第40話

拒否権はないと言われたが、そのまま受け入れてするわけがない。

ていうか、愛菜之は必ずそういうことをするとなると、俺が本当の本当に限界になるまで搾り尽くす。それでしばらく、いや丸一日動けなくなる。

夏の頃、散々思い知らされた。せっかくの誕生日だし、同じ轍を二度踏まないようにしたい。必死に頭を回転させ、逃亡を図ったのだが。

「晴我くんは逃げるなんてことしないよね? ね?」

あっという間に、俺は手錠で背中の後ろに手を拘束され、抵抗しようにもできない状態にされていた。

「しばらくシてなかったでしょ? 今日は誕生日だもん。いっぱいシようね」

そう言って俺の部屋着を引っ剥がそうとしてくるけど本当に待ってほしい。

どうしようどうしようやばいやばい! 手錠で拘束されて壁際に追いやられた状態で本当に逃げ場がない。

本当に動けなくなる時の疲労感は辛いんだよ。休んでるはずなのに休んだ気がしないという矛盾をしばらくの間味わうことになるんだから。

「抵抗しちゃダメだよ? ちゃんと脱ぎ脱ぎしようねー」

そんな甘やかすように言われたらこう、クるものがあるからやめて!

鼻息荒い愛菜之がハァハァとズボンに手をかけた時、ようやくブレていた思考がまとまり、逃げるのに最適な言葉が見つかった。

「ま、愛菜之! 今日は俺に尽くすんだろ!? なら、今日はしなくていいんじゃないか!?」

これでどうだ、俺に尽くすと宣言しておいて俺から搾り取ろうとするなんてできやしない。……はず。

「うん、尽くすよ。いっぱい」

「な、なら、離れて……」

「どうして?」

「はえ?」

「どうして?」

いや、どうしてって……尽くすってんなら、俺が疲れるようなことはしないはずじゃ?

「私、晴我くんを気持ちよくして、尽くしてあげたいんだよ?」

「そ、そういうことか……」

理由はわかったが……俺、気持ちよくしてほしいとは頼んでないんだわ。

……ていうか、良くないことを考えてしまった。まさか、今日一日愛菜之が俺にしてあげたいことをしまくる、とかないよな?

そんなことされたら色々と辛いぞ俺。いや、嫌なわけではないけどね?

俺がこの後のことを考えてダラダラと汗を垂れ流していると、愛菜之がニコニコしながら今度はパンツにまで手をかけ出した。

「はーい脱ぎ脱ぎー」

「待って! 待って愛菜之さん!」

なりふり構わず脱がそうとしてくるのを本当にやめてほしい!




誕生日に貞操の危機を感じるとは思わなかった。ていうか、なんで男なのに貞操の危機を感じなきゃならんのだ……。

「ごめんなさい。嫌だったかな……?」

ちゃんとごめんなさいができる愛菜之はいい子だなぁ。……俺は思考停止してないよほんとだよ。

「嫌なわけない。けどせっかくの誕生日に動けなくなるのはちっとな……あと、下着着てくれな」

愛菜之にできるだけ優しくそう言って、下着もちゃんと着てもらった。あと、服も変えてもらった。

俺の性癖にどストライクな服装でずっと迫られ続けたんじゃ理性が持ちそうになかった。

適当に服を見繕って渡したのだが……。

「えへへ、晴我くんの匂い……好き」

俺が普段着ているシャツを着た愛菜之が恍惚とした表情でシャツの襟元を嗅いでいる。洗剤の香りしかしないと思うけど。そんなに臭うか俺。……臭い消しとか使ったほうがいいのか。

俺の方が背が高いのでブカブカになるかと思っていたが、その豊満な胸のおかげでサイズはぴったりだった。

それがまた一層、目を向けられない状態にしていた。さすがに下は合うやつがなかったのでそのままだが、それもまた彼シャツの特別感を際立たせていて……これ以上言うと長くなりそうだからやめとこう。

「晴我くんのシャツもいいけど……やっぱり晴我くん自身が一番好き」

そう言って抱きついてきた。下着を着てもらったからさっきよりかは劣るが、それでもその大きな胸は十分な破壊力を持っていた。

俺の平らな胸に愛菜之の柔らかい胸が押しつけられる。幸せと照れと恥ずかしさがないまぜになって、わけがわからなくなっていた。

「は、離れて愛菜之」

「なんで? 私のこと好きなんでしょ? だったら、離れなくてもいいよね?」

「好きだから離れて欲しいの!」

「よくわかんないよ」

そうは言いつつも渋々と俺から離れてくれた。物わかりのいい彼女さんでよかった。

「ふぅ……じゃあ、どっか出かけようぜ」

「うん、服脱ぐね」

「裸はダメって言ったよね?」

訂正。彼女さんはものわかり悪かった。




昼の一時からしか家から出てはいけないと学校からは連絡が入っているが、それを律儀に守る生真面目学生はほとんどいない。

時刻は正午頃。

俺たちもその連絡を無視して街へ繰り出した。

「今日は少し遠出しよ」

愛菜之の提案に乗り、電車に乗って少し遠くまで行くことになった。

遠く、と言っても中央区に行くだけだが。

そして中央区にはアミューズメント施設がある。大体のものが買えたり、遊べたりするので遠出する価値は十分ありだ。家族連れやカップル、学生の集団も遊ぶときにはここを使う。

それで、愛菜之の服装なんだが……俺のコートを着てもらっている。

コートの下はお察しの通り、俺の服だ。出かけるわけだし、自分の服に着替えなさいと何度も言ったが聞かなかった。

外は温度がかなり低く、俺の服は布が薄いので仕方がないからコートを貸した、と。

そして今、なぜかは知らないがホクホク顔の彼女と電車に乗っている最中なのだが……。

「思ったより人多いな」

席は埋まっており、立つしかなかった。

平日の昼間なので人は少ないもんかと勝手に思っていたが、どうやらうちの高校の生徒たちが乗っているせいで席が埋まっているっぽい。

どこかで見たような顔の人ばかり乗っていた。どいつもこいつも自宅待機の時間を守るつもりはないらしい。人のことは言えないが。

「席、いっぱいだね」

俺の左手を握りしめる愛菜之がそう言って俺を見上げた。

席はいいんだけどね、それより気になるのが……。

「愛菜之、電車の中ぐらいは手を繋ぐのやめないか……?」

ガッチリと恋人つなぎで俺の手をホールドしている。周りがチラチラこっち見てるんだよなぁ……見せつけてるわけじゃないんです……。

「嫌、ずっと繋ぐ」

こうしてないと彼女さんが嫌っていうんです。こんな可愛く言われたらずっと繋ぎたくなるでしょ? 俺はなるね。

「本当は腕を組みたいんだよ? でも晴我くん、恥ずかしいって言うんだもん」

我慢してるんだよ? と、少し頬を膨らましてそう言う彼女を抱きしめたくなる衝動に駆られる。可愛いことばっかり言うんだからよこの彼女さん。

「……電車降りたら、腕組むか?」

「! うん! うん!」

俺にそう言われ、驚いたあと嬉しそうになんども頷いた。そんなに嬉しいアピールされるとなんだかむず痒くなる。


ぼーっと、窓の外で次々変わる景色を見ながら考える。

誕生日で、俺は十六になった。

歳は変わったが、それで俺のなにかが変わるわけでもない。この関係も。


本当に、そうだろうか。

変わらないでほしい、なんて俺の願望が混じってるだけじゃないのか。ただの希望的観測じゃないのか。

もしかしたら。もしかしたら愛菜之は、俺から───


「きゃ」

「おっと」

電車が突然大きく揺れた。

思考が現実に引き戻される。寝ているところを無理やり叩き起こされた時のような感覚を感じた。

そして揺れのせいでこっちに倒れそうになってきた女性を、反射的にしっかりと支えてしまった。その拍子に、愛菜之と繋いでいた手も離してしまった。

「あ、す、すいません。ありがとうございます」

「いえ、怪我はないですか?」

「大丈夫です、ありがとうございます」

女性は注目の視線が恥ずかしいのか、俺から距離を取っていった。………なんだかショックだ。

「……晴我くん」

「ん、ごめん愛菜之。手、離しちゃったな」

能天気なその発言は愛菜之の感情に油を注いだらしい。愛菜之の瞳が一層暗くなる。

「それもだけど………降りたら、お話ししようね」

この時になってようやく愛菜之の目が酷く濁っていることに気づいた。我ながら気づくのが遅すぎて情けない。

そして怒りに燃える愛菜之に、俺が逆らえるわけがなかった。

「……ひゃい」

黒く濁っている大きな瞳に吸い込まれるような感覚を覚え、噛みながら返事をすると、よろしい、と言うようにぎゅっと手を繋いだ。

そのあとは目的の駅に着くまで一言も話さなかった。




「……」

人といる時の無言は気まずいかどうかと聞かれると、別に気まずくないと俺は答える。が、今この状況の無言はかなりきつい。

なぜだか常に息苦しく、無駄な咳払いやあくびが増えていく。いつもなら隣に愛菜之がいてくれるだけで心が安らぐのに。

電車から降りたら腕を組む、という約束はしっかり守りつつも、愛菜之は俺に目を合わせようともしない。

完全に怒っている。前にも似たようなことがあったような……そう、あれは愛菜兎が俺を押し倒してキスをした時だったか。上書きをして終わりだったかな。

ただ、その時の経験は今は役に立ちそうにない。どうしたもんか……。

「あそこ、座ろ」

愛菜之が指を指した方向には休憩スポットがあった。ベンチが置いてあり、話すにはちょうどいいだろう。

今のこの状況で別のところに行こうなんて言えるわけもないし言う必要もないので大人しくベンチに座る。愛菜之が隣に座って、話し始めた。

「私がお話ししたいことだけど、なにをお話しすると思う?」

一息ついて、というわけでもなくサッと本題に入る。その素早さに思わず怯むが、俺もササっと質問に答えないと更に機嫌が悪くなりそうだ。

「あー……さっきの、女の人を支えたことか?」

「わかってるみたいでよかった。わかんないって答えてたら、私がどうするかわかんなかったよ」

ひえっ。ここまで言うとは、かなり怒ってるみたいだ。そんなに怒ることなのかぁ……? ただ女の人を支えてあげただけだぞ?


……どうするかわかんない、か。なにされるんだろう。拉致監禁、拘束、生活管理……正直言わせてもらうと、今挙げたことを愛菜之にされても俺は嬉しいとしか思わないな。むしろされたい。

「なんでニヤニヤしてるの? 今、ニヤニヤするところ?」

「え? あ、いやごめん」

いつの間にやら俺の顔を正面から覗き込んでいた。整った顔立ちはいつ見ても可愛い。美人も三日見れば飽きるとは言うが飽きそうにないな。ありゃ嘘だ。俺が証明した今。

のんきにそう考えていると愛菜之は口だけで笑いを作り、俺に確かめるように聞いてきた。

「なに考えてるか、当ててみようか? さっきの女の感触思い出してたんでしょ?」

「え、違うけど」

なんでそんな知らん人の感触思い出さなならんのだ。即答がなによりの否定の証だと思うのだが、それでも愛菜之は俺の返答が信じられないらしい。疑うような視線で俺の目を覗き込む。

「じゃあなに考えてたか教えて」

「愛菜之のこと考えてた」

嘘を吐く必要もないので正直に答える。すると愛菜之は一息置いてから、ボッ、と赤くなった。

「ふえっ? わ、私のこと?」

「ああ、そうだよ」

頷きながら答えると愛菜之はコートの袖で顔を隠した。どうやら顔を見られたくないらしい。

大きな瞳だけを覗かせ、それでも疑わしそうに俺の顔を見つめた。

「う、嘘」

「嘘じゃないってば。俺が誰かのこと考える時はほとんど愛菜之のことだぞ」

そう言うと桃色の頬はみるみる朱色に染まっていった。冬だっていうのに暑そうに顔をパタパタと手で扇いでいる。

ふぅ、はーと慌ただしい深呼吸をしてから、さっきよりかは赤くない顔で俺にもう一度問い詰める。

「じゃ、じゃあ。私の、どんなこと考えてたの?」

「えっ」

それを聞いてくるんですか。

いや、言ってもいいが愛菜之に引かれそうで言いたくない。引かれなかったとしても「喜んでくれるなら何してもいいよね?」 と、タガが外れそうで怖い。

ていうか単純に俺が恥ずかしいから言いたくない。

「言って。本当に私のこと考えてたなら言えるでしょ?」

言いたくねぇー……。さっきも言った通りそういうことされたいとか言うの恥ずかしいんだよね。

うーん、適当なこと言っても大丈夫かな? 大丈夫だろ。

「あ、嘘言ってたら分かるから適当なこと言おうとしたらダメだよ」

詰み。完全に詰められました。ご愁傷様自分。

嘘ついてたら分かるってエスパーかなにかですか? 愛菜之にサプライズする時とか隠すの大変そうだなぁ……。

「早く言って、晴我くん。…………それとも私のこと考えてたのって、嘘なの……?」

言葉の最後で悲しそうに顔を歪める。そんな顔しないでくれよ、抱きしめたくなるだろ!

……彼女に悲しい顔をさせてる悲しい男こと、俺は悲しいかな、すぐに嘘じゃないと言い出せなかった。言い訳なんか考えてるからである。

ほんの少しの間、それが愛菜之を不安にさせるには十分だった。

「嘘、なんだ……」

「嘘じゃない! 本当に愛菜之のことで頭いっぱいだったから!」

なにを言ってるんだろうね自分。

今更だけど周りから見たら俺たちはどう映ってるんだろう。

至近距離で見つめ合うラブラブカップルに見えるだろうか。

その実、彼女に詰め寄られて言い訳まくしたてる恥ずかしい彼氏というのが現実だ。

こんなやりとりをしていたら、本当に関係に変わりはないんだと思えてくる。変わらないものなんてあるはずないのに。

「……ごめんなさい、こんなめんどくさい女で」

「え!? いや、ちが……」

俺が考え事をしていると、辛そうに胸に手を置き、そう謝りだした。そんな愛菜之に焦りが加速する。

愛菜之に謝らせてまで、今になってようやく踏ん切りがついた俺は考えていたことを話した。

「愛菜之」

「……なに?」

「俺が考えてたことは───」




「好き、好き好き」

こうなった。

お話はどこへやら、俺の話を聞き終わるや否や、俺の腕に抱きつくを通り越して絡みついてずっと好き好き言っていた。

周りはそれを、嫉妬や好奇を通り越して奇異の視線を向けていた。行き過ぎた愛情表現は、周りから見れば異常なものに見えるらしい。

それにしてもコートの防衛力はすごいな。いつもなら腕に当たる凶暴な双丘が微塵も感じられない。コート万歳。ありがとうコート。

コート神を心の中で拝んでいると愛菜之が腕に頬擦りをしてきた。周りはそれをやっぱり眉根を寄せてチラリと見る。

愛菜之のその異常な絡みかたは、まるでさっきの女性に触れた部分を自分の体で上書きしているように思えた。


それにしても、愛菜之はその……ちょろい。俺が愛菜之のことを考えていたと言うだけで喜び、嬉しそうに頬を緩ませて、お説教は水に流す。

まぁお説教される謂れはないと思うけれど、俺がほんの少し甘い言葉をかけるだけでころりといってしまうのはよろしくないと思うんだ。

いつか、悪い誰かに利用されそうで怖い。

いつか、自分が利用してしまいそうで怖い。

怖がる内はまだ正常なんだろう。……いつか怖がる日がなくなったら。

いや、ただ自分が利用しようだなんてことをしなければいいだけの話だ。

そもそも、利用しようとしたときが愛の尽きだろう。


愛の尽き、か。

……ああ、こんなこと考えるんじゃなかった。また嫌なことを考えてしまった。人間、考えることが義務ではあるが考えすぎるのも困りものだ。

もし、愛菜之が俺を───

「……れがくん、晴我くん」

「……ん? あ、どうした?」

「ぼーってしてたから、どうしたのかなって」

「なんでもない。……腹、減ったな。なんか食うか」

「あ、それならお弁当作ってきたよ」

そう言って満面の笑みでバッグからバスケットをだした。用意周到なことで……。


お弁当はサンドイッチだった。

レタスやチーズ、ハムに卵、色とりどりに飾られているバスケットに思わず見入る。

「じゃあ、いただきます」

「どうぞ召し上がれ」

そう言って流れるように俺の口元にハムサンドのサンドイッチを持ってきた。当たり前のようにあーんをしてくる。

それを俺も当たり前のように受け入れた。口を開けてサンドイッチにかじりつく。

「美味しい?」

小首を傾げ、あーんをさせてもらえたことを嬉しそうに喜びながらそう聞いてくる。愛菜之が作る料理が美味しくないわけがない。

やっぱり俺のことを知り尽くしているようで、味付けも俺好みだった。

「……ん、美味しいよ」

もぐもぐごくんと飲み込んでから感想を言う。何度目かの彼女の手料理には飽きることはなく、毎回楽しみだ。

幸せだ。ああ、幸せだ。たまらなく幸せで、胸が満たされている。なにも不満はない。


それなのに。

この幸せが失われた時のことを考えると、不安で不安でたまらなくなる。

失っていないのに、なにかを失ったような焦燥感と消失感に駆られる。

もし、目の前で幸せそうに笑っている女の子の笑顔が、俺以外に向けられたら。

もし、目の前で幸せそうに笑っている女の子が、俺の目の前から消えたりしたら。

「……はぁ」

思わず、ため息をつく。

俺は自分で思っていたより、愛菜之のことが好きらしい。

それも、溺愛してしまっている。

文字通りに、溺れるほどに、愛してしまっていたんだ。


「晴我くん?」

優しい声が耳に届き、現実に引き戻される。

「どうしたの? さっきもぼーってしてたし、具合悪いの?」

心配そうに聞いてくる彼女は、俺の左手を握っていた。

───いや、違った。

俺が、俺から握っていた。不安な気持ちを抑えるために。

それでタガが外れたのか、こんなことまで聞いてしまうなんて。

「……愛菜之は俺から離れないよな」

「え?」

「…………いや、なんでもない。忘れてくれ」

こんなこと聞いてなんになる。女々しいったらありゃしない。元々嫌いな自分がさらに嫌になっていった。慰めの言葉が欲しかったか。それとも、「離れないよ」 愛菜之ならそう言ってくれると期待していたか。だから、こんなことを聞いてしまったのかもしれない。

けれど、期待していた答えは返ってこなかった。

愛菜之は手をぱっと離し、俺の顔を見つめた。

それだけで俺の不安はより一層深くなった。

俺も、縋るように彼女を見つめ返す。次の言葉を聞くのが怖くて、この場から逃げ出したくなる。やけに心臓の音が大きく聞こえた。ドクンドクンといつもより早く波打つ鼓動の音が、頭の中に響いた。

愛菜之がゆっくり口を開く。焦らすように、あやすように。

言葉が、紡がれた。

「離さないよ」

……ああ。期待していたものとは違う。

「晴我くん、私ね。前にも言ったけど、晴我くんがいないと生きていけないんだ。そういう体になっちゃったんだ。晴我くんがいない世界が考えられなくなっちゃったんだ」

この言葉は、確かに俺が欲しかったものとは違った。

けれど、望んだ以上の言葉だった。

「離れないし離さないよ。絶対に。どこにいても追いかけて、見つけて、愛してみせる」

そう言い切ると俺から顔を顔を逸らして前を見て、ふふっ、と嬉しそうに笑った。

「でも、嬉しいなぁ」

「……なにが」

思わず険のある口調になる。余裕のあるその笑みが、なんだかとても悔しくて。

俺の声を聞くと、その余裕のある笑みを向けて、また一段と嬉しそうに声を弾ませた。

「私に溺れてる」

俺が感じていたことを言い当てられた。

別にそれが嫌というわけではなかった。ただ、思考を読まれているというのは誰だって薄ら寒さを感じる。

その薄ら寒さを和らげる彼女の笑顔は、温かさに満ちていた。

「もっと溺れてほしい。前よりも深く。戻れないぐらい」

───戻れないぐらい。言われなくても俺はもはや戻れないところまで溺れていた。

それよりももっと深くまで溺れてほしいだなんて、ずいぶんとわがままだな、と笑ってしまった。

「? なんで笑ってるの?」

「いや、今更だなって」

昔の、いや、昔なんてほど昔じゃない。この前のことを思い出した。

愛菜之と距離を置こうとした時の話だ。

あの時は、愛菜之の部屋に監禁紛いのことをされた。

薬で眠らせて目隠しに手錠。そのあと、結局俺は耐えられなくて。

あの時はなぜかはわからないが愛菜之を感じたくて仕方がなかった。まぁ、そういう日もあるのかもしれない。それがたまたまその時だった、ということにしておこう。

あの時から俺たちは共依存の関係に完全に堕ちた。

墜ちた、なんて表現を使うと悪く思えるかもしれないが、依存することのなにが悪い。

結局、好きという感情は突き詰めれば依存なのだ。

趣味だって恋だって、突き詰めれば依存だ。

嫌なことがあったら、現実から逃げたくなったら、そしたら人間は幸せを求めて依存先へ戻る。

話は戻るが、その時から俺と愛菜之はお互いに溺れ続けていった。

順調に、現在進行形で。

沈むたび、幸せを感じていった。溺れるたびに幸せを感じるんだから、溺れていく一方だろう。

だから今更だ。溺れてほしいなんて、今更言われなくてもとっくに溺れている。

そして俺は、溺れていく中で不意に思った。

もしどちらかが溺れるのをやめたら。行先がなくなったら。

それが不安となって現れて、俺は彼女の手を取ったというわけだ。

「今更、だよね」

確かに確かにとうんうん頷いて、また嬉しそうに笑った。

ぽてん、と頭を俺の肩に預け、ふぅー、と満足そうなため息を吐く。

「晴我くん。私が晴我くんのことを好きじゃなくなったら、なんて考えたりしてない?」

「……」

またも思考を読まれた。薄ら寒さを通り越して、むしろ感心さえしていた。

俺が黙ったのを肯定と受け取ったのか、愛菜之は少し頬を膨らませて俺の腕を抱いた。

「心外だなぁ」

「……なにが」

さっきと同じように聞くと、俺の腕に頬擦りをしながら怒りっぽく答える。

「私、晴我くんからいつか離れるように思われてるんだなって」

ぎゅっと、俺の腕を抱きしめる力を強めた。

「私は、晴我くんから絶対に離れない。離さない。もし誰かに奪われたら、奪った相手を殺してでも奪い返す。そもそも奪われたりしないように、先に奪おうとしてくる相手を殺す」

物騒な言葉に思わずたじろぐ。その言葉に嘘偽りがないのが、声の雰囲気とその瞳からよくわかった。

「晴我くんは、幸せ?」

「あ、ああ。幸せだよ」

突然の質問に少し戸惑いながら答える。俺は幸せだ。十分すぎるほどに。

俺の答えに嬉しそうに頬を緩ませながら、愛菜之は続けた。

「あのね、人って幸せだと怖くなるんだって。その幸せが失くなった時のことを考えて」

愛菜之は思い出すように斜め上を見ながら続けた。

「だから、失った時の絶望を感じるぐらいなら、今の幸せを手放そうとしたり、わざと幸せから逃げようとするの」

俺の方は顔を向け、愛菜之は聞いてくる。

「晴我くんは幸せが怖いんだよ。だから私に離れないよなって聞いてきた。もしも離れるなら、早く離れて欲しかったから。そのほうが傷が浅くて済むから」

ハッと、息を飲んだ。

俺が頭の奥底で考えていたことまで言い当てられて。

「そんなに怖がらなくていいんだよ。今の幸せをもっと感じようよ」

にっこりと笑って、慈愛に満ちた声で俺を呼ぶ。

「晴我くん。怖いならね、私がその怖さを塗り潰すぐらいの幸せを感じさせてあげる。今日はせっかくの誕生日なんだから、怖さなんて感情に悩まされてたらもったいないよ。だから、いつも以上に幸せを感じさせてあげる」

彼女は、俺を見つめて愛おしそうに伝える。

「私は晴我くんが好きだから」

彼女は、目を細めて、包み込むような優しい声音で伝える。

「私は晴我くんの好きな人だから」

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