第44話

愛菜之のお母さんから聞かされた話。

父親が殺されて、愛菜之は大きなショックを受けて、負の気持ちを植え付けられた。

異常な話、異常な家族。

なにかのドラマでもなければ、小説でもない、本当の話。

事実は小説より奇なりとはよく言ったもんだ。

なにも喋れないまま、愛菜之母がお茶を啜る音が響く。

この話は、聞くべきだっただろうか。いや、後悔してももう遅い。そもそも後悔はしない。

愛菜之のためなら、なんでもすると誓ったんだから。

「……そんなに難しい顔しなくても大丈夫だよ」

愛菜之母が、苦笑しながら湯飲みを置く。そんな顔をしていたつもりはないが、顔に出やすい質だというのを忘れていた。

「……すいません」

「謝るこたぁないよ。そうなるぐらい愛菜之のこと考えてるってことだからね。ありがたい限りさ」

ありがたい、か。

その言葉は愛菜之を救ってから言ってほしい。今のところ俺は、愛菜之になにもしてやれていないんだ。

昔に救ってくれた、と言っていたが、俺の記憶にない以上、例え救っていようがいまいが俺にとっては救っていないも同然だ。それに今、俺のほうが愛菜之に救われているような状況なのに。今じゃ俺は、愛菜之がいないと壊れそうになっているのに。

それなのに、救う。そんなことできるわけがない。

「……また、難しい顔してるよ」

「……え? あ、すいません」

俺が慌てて謝ると、また苦笑いを浮かべて席を立った。

「お茶、入れるよ。そんな顔してないでさ、あったかいものでも飲んで休も?」

「あ、俺、手伝います」

俺も席を立つと、愛菜之のお母さんはそれを手で制す。

「こういう時は素直に甘えなさいなー」

そう言って俺のマグカップと自分の湯飲みを持っていき、鼻歌を歌いながらお湯を沸かし始めた。


お湯が沸くまでの間に色々と考えてみる。

誕生日にとんでもないプレゼントをもらったもんだ。彼女の、大切な話を聞くなんて。まぁ、俺から聞きたいと頼んだところもあるが。

ぼーっ、としていると、愛菜之母の後ろ姿が目に入る。綺麗な黒髪が、部屋の明かりに照らされて美しい。

そういえば、愛菜之母の整った動作はお嬢様だから、なのだろうか。

それなら納得がいく。本人は当たり前のように整った動きをしていて、それを見ているこっちは息が詰まってしまう。

この人と生きてきた愛菜之の父は、どんな人だったのだろう。きっと愛菜之父も、俺と愛菜之のような関係だったのかもしれない。

もしそうなら、一度会って話をしてみたい。

叶わない願いを浮かべつつ、一人で結論を出したタイミングで電気ケトルのボタンがパチン、と音を立てた。

「お待たせー」

急須に新しいお茶を入れてきた愛菜之母が、生き生きとしながら帰ってきた。

手に持っているのは、急須だけではなかった。

「見て見て、このケーキ美味しそうでしょ?」

そう言って袋から取り出したのは、沢山のフルーツに彩られたショートケーキ。

艶々した苺や、なめらかそうなクリームが実に旨そうだ。

こんな美味しそうな甘味を出されると、甘党としての血が騒ぐ。絶対食べたい。店はよく知らないが、テレビでチラリと見たことがある有名店っぽい。

だがしかし、テーブルに出されたショートケーキは一つだけだった。

「やっぱり人気だからねー、一つしか買えなかったー」

たはは、と笑いながらお茶を入れる。まーた仕草が整ってる。ドラマに出てくる女将さんのような綺麗なお茶の淹れ方。

お茶を二人分入れ終わり、これまた上品な仕草で椅子に座る。

「……食べたい?」

「……食べたい、です」

正直に答えると、うむうむと頷いて、ニヤリと笑った。

……おぉ、愛菜之が悪いことを考えている時と同じ顔をしている。どうしよう、逃げたい。

「それならぁ……」

ショートケーキにフォークを一線。おぉ……スポンジがふわりと……。クリームも……うわぉ……おいしそ…………。

ケーキに釘付けになっていると、愛菜之母は楽しそうにニヤニヤ笑いながら、フォークを向けてきた。

「はい、あーん」

「うえ?」

間抜けな声が漏れる。そりゃそうだ。考えもしないことを言われた上に、俺はケーキに釘付けだったのだから。

「じ、自分で食えます」

慌ててフォークを受け取ろうとすると、スイッとフォークを下げる。

頭いっぱいにはてなマークを浮かべていると、ブーブーとブーイングを飛ばしながら文句を言いだした。

この人、結構子供っぽいとこあるな。

「ダメだろー、ちゃんとあーんして食べなきゃー」

「え、いや、その……恥ずかしいんですけど」

彼女にあーんされるだけでも恥ずかしいってのに、彼女の母親に?

何歳かは知らないけどすごい若くて綺麗で、普通にドギマギしてしまうんで普通に食わしてほしい。

だが愛菜之母は、あーんじゃなきゃ食べることを許してくれないようだ。

「恥じらいを捨てなさい! ケーキを食べたければ!」

ケーキのために俺は感情を捨てろと!?

くぅ……仕方ない! 捨てましょう! ケーキのためだ仕方ない。

断捨離は得意なんでね、感情もパパッと捨てていこう。

「あ、あーん……」

俺が口を開けてスタンバイすると、フフン、と得意げに笑い、実に楽しそうにフォークを俺の口へ運ぶ。

口に入ると同時に、ケーキの香りが鼻を通る。上品で、爽やかで、美味い。語彙の少ない俺には美味いと表現するほかない。

あまりの美味しさに涙がこぼれそうになる。ああ、嗚呼……。

なにか視線を感じて愛菜之母を見てみると、とても愛しそうに俺を見ていた。

それも、愛菜之がいつも俺にそうするように。

「ふふ……可愛い」

ドクン、と心臓が跳ねた。

本当に、本当に愛菜之に似ている。笑ったその顔も、愛おしい者に向ける優しい声も。

「はい、あーん」

焦る心臓を必死に抑える。目の前の女性に、完全に魅入ってしまった。

言われるがまま、されるがままに口を開ける。

きっと愛菜之は怒るだろうな。なんて言えばいいんだろうな。愛菜之以外の女性に目を奪われるなんて、最低だな。

口にケーキを運ばれながら、ぼんやりとそう考えていた。


「なに、してるの?」

底冷えする声。何もかもを凍てつかせ、込められた殺意は尋常ではないことがわかるその声。

何度も聞いてきた、聞き馴染みのある安心する声。

ギギギ、と油の切れたロボットのように声のする方へ首を向ける。

リビングのドアがいつの間にやら開けられていた。そして立っていたのは、愛菜之だった。

「あ、おっかえりー」

愛菜之母は、その殺意も凍えるような声も物ともせず俺にフォークを向け続ける。

俺は目の前のケーキに食いつくでもなく、愛菜之を悪戯がバレた子供のようにおどおどしながら見ていた。

「なに、してるの?」

もう一度、放たれるさっきと同じ言葉。

けれど最初とは明らかに違った。込められている殺意の大きさが。

ドクンドクンと命の危機を感じながら早鐘を打つ心臓。頬に一筋流れる汗。

この状況をどう説明したらいいんだろう。どんなにうまく説明したって愛菜之の怒りを沈めるのは難しいだろう。そのぐらい、彼女は怒っていた。

「あー。ほらほら、早く食べなきゃ溶けちゃうぞー」

「え? あっ」

フォークから零れ落ちそうになっているケーキに何も考えず、言われるがまま食いついた。

瞬間、感じたもの。

殺意でもなければ、寒気でもない。

感じたもの、それは憎悪だった。けれど、俺に向けられたものではない。

「やめて」

たったの一言で場の空気がガラリと変わった。なんだこれ、バトル漫画か?

そんなことを考えてないとあまりの恐ろしさに押しつぶされそうだ。

「ごめんって。許して許して」

それでもやっぱり愛菜之母は、飄々としながら受け流す。

口の中の人気店ショートケーキの味が分からないぐらい愛菜之が怖い。愛菜之は、母親に向けるような視線とは到底思えない眼差しを向けていた。

「晴我くんにそういうことしていいのは私だけなの。やめて」

「そんな怒んないでよー。あ、ちゃんと交換してくれてる。えらいぞえらいぞ」

そう言ってぽんっ、と愛菜之の頭に手を乗っけた。

思わず喉がきゅっと締まる。今やったことは、明らかに火に油だ。

うるさいぐらいに鳴る心臓と滝のように流れる背中の汗。愛菜之母の無事を祈って、俺は目を瞑った。




…………ん?

おかしいな、ぐちゃ、とか、ぐしゃ、みたいなやばい音が聞こえてこない。つまり……?

恐る恐る目を開けてみると、目の前が殺人現場になってはいなかった。

「…………はぁ」

深いため息を吐いて、失望した目で母を見る愛菜之。ハイライトのかかっていないその目に、背筋がゾクリとする。

そっ、と歩き出し、机の上にビニール袋を置いて俺の隣に座る。

「晴我くん、左手出して」

「え? あ、はい」

言われるがまま左手を出す。そして、ヒヤリとした感触が手首の周りを囲った。

「……愛菜之」

「なに?」

いつもの柔らかな応答じゃないことにちょっとビビっちゃうが、これは何か聞きたい。ていうか、聞かなきゃダメなやつ。

「これ、なに?」

「手錠」

ジャラリ、と金属音が俺と愛菜之を繋ぐ手錠から鳴る。

なんてことないように言ってるけど手錠、どっから出した? ていうかなんで手錠持ってんの? あと目の前にお母様いますよ?

困惑しながら愛菜之を見ると、俺の聞きたいことを察したのか、愛菜之が説明してくれた。

「こうでもしないと晴我くん、すぐあっちこっち行くでしょ?」

「いやそんな浮気男みたいな……」

「違うの?」

「違いません!」

いや、浮気って言っても愛菜之母にあーんしてもらっただけだぞ? 先生、これは浮気に含まれますか?

俺が敬礼せんばかりの勢いで返事をして、愛菜之はよろしいと言うように頷く。

そんな様子を、愛菜之母は面白そうにニヤニヤしながら見ていた。

「愛菜之も、ほどほどにしたげなよー」

「誰のせいか分かってるの?」

母の軽口に愛菜之はスパッと言い、俺の腕に抱きつく。俺も言いたかったことを言ってくれてありがとう。

そして、その抱擁に抗議するわけでもなく、ていうか抗議できない俺はされるがままだった。抵抗したら命取られそうだし。

「晴我くんは私のものなの。手を出さないで」

「ちょっと揶揄っただけよー。ごめんってば」

「ちょっとなんて軽い気持ちで手を出さないで。晴我くんにダメって言われてなければ殺してたよ?」

俺が人を殺しちゃいけないよ、と言い聞かせていたのを守ってくれているらしい。えらい、えらいぞ愛菜之。

人を殺しちゃいけないのは当たり前のことだと思うけど、ちゃんと言いつけを守れてえらいと、俺は思う。

そんなことより、このあたたかな抱擁をお母様の前でしていることが気になるんです。

「あの、愛菜之さん。目の前にお母様が……」

「お母さん。晴我くんは私のものなの。分かるでしょ? 目の前の私たちを見れば分かるでしょ? ねぇ?」

俺の言葉には、耳を貸していただけないようだ。うう……あったかい……。

三度の確認で、俺は愛菜之のものだということを主張する。どこぞの現場じゃあるまいし、三回も確認しなくても分かるでしょ……。

「いやーわかんないなー、手ぇ出しちゃうかもなー」

いや分かってよそこは! 分からないほうがおかしいでしょ!

食ってかかるその言葉に、俺を抱きしめる力が一層強くなる。そんなに絞められると柔らかさとか微塵も感じなくなるんだが。

「……分かった」

分からせるはずの愛菜之が何かを分からせられている。ママ強し。

そして愛菜之は一体なにを分かったんでしょうか。なぜ、私の方を見ているのでしょうか。嫌な予感がします。

愛菜之はおもむろに口にケーキを含むと、俺の頬をガッチリホールドして見つめ合う。あ、この展開、見覚えある。

「んむっ」

予測可能回避不能。それに手錠のせいで逃げられなかった。

なんてのは詭弁で。

避けようと思えば避けれた。けど、避けなかった。俺は拒むどころか、されたいと望んでしまったんだ。

口移しで食べさせられる甘いケーキ。彼女の母親の目の前だというのに、熱く、嬲るように渡される。

甘い香りが脳の奥までも染めていく。彼女の香りと、ケーキの香り。

頭の中がおかしくなりそうなぐらい幸せで、たまらない。死んでもいいとさえ思えてくる。

「ぷはっ」

ケーキを俺の喉に流し込み終わると、口を離して母親をキッ、と見る。所有権は自分にあるとでも言うように。

それをニヤニヤしながら、楽しそうに見ている愛菜之母。うん、おかしいね。そこ何か言って欲しいね。

そのニヤニヤ顔が気に食わないのか、それともまだ分かっていないと思ったのか、再度唇を重ねてきた。

口内をまた犯されていく。また幸せを感じていく。彼女の親の目の前でこんなことをすることに、罪悪感と背徳感が押し寄せてくる。

ここまで来ると、なんだか色々と気にしている自分がバカらしくなってきた。

いっそ俺もキスに応えてやろうか。そう思っていると、カシャ、という機械音が響いた。

聞いたことのある音。俺達の世代なら尚更聞く音だ。

音の方を見てみると、愛菜之母がスマホを構えていた。

なんで撮っているのか、今すぐにでもキスをやめなきゃ、スマホを取って写真を消さなきゃ。

いろんな考えが頭の中でこんがらがる。それも仕方ない。今の状況が異端すぎるのだから。

ようやく唇が離れた時には、愛菜之母は十回程、機械音をスマホから鳴らしていた。

「はぁ、はぁ……」

息の荒い俺とは対照的に、唇をちろりと舐めて満足そうに息を吐く愛菜之。

「はぁ……写真、消してください」

息も整いきらぬ内に、写真を消すことを要求する。なにが悲しくて彼女の母親の写真フォルダに、俺と彼女のキスシーンの写真を残さないかんのだ。

「んー? いいよ」

あっさりと、消すことをオーケーした。そう簡単には消してくれないだろうとばかり思っていたから、拍子抜けしてしまう。

愛菜之母が何を考えているのか分からないまま、困惑しっぱなしでいると、愛菜之のスマホからピコン、と通知音が数回鳴った。

「……ばっちり」

嫌な予感がする。何度目かもわからない嫌な予感。通知音の回数的にも、タイミング的にも予想がつくから余計にタチが悪い。

「私のスマホからは消しといたよ。私のスマホからは」

私のスマホからは、か。根こそぎ消して欲しかったんだがな。ほんっとに、この親子は……。

ていうか、なんで愛菜之に送信したんだ。意味も意図もわからない。ますます困惑するばかりだ。

「ごめんね、晴我くん」

唐突に愛菜之に謝られ、困惑が加速する。愛菜之が謝ることは特にないと思うが……いや、親の前でキスはさすがにダメだと思うけど。

「私、お母さんと手を組んでて」

「……手を組んだ?」

どういうことだ。愛菜之は愛菜之母と一触即発、ていうかもうバチバチに火花散らしてたけど、それは全部嘘だったってことか?

「私と晴我くんの時間を奪ったお母さんにね、条件を出したんだ」

条件。推測するに、時間を奪われたから、その対価としてなにかを要求したってことだろうか。

たぶん、その推測で合ってるだろう。俺も少しは愛菜之の伝えたいことを予測するぐらいできるようになってきている。

それで、その要求したこと、要求したものはなんだ。

思考をせっせと働かせていると、愛菜之は優しい声音で俺に答えを教えてくれた。

「私と晴我くんが、離れられなくなる鎖」

……鎖? 今、俺と愛菜之の間でジャラジャラ言ってるこの手錠のことだろうか。

愛菜之母なら手錠の一つや二つ用意できそう。いや、愛菜之でも用意できるか。ていうより、愛菜之なら用意できるだろう。

「これのことか?」

手首を上げて、手錠のことかと聞いてみる。が、愛菜之は首を横に振った。

「これもお母さんに用意してもらった物だけど、こんな物理的な物だけじゃ足りないもん」

いや、十分だろ。

なんて冷静にツっこんでいるが、その実、確かに足りないなんて考えている自分がいた。底無し沼に嵌った自分は、冷静な自分さえも引きずり込もうとしている。もしかしたら、もう片足を突っ込んでいるのかもしれない。

「だから、写真か?」

「うん。これ、見て」

我が意を得たとばかりに嬉々として頷き、スマホを見せてきた。

俺と、愛菜之のキスシーン。激しく求められ、それを受けて幸せを感じている自分。

思わず唾を飲む。その時の光景が、思いが、熱が、幸せが、ありありと浮かび上がってくる。

俺が何を考え、感じているかも分かっている愛菜之は、ふふっと笑ってスマホを閉じる。

「それに、厄除にもなるんだよ」

「……厄除?」

「そうだよ。他の女が寄ってきたらこれを見せるの。私と晴我くんの愛し合ってるところ。そしたら、その女は絶望する。絶望を味合わせて、二度と晴我くんに近づかないようにした後、殺すの」

黒いクレヨンで殴り書きしたような渦が、愛菜之の瞳の中で渦巻いていた。その瞳を見るのは何度目だろう。この瞳を見る度に、恐怖を覚えていた。彼女の奥底に潜む狂気に恐れ、怖がっていた。

けれど今は、そんな彼女の瞳も狂気も愛おしい。元々、その狂気に惹かれていた。今はその狂気に惹かれるばかりか、恋い焦がれている。

「人は殺さないでくれよ……」

「晴我くんの言うことは出来る限り聞くから、安心して?」

それならいいんだけど……。愛菜之は俺を絶対優先してくれる。

「それにもし、晴我くんが他の女と付き合いたいからって別れようとした時は、これがあれば晴我くんは私から離れられなくなるから。これ見たら、思い出すでしょ? 私のこと」

写真をスライドして、次の写真を表示する。またスライドして、またスライドして、次へ次へと。その度に俺は、思い出して、熱くなっていく。

けれど。

「……いらなくないか?」

本音が漏れる時って本当にぽろりと漏れるもんなんだな、なんてぼやーっ、と考えていた。

「え?」

「いや俺、愛菜之から離れるつもりはないぞ」

「…………」

愛菜之が顔を赤くしてフリーズしている。久しぶりにフリーズしてるの見たな。

今の状況によくわからんノスタルジーを感じていると、愛菜之母が口を開いた。

「お熱いとこ悪いけど、お話いいかな?」

「あ、えと……なんかすいません」

完全に愛菜之母のことを忘れていた。その上、また目の前でイチャついてしまった。

これ、普通の家庭なら腹切れって言われてもおかしくないと思うんだが。

「別に謝ることないよ。君らの時間奪ったのは事実だしさ」

フリーズしっぱなしの愛菜之をチラリと見て、フッと笑う。まるで安心したように、悲しむように。

「二人とも、仲が良くて安心したよ。けれどね、私は親なんだ」

優しかった顔は、真剣な表情へとサッと変わる。その変化に、場の空気も変わった。

「それと、経験者でもある」

「経験者……」

俺のオウム返しに、頷いて応える。どこか遠くを見て、なにかに想いを馳せながら言葉を続けた。

「私と夫も、お互いに依存して、幸せに浸ってた。君たちと同じようにね。そんで、片方が欠けて、もう片方は壊れた」

遠くを見ていた目からは、いつの間にか光が消えていた。

愛菜之母の過去を聞いた今、その言葉と目の意味が理解できる。

「いつかは、片方が欠けるんだ。今進んでる道は、危ない。進めばきっと、私たちと同じ道を辿ることになる」

その人のは、重みが違った。

今までも何度か、周りに言われたことがある。そんなに引っ付きっぱなしで、面倒なことになるんじゃないかと。

周りの人間、つまりクラスメイトの人間が面白半分で言ってきた。そんな面白半分のことを受け止めるのもバカバカしくて、俺も適当に返していた。

けれどこの人は、この人とこの人の愛した人は、俺たちと同じような生き方をしてきた。だからこそ、言葉の重みが違う。俺も、真剣に受け止める。

「本当はこんなこと、言いたくない。こんな言葉だけ伝えることしかできない自分が歯痒いよ。けど、本当に二人が心配なんだ」

真剣な表情が崩れる。眉を下げて、俯いて、悲しげな表情を浮かべた。

「距離を置いて。一旦、離れるんだ。君たちは近すぎる。正常に戻って」

俺たちのことを、心の底から案じているのが分かる。その態度や、言葉に嘘偽りも混じっていないことも。

確かに、俺たちは距離が近い。それを表しているのは、今繋がれている手錠なんかが分かりやすいだろう。

この言葉を、思いを受け止めなくちゃいけない。けれど、けれど。

「でも、それはお母さん達の話でしょ?」

「……愛菜之」

俺が思っていたことを、いつの間にかフリーズが溶けていた愛菜之が言い放つ。キッ、と睨んで、否定の姿勢をギラギラと見せつける。

「……確かにそうだよ。けど、いつまでもお互いに溺れてられるわけじゃないんだ」

愛菜之母が、愛菜之を正面から見つめて返す。

「私みたいになったら、どうするの? 私みたいに、空の向こうにいるあの人の背中をいつまでも追い続ける悲しい人生なんて、あなたに送って欲しくない」

「……悲しい、人生?」

愛菜之が、愛菜之母の言葉を繰り返す。

「なにが、悲しいの? 全然悲しくなんかない。好きな人の、大好きな人のことを追いかけられるのは、幸せなことでしょ?」

「……違う。違うんだよ。悲しいだけなんだよ」

「違わなくない。私はその人生を悲しいとは思わない。好きな人を思えるなら、私はそれだけで幸せだから」

母親の否定をまた否定する。俺の手を握って、愛菜之母に見せびらかして、愛菜之は続けた。

「それに、お母さん達と同じ道を辿るって言ったよね?」

「……言ったよ。事実、君たちは辿ってる。進行形で」

「それも違う」

愛菜之は、母の言葉をまた否定した。見せびらかす二つの手の内、彼女の手の力が強くなった。

「私と晴我くんと、お母さん達は違う」

その言葉に、俺も思わず手の力が強くなる。言いたかったことを、次々に言っていく愛菜之を横目で見る。真正面から母親を見つめる彼女の横顔は、いつも通り美しく、いつもより胸を燃やさせられた。

「私と晴我くんは同じ道を歩かない」

強い意志を込めて、そう言い放つ。母親を見る目は、鋭いものじゃなく、穏やかで、けれど力強いものだった。

「晴我くんといれば、私はなんだってできるから」

彼女はそう言って俺を見て、穏やかに微笑んだ。その微笑みに、心の底から信頼されているんだと、安心した。嬉しかった。

「俺も」

俺も、その気持ちに応えたい。

「俺も、愛菜之といればなんだってできます」

「……晴我くん」

俺と愛菜之の決意が固いことに、愛菜之母はため息を吐いた。

けれど安心したように、薄く笑っていた。

「晴我くん」

「はい」

突然名前を呼ばれ、少し驚きながら返事をする。声が上ずらなかった自分を褒めたい。

これから言われる言葉を、心臓をバクバク鳴らしながら待ち構えていた。

「愛菜之を、よろしくお願いします」

今すぐにでもガッツポーズをしてはしゃぎ回りたい。愛菜之を抱きしめたい。

その全部を我慢して、至って冷静を装いながら、

「……はい!」

ありったけの思いを込めて、返事をした。

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