由も言えると思っていたのに。

「心配とか嘘つかなくていいから。仕事のほうが大事なんだろ? 仕事場戻っていいよ」

俺はもう大丈夫だから。

愛菜之と居れば、母さんがいなくても───。

「晴我くん」

優しい声で、でもどこか咎めるような、宥めるような声で。

愛菜之が、俺の名前を呼んだ。

「お母様は、嘘なんて言ってないよ」

嘘に決まってる。俺のことが心配だのなんだのって、なんだよ。

愛菜之まで、母さんの肩を持って。

「晴我くん、一回来て」

手招きする愛菜之と、俯く母さんを一瞥してから愛菜之について行った。


俺の部屋に着いた。瞬間、愛菜之は俺を抱きしめる。

抱きしめ返すこともできないまま、呆然と立ち尽くしていた。自分の言った言葉と、母さんの言葉が頭の中で反芻する。

なにも言わないで抱きしめてくれる愛菜之の優しさに胸はじわじわと解けていく。

「落ち着いた?」

否定するように力強く抱きしめる。息を漏らす愛菜之は、赤ん坊を寝かしつけるようにトン、トンと背中を優しく叩く。

愛菜之の匂いを嗅いでみる。甘くて、優しくて、慣れたその匂いは心を落ち着かせてくれる。

心臓の音が耳に響く。早鐘を打っていた心臓は、だんだんと穏やかなリズムを刻んでいく。

「晴我くん。お母様はね、本当に晴我くんのことが心配なんだよ」

「……嘘だ」

「嘘じゃないよ。本当に、本当に晴我くんのことを思って言っただけだよ」

「だって、心配だったら」

そうだったら、なんで今までほったらかして。

あんな言葉、吐いたんだよ。

「晴我くん」

優しい声で、また呼んでくれる。嬉しくて、でもなにを言われるか怖くて仕方ない。

「お母様もね。大人だけど、その前にひとりの人間なの」

その言葉に思わず体が強張った。

納得する自分と、そのことに気づけないでいた自分の愚かさに。

「だから、許してあげて」

愛菜之は、諭すような言い方で俺に伝える。

「今までお母様に見てもらえなかったことも、お母様の言った言葉も」

それでね、と言葉を続ける。

「晴我くんの言いたいこと、して欲しかったこと、言おう」


心の整理と言葉の整理がついた。愛菜之に助けられてばかりで、愛菜之母から頼まれた愛菜之を助けるっていうお願いが達成できる気がしない。

リビングへの扉を開けると、母さんが顔を上げた。数分とはいえ、ずっとそうしていたのだろうか。

「ごめん。もう一回話したい」

「……うん」

席に着くなりそう言うと、母さんは了承してくれた。正直に、自分の思いを言おう。

「俺の言いたいこと、まとめてきた」

それは至極単純で、言葉にするのが少し恥ずかしくて、けれどとても年相応というか、子供っぽい言葉だった。

「今まで、寂しかった」

みんなは、周りは、お母さんやお父さんが運動会に来ていたり、授業参観に来ていたり、休みの時はどこかに一緒に行ったり。

それがひどく羨ましくて、それをしてくれない母さんと父さんが少し憎くもあって。

「もっと構ってほしかった」

仕事が大切なのは知っていたけど、だから俺は今まで頑張ってきたけど。

本当のところは、一緒にいて欲しくてたまらなかった。

「わがまま、言いたかった」

けど、言えなかった。迷惑だから。

「ごめん、こんなこと言って。もう金輪際は言わない。迷惑もかけない。だから」

だから。その後の言葉が少し喉に突っかかって、間を置いてから言えた。

「俺と愛菜之の関係、認めてよ。俺のこと、認めてよ……」

流すつもりもなかったのに、なんでこういう時に出るんだ。涙は。

今まで言えなかったことをようやく言えて、堰が切れたみたいに目から雫がぽろぽろと落ちてくる。

母さんは、すぐにはなにも言わなかった。

「……ごめんね。本当にごめん。謝ることしかお母さん、できないよ」

母さんの言っている通りだ。

過ぎた時間は戻らない。

俺の今までの人生に、母さんの記憶はほんのひと握りしかない。


だったら、これから作っていけばいい。

「だから、これからの人生、もっと俺に構ってほしい」

こんなこと言うの、恥ずかしいったらありゃしない。でも、自分の思っていることを言えて心はどこか透き通っていた。

「お節介だとか、余計なお世話だとか、構わないでとか言うかもしんない。それでも、構って欲しい」

だってそうだろ。普通の親って、そうだろ。

邪魔だのなんだの言われたって、構ってくれて、気にかけてくれて。

少なくとも、いなければいいなんて言わないだろ。

「一生のお願いだよ」

そう言って頭を下げた。

母さんにとって仕事は生きがいだ。それをないがしろにしてでも、俺に、俺を優先してほしい。

そんな子供っぽくて、子供らしいわがまま。

今までもこれからも、これで最後のわがままだ。


「母さんに、そんな資格ないよ」

少ししゃがれた声で母さんはそう言う。

「資格とかじゃなくて、構ってほしいんだけなんだよ」

「今更なのに、いいの?」

震える声で、もう一度聞いてくる。

「俺がいいって言ってるんだから、いいんだよ」

「そっか」

顔を上げた母さんは、泣きながら笑っていた。

「じゃあ、いっぱい構っちゃおっかな」




「だからって、今構ってとは言ってないんだけど」

「なに〜? 愛菜之ちゃんの前だからって恥ずかしがってるなぁ〜?」

カーペットに寝そべった俺に膝枕をする母さんが、俺に耳かきをしようとしてきた。

いやまぁ、構ってほしいとは言ったけど何も愛菜之がいる前でしなくても……。

ていうか、気まず過ぎでしょこの状況。

なんで愛菜之は愛菜之でずっと俺のことニマニマ笑いながら見てんだ。おかしいと思いなさいよこの状況。

「いや〜耳かきとかパパに何年も前にやってあげて以来だなぁ……」

そういえば俺は耳かきを母さんにしてもらったことがない。当たり前っちゃ当たり前だな。今まで母さんにかまってもらってなかったし。

「よし、動かないでよ晴我。痛い目見るよ〜」

「動かないから気をつけてよ」

数年も前にやって以来とか聞いてないよ。なんか不安になってきた。

そんな俺の心を無視で母さんは耳かきを始めた。心の準備させてくれ……。

ちょいちょいと耳の中で耳かきを動かし始めると、ほんの数秒で動きを止めた。

「……あんまり溜まってないね」

「あ、私がやってるからかも……」

そういえば俺は、愛菜之が定期的にしてくれるんであんまり耳垢たまらないんでした。

愛菜之がそう言うと、たぶんニヤニヤしながら母さんが俺に言ってくる。

「愛菜之ちゃんに耳かきしてもらってるんだ? ラブラブじゃん」

「母さんがラブラブとか言わないでよ。気持ちわ」

「耳の奥の奥までほじくっちゃうぞ」

「ごめんなさい」

母は強い。生物学的にも言われていることですからね、すいませんでした。

「愛菜之ちゃんと仲良さそうで母さん的には安心するよ。でもちょっと、仲良くしすぎるのは控えてね」

「はいよ……」

体の関係を持っていることに対して言ってるのか、さっきのパーカー事件に言ってるのか分かんないから困る。

「……晴我、背伸びたよね」

「え? まぁ、ちょっとは」

「髭も生えたりしてる?」

「そりゃね」

「おしゃれに興味持ったりとか?」

「あんまし興味ないかなぁ」

そこだけはあんまり成長してないというか、素材が悪いからオシャレに興味持ちましてもって感じだよな。

いやでも、素材が悪いからこそオシャレを極めるべきか? 悩みどころだな……。

「でも最近オシャレな服着てない?」

「あれ、愛菜之が選んでくれたんだよ」

「ほんと? 愛菜之ちゃんセンスいいね」

「ありがとうございます」

ぺこり、と頭を下げる愛菜之可愛い。愛菜之が選んでくれる服はオシャレベルの低い俺でも自分に合っていると思うものが多い。ありがたいね。

「そうだよねぇ……成長してんだよねぇ……」

耳垢は溜まっていないのに、母さんは俺の耳を耳かきで掻く。くすぐったくて、気持ちいい。

「二人の交際、認めるよ」

唐突に母さんは俺たちの関係を認めてくれた。本当に唐突で驚いたが、認めてくれて嬉しい気持ちはある。

「でも、晴我をお願いしますっていう言葉は取り消せないかなぁ」

「え、なんで……」

やっぱり俺は、まだ認めてもらえてないのか。その考えが頭によぎる。

「だって心配だよぉ。自分の息子のことだもの」

耳かきを置いた母さんは、俺の頭を撫でながらぽつぽつと語る。

「お姉ちゃんは単身赴任のパパの方に行っちゃってあんまり詳しく知らないけどさ。パパのこと支えて、勉強とかもちゃんとやっててしっかり者だよ」

急にお姉ちゃんのこと話しだすじゃん。俺のことは?

ていうか、海外飛び回るわ連絡はしないわなお姉ちゃんがしっかり者って……いやまぁ、海外一人で飛び回れるならしっかり者か?

「でもお姉ちゃんのことも心配なんだよ。なにかひどい目にあったりしないかとか、どれだけしっかりしててもさ。親の性ってやつなのかな」

お姉ちゃんのことも、母さんは心配していた。そんなの知らなかった。

俺やお姉ちゃんには無関心で、仕事にしか興味がないもんだと思っていた。

「だからさ、晴我がしっかりしてないとかじゃないのよ。晴我はしっかり者だよ。だってお母さんのためにいっぱい色んなこと我慢してくれたよ」

手放しに褒められて、耳どころか胸の内までくすぐったくなってきた。

本当に、認めてくれているんだ。

「本当にありがとう。いい息子を持って幸せだよ」

そう言って、もう一度優しく俺の頭を撫でた。

どうしてこんなにあったかいんだ。今日は気温は低い方なのに。

「けど心配だから。だから、お願いしますってつい言っちゃうの。ごめんね」

「……わかったよ」

心配だから、か。

この言葉も、きっと嘘じゃないんだろう。けれど今は簡単には信じられない。

きっと時間をかけて、その言葉は心に馴染んでいくだろう。

俺を見つめる愛菜之。この子がいなければきっと話せなかった。

彼女には感謝しかない。けれど尚更、疑問は深まった。

なんの取り柄もない俺を、高校で初めて会ったはずの俺を好きでいること。

俺が母さんとのことで悩んでいることを知っていること。

俺は愛菜之と、どこで出会ったんだ?

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