第55話

「どうすりゃいいんだよ……」

チャポン、とお湯を救ってそのまま落とす。

無意味な行動をしてどうにか気を紛らわそうとしてもこびりついて剥がれない。

あったかいはずなのに、胸の部分だけがやけに冷えている感覚があった。

考えれば考えるほど体の芯が冷えていく。


俺は愛菜之に相応しくない。


そう考えてから、胸が痛くて苦しい。実際、俺は愛菜之の彼氏、恋人として相応しくない。顔は別に良くない。スタイルも、それなりに気を遣ってはいるがいいわけでもない。勉強もそこまでできるわけじゃない。それなりに良い高校に入れはしたが、成績も上位というわけじゃない。

「ごめん……」

申し訳なかった。こんな俺が、何もない俺が、愛菜之みたいな女の子と付き合っていることが。

「ごめん……」

愛菜之の隣に相応しくないとは常々思っていた。けれど、幸せが塗りつぶしてくれていた。

結局、事実から目を瞑っていただけなのに。

胸が張り裂けそうだ。目元から、温い雫が流れるのを止められなかった。

きっと愛菜之には俺よりももっと相応しい人がいるはずだ。

だから俺は、引くべきだ。

そう考えていると扉が開いた。風呂の扉が。

「背中、流しにきたよ」

一言そう言って、彼女……愛菜之は、俺に笑いかけた。

ああ、いつだってそうだ。この子は、俺が辛い時には必ず来てくれた。

だけどそれが辛い。こうしてまた、彼女に縋っている自分がひどく醜い。ホッとしている自分が、気持ち悪い。

「遠慮しておくよ」

彼女の裸体から目を逸らしてそう言う。いつも通りの口調で言えただろうか。俺は、うまく嘘をつけただろうか。

ほんとなら嬉しくて、でも恥ずかしくて返答に詰まるところを、誤魔化せただろうか。

「どうして?」

こう聞いてくることは分かっていた。だから前もって、準備していた言葉を愛菜之に伝える。

「母さんもいるし、愛菜之に迷惑をかけたくない」

「さっき、お母様がいたのに一緒に入りたいって言ったのに?」

そう言われて何も言い返せない。本当は一緒にいたくてしょうがない。

でも、それを伝えてしまえばまた縋るだけになってしまう。対等な関係から遠のき続けてしまう。

「私のお母さんが電話を長引かせてくれるって。だから、お背中流すくらいならできるよ」

「……遠慮するよ」

「なんで?」

同じ返事に愛菜之は変わらない口調で聞く。うまく言い訳を見つけられない。ただ黙っているしかできなかった。

「ねぇ、なんで?」

「……いいって言ってるだろ」

少し険のある口調になった。こんな風に強い口調で言うのは初めてかもしれない。

触れないで欲しい。体にも、心にも。

今、触られればまた元に戻ってしまう。

「なんでって、理由を聞いてるんだよ。晴我くんが嫌かどうかじゃないよ」

「っ、いいって、言ってるだろ」

「なんで嘘をつくの?」

俺の言葉なんて聞かないで、愛菜之はシャワーを出した。体を適当に濡らして、浴槽に入る。

「私をみて」

「……」

見れない、見る資格はない。俺は、相応しくなんて……。

「んむぐ」

愛菜之が抱きついて、キスをしてくる。いきなりのことに驚きつつも、急いで引き剥がそうとしても愛菜之は俺の頭の後ろに手を回してガッチリとホールドしていた。

くちゅくちゅと舌が絡み合う音が頭に響く。抵抗しようと体を動かしたいが、愛菜之の体が密着してどうしても意識してしまう。動く気が、抵抗する気がなくなってしまう。

「ぷあっ。……寂しい気持ち、なくなった?」

口だけ離し、俺に抱きついて、抱きしめたままで俺に問いかける。

寂しくなんてない、と言いたくても言えなかった。寂しいのは事実なのだから。

「寂しいだけじゃないんでしょ? いろんなこと考えてるの、わかるよ」

慈しむような笑顔に、また顔が歪む。優しさに包まれて、自分の惨めさが際立つ。

「ずっと一緒にいたもん。ずっと見てきたもん。晴我くんのことはなんでも分かるよ」

また俺は、愛菜之に頼るのか。

愛菜之に救われて、俺はなにもできないで。

「また変なこと考えてる」

そう言って、またキスをしてきた。驚きはしない。けれど、ただ困惑していた。

「ぷはっ。キスしたら、やなこと考えなくていいでしょ? それに」

耳元で、彼女は囁く。

「私、晴我くんでも晴我くんのこと馬鹿にするの、許さないって言ってるよね」

ゾクリ、と背筋が冷えた。

確かな殺意が向けられて、けれど裏には底なしの愛情を感じた。

「相応しいとか、相応しくないとか、そんなのどうでもいいんだよ。頭が良いからとか、かっこいいからとかそんなのじゃなくて、晴我くんっていう存在が私は好きなの」

証明のように、軽いキス。

幾度となく唇を重ねて、思考はめちゃくちゃになる。けれど、不安は確かに拭われていく。

「晴我くん、大好き。私、晴我くんがいないと生きていけないんだよ」

ふふっ、と照れ隠しのように笑って、もう一度唇を重ねる。

「私だけを見て。私が認める。私が晴我くんを見てる」

抱きしめる力を強めて、彼女は自分の存在を俺に刻み込む。

「でもね、晴我くん。お母様もちゃんと晴我くんのことを見てたよ」

「え……」

嘘だ、と反射的に言いそうになる。母さんが俺を見てるわけがないだろう。

だって、邪魔だって、いらないって言ったじゃないか。

「晴我くん、電話切ってたから。でも、ちゃんとお母様は晴我くんを見て、晴我くんを認めてた」

「嘘だ……」

だったら、頼みなんてしないだろう。付き合ってやってくれなんて言わないだろう。

「お母様は単純に心配だったんだよ。私たちの仲が良いことを知っても、それでも心配だったんだよ」

なんで、心配なんて。する必要なんかないだろ、するわけがないだろ。

「親って、子供のことがいつも心配なんだって」

子供、か。

俺はまだ、大人になれないのか。

「……大人に、なりたかった」

「それは無理だよ」

愛菜之はばっさりとそう言い、俺を抱きしめる力を少し弱める。

「だってこの国、十六歳は成人だって認めてないもん」

思わず吹き出してしまった。愛菜之にこんなことを言われると思っていなかったから。

「愛菜之に法律云々を言われるとは思わなかったよ……」

「あー、バカにしてるー?」

「してないよ」

いつも結婚がどうとか、この国の法律はおかしいとか言ってるのに。

そんな愛菜之から言われたことに、なんだか我に返ったような気がした。

「晴我くんにとっての大人って、きっと誰にも頼らないで生きていける人のことを言ってるんだよね」

そう言われて、確かに自分は、大人は誰の力も借りなくても生きていけると勝手に思っていることに気づく。そして俺は、そんな大人に憧れていることにも。

「大人の人でもね、人に頼るの。甘えるの」

当たり前のことなのに、愛菜之に言われてようやくそのことに気づいた。

「私のお母さんだって、いっぱい好きな人に甘えてたんだよ。抱きしめてーとか、チューしてー、とか」

愛菜之のお母さんは、お父さんにゾッコンだったんだったか。

確かにあの人は大人だが、甘えている。

「私だって晴我くんにいっぱいいっぱい甘えてるよ。チューだって、ぎゅーってしてもらうのだって、いっぱいして欲しいもん」

俺もだ。俺も、愛菜之とたくさんキスをしたい。抱きしめ合いたい。触れていたい。

思えば、俺は甘えてばかりだった。頼ってばかりだった。

なにが、大人になれないだ。

はなから、俺は大人になんてなれていなかったんだ。

「晴我くんはきっとお母様に迷惑をかけたくないから、頑張って大人になろうとしてたんだよね」

「なんでもお見通しってわけね……」

「違うよ。晴我くんが教えてくれたんだよ」

俺が、教えた……?

俺は愛菜之に弱みを見せたくないから、こんな話はしないと思うが……。

「……忘れちゃってるよね。でも、晴我くんが私に教えてくれたんだよ」

その言葉や瞳に嘘をついている様子はない。きっと本当のことなんだろう。けれど、いつ俺は愛菜之に話したのだろうか。

「大人だって人に甘えるの、頼るんだよ。それに今、大人になんてならなくていいんだよ」

愛菜之の口調も声色も、どこまでも優しいもので。心はほどけていく。

「大人にならないといけない時がきっと来る。だから、それまでは、今は精一杯子供でいよう」

笑顔を称えて、彼女は俺に話す。

「子供だから、わがまま言って。大人を困らせて。そんなのでいいんだよ。子供だから、自分の欲を優先させていいんだよ」

唇を重ねてくる。まるでお手本のように。

「ね? 私はキスしたいからキスした。こんな感じでいいんだよ」

簡単でしょ? と笑ってからもう一度キスをする。

「もっと正直になろ。好きなこと、しよ?」

好きなことを、わがままを言っても許されるなら、俺は。

「母さんと、話をしたい」

どうしてなんだよって、頑張ってるんだよって、言って。言ってやって、あとは知らない。

困ろうが、怒ろうが、そんなの知らない。

「それで、それで」

少し言い淀んでしまったけど、愛菜之はただ微笑を浮かべて待ってくれている。それが心地いい。

「愛菜之と一緒に寝たい」


「うん。そうしよっか」


「愛菜之とずっと二人でいたい」


「私も一緒にいたいな」


「俺以外を見ないでほしい」


「晴我くん以外見たことなんてないよ」


「ずっと、ずっと一緒にいてくれ」


「ずっと、ずーっと一緒にいるよ」


「不安なんだ」


「不安もなくなるまで、なくなっても隣にいるよ」


「愛してる」


「私も愛してる」


言葉の応酬は、確認作業。

確認して、愛を認識して、ようやく不安は溶けて。

「愛菜之」

「なぁに?」

「背中、流してほしい」

わがままを言って、頼って、甘えて。

それでも彼女は嫌がらない。嫌がるどころか、花が咲くような笑顔で。

「うん」

ただ、そう言って頷いてくれた。

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