第30話

九月。

夏休みも終わり、いつものように学校へと通う日々にまた戻る。だが今は、夏休みが終わってから二週間ほど経っている。

夏休みはいろんなことがあった。愛菜之と出かけて、愛菜之と海に行き、夏祭りに行き、そして大人の階段を登った。

思い返してみれば愛菜之のことばかりだな。それほどに俺の生活を、愛菜之は占めていた。だがそれさえも幸せに感じる。

ぽやーっ、と考えていると、パンッ、パンッと高らかに鳴った空砲に現実へと引き戻された。まだまだ暑いこの季節に、空は雲一つない青空。太陽がさんさんと輝いている。そんな天気と暑さのせいか、校庭に立っている全校生徒が同じように気怠げな顔をしている。

暑さうんぬんの前に、休みの日に学校に来なければならないのだ。例え暑くなくとも、そんな表情になるのも無理はない。現に、俺もそんな表情をしている。

ただ、この日を頑張れば明後日が休みになるということが唯一の救いだ。

そう。今日は体育祭だ。


ぼっー、と斜め前の空を見てみる。憎いほどに青々としていて、日がチリチリと肌を焼いていく。なんでこんな日に限って快晴なのかと、少しイライラとしながら考える。これは帰って風呂に入ると大変なことになるな、先に日焼け止めを塗っておくべきだったか、と少し後悔しながら、そんな風に考えていると開会式は終わっていた。退場の合図である笛の音が鳴った。

皆、その音に反応して一斉にその場で駆け足をする。そしてやっぱり気怠げに、退場していく。そんな風に体育祭が始まるのだった。


そんな風に始まるはずだった。

「いやその、自分でやれるから」

「でも、ムラなく塗るには他の人にやってもらった方がいいでしょ?」

応援団がグラウンドの真ん中で演舞披露を行なっている今。

本当に、日焼け止めを先に塗っとくべきだったと後悔している。

愛菜之が、俺に日焼け止めを塗りたいと言って聞かない。彼女の役目だ、私がやらなきゃ誰がやる、と言って聞かないのだ。

政治家の選挙運動の時の声かけみたいになってるけど、愛菜之先生に頼らなくても塗れますから。

「なんでそんなに嫌がるの? ……私のこと、きら」

「それはない」

食い気味に愛菜之の言葉に答える。その先は言わせんぞ!

「……じゃあ、なんで?」

「……や、それは……」

言えるか。言えるわけない。

愛菜之に触れる度に、愛菜之に触れられる度に、夏の夜のことを思い出すなんて。恥ずかしくて死ねる。

「言って。じゃないと、勝手に塗る」

「え!?」

いや、種目までまだ時間ありますよ? 性急すぎやしませんか? もうちょっと、強硬手段以外の何かがあったんじゃないんですか?

「さーん、にー、いーち」

「わぁっと! 言うから!」

なんか夏の時から気が強くなってる気がする。俺がお返ししたからか? そんなに根に持つと思ってなかったんだがなぁ……。

くぅ……言うって言ったからには、言うしかないんだろうな。なんでそんなに目をギラギラさせてんの。怖可愛いよ。

「…………夏休みの時のこと、思い出すんだよ」

「夏休みの時のこと?」

分かってるだろ。ていうか分かるだろがい。

「分かってるだろ」

「言ってくれないと分かんないよー」

あ、これ絶対分かってる言い方ですね。言ってくれないと分かんないったって、こんなとこで言うもんじゃないんだが……。周りには人も多いんだし。まだ体育祭も始まったばかりで、保護者は少ないけれど、それでも生徒が大勢いるわけで。

「言ってくれないと塗っちゃうよ?」

「ちょ、わかったから!」

腹括って言うしかないのか? 触られると思い出してしまって、アレがそびえたつせいで、立ってられなくなるし……。基本、座って競技を観るが、午前中は生徒会の仕事をしないといけないので立っている時間が多い。

一回思い出すと中々治らなくなってしまう。理由は分からない。愛菜之にそう仕込まれた……なんてことはない、と思う。そう思いたい。

「夏の時に、その、二人でそういうことした時のこと思い出して……」

「なんて? 聞こえないよ?」

小さめだが、愛菜之には十分聞こえる声量なんだが。なんでそんなにいじわるするんですか。泣くぞ。

「だから、俺と愛菜之でホテル行って……」

「もっと大きな声で言ってほしいなぁ。後、そんなにぼかさないで、具体的に言ってほしいなぁ」

聞こえてんじゃんか。もっと大きな声で? 具体的に? うーん、無理。

公衆の面前でそんな恥ずかしいこと言えるかっての。

俺がしどろもどろになっていると、愛菜之がどこから出したか、手に日焼け止めのチューブを持っていた。

無言でそのチューブから、日焼け止めを手に出す。そしてその手を俺に向けてきた。

「愛菜之?」

「……」

「あの、愛菜之さん?」

「…………」

「愛菜之さん!?」

ついに、その指が俺の鼻先に着こうとしていた。

急いで言わなきゃやばい。それしか頭になかった。

「だから! 俺と愛菜之が! 夏ん時に一線越えた時のことだよ!」

大きい声、ってわけでもないが、それなりの音量が出ていた。周りにいた人が驚きながら俺たちを見る。

ああ……言ってしまった、やってしまった……。

「そうなんだ。じゃあ、やめとくね。日焼け止め塗るの」

愛菜之がわざとらしくそう言って、日焼け止めのチューブをしまった。

周りの目が痛い。ヒソヒソとこっちを見ながら小声で何かを話している。俺が今言った言葉の内容について話しているのか、俺が突然大声を出したからか、元々俺たちが有名人だからかは知らないが、噂される俺は気が気でない。

愛菜之はというと、飄々としながら俺の体育服の袖を摘んで、これまた飄々としながら言った。

「生徒会の仕事、しよっか」




「死んだ顔してどうしたんだい」

「死にたい……」

疲弊した顔の俺に有人が声をかける。

「死なせないよ?」

愛菜之がガチトーンでそう言う。死なないで、とかじゃないんですね。死なせない、か。ありがたい限り……。

俺の腕に抱きつく愛菜之と、俯いて疲れ切った俺と、面白そうに見る有人。なにこの状況。テレビで紹介されそう。

で、なにが起きただが……。

仕事中は愛菜之に極力触れないようにしていたのだが、愛菜之がめちゃくちゃ距離を詰めてくる。その度に俺は避けて、愛菜之は俺に近づいて。

最終的には愛菜之は触れてこなかったが、心労がやばい。今は人が有人しかいないから、腕に抱きついている。まぁ心労のおかげか、俺のアレが大物になってしまうことはないのだが。

あと、有人の前でも触れるのやめてほしい。微塵も不思議に思わない有人もおかしいけど。

「仕事、そんなに疲れたのかい?」

「ああ、まぁそういうことで……」

俺の一言になにかを察したのか、おつかれ、とだけ言ってくれた。持つべきは友。

「仕事、ありがとね。もう行ってもいいよ」

「……そういやお前、なんの種目出んの?」

クラスが違うからなにもわかんないんだよな。コイツがでる種目があったら見てやろ。ついでに応援してやるかね。

「出ないよ」

「ワッツ?」

思わずアメリカ語が出た。いやなんだよアメリカ語って。

出ない? おかしいだろ。何かしら出るのが鉄則だろう。

「生徒会長特権」

きっっったな。

なにフフン、みたいな顔してんだよ。いいご身分だなこのやろう。いや良い身分なんだけど。

「生徒会の仕事を優先したいって言ったら、オーケーしてくれたんだ。やっぱり、僕は優等生だからね。信用されてるのさ」

「ほぉー……てことは、お前は一人この涼しい生徒会室でお仕事ってわけか」

「そういうこと。まぁ生徒会の仕事だけじゃないよ。先生の仕事をちょっとだけ手伝ったりしてる。それのおかげっていうのもあるかな」

策士め……俺だって涼しいとこで愛菜之とイチャイチャしてたいのに。

「でも、ここでずっと一人なの? みんなと一緒に思い出作りたい、とか思わないの?」

愛菜之が良いこと言った。さすが愛菜之。可愛い。

「別に、僕は思い出がすごく欲しいってわけじゃないからね。重士さんもでしょ?」

「そうだね。私が欲しいのは、晴我くんとの思い出だけだもん」

なにこの二人。なに通じ合ってるのかしら。

愛菜之と通じ合っていいのは俺だけなんだが。ていうか良いこと言ったと思ったら、思い出作りたいとか全く思ってなかったのかよ。

「ま、そういうことで。頑張ってね。応援しとくよ」

「へぇへぇ……」

なぁなぁな返事を返す。涼しい部屋で過ごしてるお前の応援なんぞいらんわい!

「私も応援するよ。晴我くん」

「めちゃくちゃ頑張る」

「扱いが違くないかな?」




「かっこよかったよ、晴我くん」

そう言って、愛菜之が俺の額の汗をタオルで拭ってくれる。ふわりとしたタオルの感触が心地いい。

俺は今さっき、徒競走を終わらせてきたところだ。足はそこまで速くもなければ遅くも無いという平々凡々なのだが、どういう訳か一位になってしまった。

この一位は、愛菜之の応援があってこそかもしれない。周りの、どの人よりも大きい声で俺を応援してくれていた。それで周りの奴らに揶揄われたりしたが、そんなのどうでもいいね。

その愛菜之だが、今は長い髪を一つにまとめている。ポニーテールというやつだ。その髪型も可愛くて写真を撮りたい。目にはとっくに焼き付けている。

「ありがとう。応援、聞こえてたよ」

そんな考えを抑えて息を整えながら言うと、少し顔を赤らめて上目遣いで聞いてきた。

「……め、迷惑じゃなかった?」

そう聞いてきた愛菜之の頭に、ぽんと手を置いて答える。

「嬉しかった。一位取れたのも、愛菜之のおかげだよ」

そう言いながら、自分が自然と愛菜之の頭に手を置いていたことに今更気づく。愛菜之が驚いたような顔をして、フリーズしている。それに気づき、慌てて手をどけて謝った。

「あ。す、すまん」

「……撫でて欲しかったな」

そんな可愛いことを言われたが、周りには生徒やその親が多くいる。俺には、こんなところで頭を撫でるなんて度胸はなかった。日焼け止めの時は、無理やり言わされたようなもんだし。

撫でるのは強制じゃないし、いや撫でたいけど周りの目がね?

撫でるかどうか悩んでいると、ピンポンパンポンと高い音が鳴り響いた。

『次は、一年生女子徒競走になります。一年生の女子は━━━』

「らしいし、後で、な?」

競技を言い訳に俺が逃げると、愛菜之が頬を膨らまして、ふふっと笑ってから

「ちゃんと、見ててね」

そう言って集合場所へ走って行った。




「どう!? 晴我くん! どう!?」

愛菜之たちの徒競走が終わり、退場してきた愛菜之が目をキラキラさせながら抱きつく勢いで俺のところまで走ってきた。まるで褒められるのを待つ犬のようだ。しっぽと耳がついているように見える。

「凄いな、一位なんて」

そう、愛菜之も徒競走で一位を取った。

嬉しいのだが、愛菜之が一位を取った瞬間、周りの連中がカップルで一位なんてやるねぇ! と、からかってきた。

そんな有象無象連中の言葉に適当に返して、愛菜之を迎えに来て、今。

「凄い? えへへ、晴我くんに褒められた」

「凄い、愛菜之凄い」

「えへへへへ」

俺が褒めれば褒めるほどにへっと笑い、照れる愛菜之の姿がとても愛おしく、何度でも褒めてあげたくなる。

「撫でて撫でて」

そう言われて、少したじろぐ。だが後でしてあげる、と言ったからにはしないといけない。

周りを見渡す。あまり人はいない。それにここはちょうど壁があるので見えにくい、はず。

ぽん、と愛菜之の頭に手を置き、それから優しく撫でる。さらさらとした髪の感触はいつ撫でても変わらず、気持ちいい。ずっと撫でていたい。

「んー……」

俺の手が動くと愛菜之が気持ちよさそうに声を漏らす。

目を細めてとても幸せそうにしている。撫でられて喜ぶ犬みたいだ。

「晴我くん」

そう俺の名前を呼んで、俺の胸に顔を埋めた。

「ちょっ、ま……今、汗臭いから……」

「私だって走ったばっかりだし、お互い様だよ」

「いや、愛菜之はいい匂いだし……」

なにそれ、と笑いながら言う愛菜之は、リラックスしたように強く顔を埋めた。

「晴我くんの匂いでいっぱいだ……」

スンスンと鼻を鳴らしながら、俺の匂いを嗅ぎ続ける。なぜか腰をもじもじさせている。なんか卑猥。

「撫でるの、やめないで」

「え?」

いつの間にやら、俺は撫でる手を止めていたらしい。しかし、急に抱きつかれては撫でる手も止まるというものだ。

頭に乗せたままの手を、言われた通り再び動かす。胸には愛菜之の顔の感触が、手には愛菜之の髪の感触が。

それだけでも十分幸せなのに。

「好き、好き。晴我くん、好き」

そう言ってくれるなんて、今すぐにでも俺は死んでしまいそうになる。

周りに人がいなくてよかった。こんなところ、誰かに見せたくない。それに、誰かに見られたら照れとか恥ずかしさとかで死んでしまいそうだ。

この時が永遠に続けばいいのに。触れ合って、愛を伝えあって。

けれど幸せな時間はそう長くは続かないらしい。

「写真、撮っていいですか!?」

すぐ隣に、とびきりの笑顔の猿寺がカメラを胸の前に持ってそう聞いてきた。




顔が熱いったらありゃしない。顔を手でパタパタあおぐ。

「さっきの、撮りたかったのに……」

少し、いや、かなり残念そうな顔でしょげている。

「ダメに決まってるでしょ、全く……」

その後ろで、ぽりぽりと首をかいてため息を吐く要先輩。

「なんで二人のことは放っといてあげようって僕が言った瞬間、走っていくかな……」

「あんな素晴らしいもの、撮るべきですよ! 逃すべきではないんです!」

「わかったから……いやわかんないけど。ほら、仕事に戻る」

先輩が呆れながら猿寺にそう言うが、仕事、とはなんだろうか。

「仕事ってなんですか?」

俺が聞こうとする前に愛菜之が聞いた。思考も同じか? 嬉しいすぎて死にそう。当たり前の疑問だけど。

「写真部の仕事として競技中の生徒の写真を撮らないといけないんだ。ただでさえ部員が少ないんだから、ここで油売ってる暇はないっていうのに……」

そう言って先輩は、はぁ、とまたため息を吐く。

「ちゃんと仕事もやりますから! これぐらい大目に見てくださいよ」

猿寺の反省していないその言葉に先輩がギロリと猿寺を睨む。

「君、そう言ってるけどカップルの写真しか撮ってなかったよね?」

「う……」

猿寺が痛いところを突かれた顔をして目を泳がせる。相変わらずでなんだか安心した。

「じゃあ、お邪魔して悪かったね。僕たちはこれで」

「え!? もうちょっとだけお話を……」

はぁ、と三度目のため息を吐いた先輩が、猿寺を睨む。

「し、ご、と」

「わ、わかりましたよぉ!」

若干泣きそうな猿寺が、ブツブツ言いながら先輩と一緒に校庭のほうへと向かった。その姿を見送り、愛菜之がぽつりと話す。

「……猿寺さん、仲良くやってそうだね」

「そうだな」

事実、前よりもかなり仲良くやっているように見えた。

あの頃───文化祭の頃とは大違いだった。俺たちも、あの二人のように進めているのだろうか。

「それはそうと、晴我くん」

そう言って愛菜之がくるり、と俺の方を向いた。ポニーテールが揺れて、一瞬見えた汗に濡れる彼女の首がなんだか色っぽかった。

「さっきの続き、お願いしても、いい?」

少し照れながらそう言う愛菜之の姿に締めつけられるような愛おしさを感じながら、俺も見惚れていたことがなんだか恥ずかしくて。それを誤魔化すかのように、愛菜之の頭をめいっぱい撫でた。




一年生の競技は全て終わった。この学校は一年生、二年生、三年生と順に競技を行なっていくので、一年の競技は全て午前中に終わる。

今はお昼休み、昼食の時間だ。

昼休みだけ教室を開放するという話だったので自分たちの教室に入ったのだが、誰もいなかった。

皆、親と食べてるんだろうか。俺は親が仕事人なんで来ない。行けないことをめちゃくちゃ悔しがってたけど。俺からしたら、子供の行事のために時間割くっていうのもよくわからないが。そういえば、愛菜之の親はどうなんだろう。後で聞いてみるかな。

「晴我くん、はやく食べよ」

そう言って愛菜之が自分の机と俺の机をくっつけ、自分の席に座る。そして、机の上に二つの包みを置いた。いつものように、愛菜之が俺の分の弁当を作ってきてくれていた。

「いつもありがとうな。愛菜之」

「晴我くんの分のお弁当、作らせてもらえるのは私の幸せだよ」

そうにっこりと笑い、首を傾げる。そんな嬉しいことを言ってくれる彼女を持って俺も幸せです。

だがしかし、幸せにされっぱなしというのもなんだか申し訳ない。あとなんか悔しい。俺だって愛菜之を幸せにしたい!

「実は、さ……」

俺も鞄の中から包みを一つ取り出して、机に乗せた。

「俺も、愛菜之に作ってきた」

バーン。なんつって。効果音が付くほど大層な物でもないし。

「……うそ」

愛菜之が目を見開き、口を手で覆って驚いている。思わずといった感じで、うそ、と声を漏らしていた。

「ほんとほんと。いつも俺ばかりが作ってもらってばかりじゃ悪いし、たまにはと思ってさ。ていうか、そんなに驚くこと……え?」

愛菜之が、愛菜之の大きな瞳から、大粒の滴が流れる。愛菜之が、泣いていた。

「え!? え、えと、嫌だったか!?」

俺が若干パニックになりながらそう聞くと、愛菜之がふるふると首を横に振る。

「う、嬉しすぎて……幸せ、過ぎて……」

そう言って、乱暴にぐしぐしと自分の涙を拭い、まだ涙が残る目を細め、とびきりの笑顔を作って俺に見せてくれた。そして、ほんの少し震えた声で、言ってくれた。

「大好き。晴我くん」




「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした」

二人でそう言い、顔を見合わせて二人ともふふ、と笑った。

愛菜之が、俺が持ってきた弁当の包みを愛おしそうに持ち、朗らかな笑みを浮かべる。

「ありがとう。晴我くん」

そう言って渡してきた包みを受け取りながら、俺は少しばかり照れる。

「そんなに礼を言わなくていいって。俺はこのぐらいしかできないしさ」

親が頻繁にいない俺は昔、弁当が必要な時は作ったりしたので、多少作るのには慣れていた。だが毎朝早起きして、しかも二人分弁当を作るというのはそれとは段違いに大変だろう。そんな大変な作業を毎朝毎朝してくれている愛菜之には、感謝してもしきれない。

「ううん、私ね。今すっごく嬉しいの。こんなに幸せな気持ちにしてくれるんだから、何回でもお礼を言いたいよ」

「礼を言わないといけないのは俺の方だ。毎日毎日、作ってくれてありがとう。それにいつも美味しいし、栄養もちゃんと摂れる献立だし」

愛菜之が作ってくれる弁当は毎回毎回中身が違う。同じ献立が二日続いたことがない。なのに、味付けは全て俺好みで、栄養バランスはバッチリだ。その上、冷凍食品とかが入ってない。俺の作ってきた弁当には入っている。冷凍食品無しだとハードルがめちゃくちゃ高くなるのに、毎日手作りというハイスペック彼女やべぇ。

「愛菜之はきっと、いいお嫁さんになれるよ」

なにも考えずにそんなことを口走っていた。言ってからなにを言っているんだ、と自分で自分を叱咤する。なに恥ずかしい口説き文句言ってるんだ。

「ほ、ほんと? 晴我くんのお嫁さんとして恥ずかしくないかな?」

愛菜之は少し恥ずかしそうに、嬉しそうに、頬を赤くさせてうなじをぽりぽりと掻いていた。

愛菜之が嬉しそうで良かった。

というか、愛菜之は俺と結婚するって決めてたんでしたね……。

「恥ずかしいどころか、誇らしいよ。愛菜之が嫁さんになるとか、幸せものだよ俺は」

そう言うと愛菜之は一層顔を赤くさせ、にへっとした笑顔でこう呟いた。

「宇和神、愛菜之……なんちゃって」

そんな可愛いことを言われた俺は、体にどうにもならないほどの喜びの感情が駆け巡る。体温が急激にあがったような気がした。

「それで、そのうち晴我くんとの間に、子供が出来て、私はお母さんになって、晴我くんはお父さんになって……えへへ」

愛菜之が追加で、またもとんでもないほど可愛いことを言い出した。

そろそろ俺も理性の限界なので、話題を逸らすために愛菜之に質問をした。

「あー、そういえばさ。愛菜之のお母さんとか、お父さんってどんな人なんだ?」

「私のお母さんとお父、さん?」

「そうそう」

相槌を打つと愛菜之はうーん、と人差し指を口元に当てて、思い出すように視線を斜め上に上げる。

「お母さんは普通の人だよ。世間的一般って感じのお母さん」

まぁ、どこのお母さんもあんまり変わりはしないよな。うちの母親は……仕事人間ってとこ以外大した特徴もないな。

自分の親のことを考えていると、愛菜之はまた少しうーん、と考えてから口をゆっくり開いた。

「お父さ、んは……」

言いかけて、最後まで言えていなかった。目が泳ぎ出し、愛菜之がハァ、ハァ、と荒い呼吸を繰り返しだした。苦しそうに顔を歪めて、とても寒そうに自分の身体を抱えた。

「お父、さんは……お父さんは…………あぅ……」

「愛菜之?」

俺が名前を呼んでも、その苦しそうな姿勢は、状態は変わらず、悪化していく一方だった。

「やだ、やだやだやだやだやだ、いかないで、やだ、一人に、しないで、やだ」

「愛菜之」

「こわい、やだ、ひとり、やだ、こわいよ、たすけて、たすけてたすけてたすけてたすけ」

「愛菜之!」

愛菜之の言葉を遮って叫ぶ。愛菜之が荒い息をしながら、俺の顔を恐る恐る見た。

「晴我くん……?」

俺の名前を、不安そうに、縋るように呼ぶ。

「そうだ、俺だ。近くにいる、大丈夫だ」

「こわいよ、ひとりが、こわい」

ガクガクと震える愛菜之を、俺は肩を掴んで言葉をかける。

布越しに触れる彼女の体が異常に冷えていた。そのことに驚き、事の異常さに慄く。

「大丈夫だ、大丈夫だから」

どうするべきだ、どうすればいいんだ。

どうすればいいかわからない。わからない自分が情けない。

そうだ、保健室に行くんだ。保健室に行けば保険の先生がいるはずだ。なにかあったら誰かを頼ればいい。

「愛菜之、ちょっとごめん」

「ん……」

愛菜之をおんぶする。華奢な体に、こわごわとしながら力を入れる。愛菜之はぐったりとしていて、そのせいで全体重がかかってきた。ぴたりと密着する体に、さらに焦る。愛菜之は、ひどく汗をかいていた。こんなにひどい状態だったのか、と唾を飲み、なおさら保健室に連れて行くべきだと、保健室へ出来るだけ急いで行った。




「なんっで……!」

怒りと焦りに声を出す。保健室の鍵が空いていない。そもそも今日は体育祭で、保健室の先生は外で待機していることに、冷静になれば気づけたはずだ。そんなことに気付けなかった自分に、また情けなさを感じる。

「くそ……!」

愛菜之の息が首にかかる。ひどく荒くて、不安定なリズムの息。

「愛菜之、大丈夫か? 愛菜之!」

名前を呼ぶが、返事が返ってこない。とんとん、と足を叩いてみると、ん……、と呻くような声が聞こえた。もしや、気を失っているのか。いや、気を失っている、というよりは寝ているのか。たぶんだが、一時的に眠りについて、身の危険を回避しようとしているのだろう。

危険を回避しようとしている体に、余計に焦る。それは、機嫌が迫っているという事なのだから。

「なんなんだよ……!」

悪態をつきながら校庭へ向かおうとする。焦りと彼女の疲弊したような吐息に、心臓がバクバクと忙しなく鳴る。

不安に押しつぶされそうになりながら、校庭へ向かうために振り返る。




その時だった。

「───おっ? 晴我じゃん」

スポーツ刈りの頭の男子が俺の名前を呼びながら、指でぐるぐると鍵を回しながら歩いてきた。

「表……!」

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