第31話

「しっかし、たまたま俺が道具を取りに行けって言われてよかったぜ」

そう言ってソファに腰を沈めた表がふぅー、と息を吐く。

「本当に、助かった」

俺が向かいの丸椅子に座ったまま頭を下げる。

それを見た表が手をぶんぶんと横にふりながら笑う。

「やめいやめい。こんぐらいのことで礼を言われちゃあこっちが申し訳ない」

「けど、本当に助かったんだ。あの時、表が来てくれなかったら……」

「……そんなに言うなら、礼をしてもらおうじゃねぇか」

そう言って表が仏頂面で俺を見ていた。

顔を上げてなにを言われるか待ち構えていると、ニカッと笑って、軽く言い放った。

「俺と今度の休み、遊びに行ってもらおうか」

「……え?」

もっとなにか、大変なことを要求されるものだと思っていたが、言われたことの内容に拍子抜けした。

「遊びに行くんだよ、遊びに。お前とは仲良くなりたいと思ったんだ俺は」

「……なんで?」

わけのわからないことを言う表に、俺が疑問に思ってそう聞くと、表が笑いながら続ける。

「好きな人のためにあそこまで必死になれる奴とは、仲良くなりたいと思ったんだ」

「……はぁ」

俺がなぜ表がそんなことを言うのか理解できないままそう返事をすると、表がおかしそうにガハハと笑う。

「お前、それを普通だと思ってそうだしな」

「……好きな人のために必死になるなんてそりゃ普通のことだろ」

それが普通で、常識で、一般的なことだろう。

「それを普通と思ってる時点で、お前は優しい人間なんだよ」

「なにいってんだお前」

マジでなに言ってんだコイツ。俺は優しくなんてない。そんなできた人間じゃない。

「好きな人のために必死になることを普通のことだと感じてる時点で、お前は立派な、できた人間なんだよ」

「……?」

俺がまだ分からないまま首を傾げると、表がまたおかしそうにガハハ、と笑った。

「ま、そういうことで! 遊び行く約束、覚えとけよ! そん時には彼女さんの話でも愛菜之さんの話でも聞かせてくれや!」

そう言ってソファから立ち上がった表は、鍵を机の上に置く。

「出てく時は鍵閉めよろしく! あ、鍵は放送席にいる保険の先生にでも渡しといてくれ」

そう一息に言って、さっさと保健室を出て行った。




目の前に広がる、赤い世界。

頰に打ちつけられる、冷たい、赤い液体。

大切な人が、大好きな人が、目の前で。

いやだ、こんなの、いやだ。

認めない、認めたくない。つらい、くるしい、こわい、かなしい、さびしい。

助けて、たすけて───




「愛菜之!」

叫ぶように名前を呼ぶと、愛菜之が目を見開いた。

汗に濡れる体育着に、額に張り付く前髪。心細そうな目で俺を見ていた。

「晴我くん……?」

俺の名前を、枯れた声で呼ぶ。俺の手に握りしめられた左手を見て、少し安心したのか、表情も少しだけ緩んだ。

「ここ、どこ……?」

「保健室だ。具合悪そうだったから、ベッドに寝かせた」

俺がそう言うと愛菜之は、申し訳なさそうに顔を歪めた。

「ごめん、なさい……。迷惑、かけちゃって……」

「……なに、言ってんだよ」

声に少し剣が混じってしまった。だが、途中で感情を抑えられなかった。

「困ってたら助けて、困ったら助けられて、助け合う。恋人って関係だろ、俺たち」

だから、と続ける。壊れてしまった感情のダムから流れ出す激情を、抑えられない。

「辛かったら、困ってるなら、苦しいなら、頼ってくれよ。俺は、愛菜之に頼られて迷惑なんて言わないし、思わない」

それとも、と俺はまだ言葉を繋げる。まるでそれは、トドメのように。追い討ちのように。

「俺は、頼れないほど信頼できないか? 信頼してないのか?」

そう言うと、愛菜之は唾を飲み、今にも泣きそうな顔になってしまった。

一息に言った俺は、酸素が戻るにつれて冷静になっていった。

不安な彼女になにを言っているんだ。自分の情けなさに、右手で髪の毛をぐしゃぐしゃとかき乱す。

「……ごめん。今のは、意地悪だった」

馬鹿みたいだ。そんな質問するなんて、俺が愛菜之を信頼してないも同然なのに。

愛菜之は、ただ本当に迷惑をかけたくないだけだったのだろう。分かっていた、分かっていたけど。それでも、俺は。

愛菜之に迷惑をかけてもいいと思われている存在でありたかった。




「……ごめんなさい」

謝ることしかできない。私は、晴我くんに迷惑をかけたくない。晴我くんの、迷惑になるようなことはしたくないのに。

昔のことが蘇って、取り乱して、心配させて。

「俺は、頼れないほど信頼できないか? 信頼してないのか?」

違う。信頼してる。心の底から。

なにをしても受け止めてくれる晴我くんが好き。私の気持ちを否定しないで、受け止めて、受け入れてくれる晴我くんが大好き。嬉しそうに、幸せそうに、私のことを抱きしめて、キスしてくれて、愛してくれる。

信頼していないわけが、ない。

それを伝えたくても、私は流れそうになる涙を堪えるのに精一杯だった。

今泣いてる姿を見せるのは、きっと卑怯だ。私は、涙なんかで晴我くんの気を引きたいわけじゃない。

「……ごめん。今のは、意地悪だった」

晴我くんが申し訳なさそうにそう言った。

大好きな人に、こんな顔をさせるなんて。

どうすればいいの。どうすればいつもみたいに笑い合えるの。

わからない。逃げたい。こんな、現実から。

答えを導き出せない、情けない自分から。

布団を頭まで被った私は、唇を噛んで、痛みと涙が出るのを堪えるしか出来なかった。

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